約束

 東の空が白みはじめ、村を囲む山々に鳥のさえずりが響く。

 憲兵隊の朝は早い。野営地を吹き抜ける早朝の秋風は肌に冷たく、天幕を出歩く隊員は皆、厚手の外套を身に纏っていた。


 朝一で村に水汲みに出たテオは、なみなみと満たされた水桶を両手に野営地に戻ると、中央にある司令部の天幕へと向かった。

 しんと静まり返る野営地を進むうちに、何度か見知った顔とすれ違う。見張りから戻り、これから眠りにつくのか、眠たそうにあくびをしながら天幕へ向かう者もいた。


「あの……」


 消え入るようなか細い声だった。これが早朝の静けさの中でなければ、おそらくきっと、気付きもしなかった。

 声の主を捜し、テオがあたりを見回すと、たった今、前を通り過ぎた天幕の中から、見覚えのない女性が顔を覗かせていた。

 野盗の隠れ家で憲兵に救助された女性たちのひとりだろう。彼女は泣き晴れた目でテオを――正しくは、テオが手にしていた水桶をみつめて言った。

 

「顔を洗いたいの。身だしなみも整えたいわ。こんな格好じゃ、外を出歩くことも出来ないもの」


 そう口にして、天幕の隙間から半身を覗かせる。

 ぶかぶかのローブから伸びた白い手脚に心臓がどきりと跳ね上がり、テオは慌てて目を逸らした。男物の衣服を一枚羽織っただけのその姿は、たいそう艶かしいものだった。

 通常の任務であれば、野盗の討伐の際に保護した被害者は王都に連れ帰るか、または、近隣の街や村に保護してもらう。

 だが、今回は勝手が違っていた。テオたちの部隊は討伐を終えるままに襲撃された村へと向かわなければならず、保護された女性たちに充分な対応ができなかった。結果として、彼女らはろくな衣類も身に付けられず、野営地で一夜を明かすことになったのだ。


 女性と水桶を何度か見比べたあと、テオは水桶のひとつを天幕の入り口に運んでやった。


「ありがとう……」


 ほっと胸を撫で下ろすように息をつくと、震える手で水桶を受け取り、女性は天幕の中へと戻って行った。

 気丈に振舞ってはいたが、長いあいだ野盗の隠れ家で性欲の捌け口にされ続けてきたのだから精神的に壊れてしまってもおかしくない。この状況で、よく堪えているものだ。

 揺れる天幕の布をみつめたまま立ち尽くす。やがて大きく溜め息を吐くと、テオは水桶を抱えて指令部へと向かった。




***



 木製の机に向かい、書類に目を通していたオルランドは、ペンを握る手を止めて考え込んだ。

 机を挟んで向かい合うテオは、そわそわと落ち着かない様子でオルランドの答えを待っている。

 森で保護した女性の扱いに関し、全く配慮が行き届いていなかったことを、たった今、新米のテオに指摘されてしまった。早めに任務を終えて王都に帰還するつもりではいたが、確かに現状のまま放っておくわけにもいかないだろう。

 エストフィーネの村に行けば女性用の衣類は調達できるだろうが、それでは襲撃を受けた村から物品を奪うことになる。仕方のないことではあったが、気が進まないのも事実だった。

 調達を行うのであれば、遺体の処理に向かう人員から人手を割かなければならない。あるいは、人員外の者に手伝いを頼むか――。


「……そのほうが都合が良いかもしれないな」


 呟いて席を立つと、オルランドはテオにアルバーノへの言伝を託した。


 気の回る副隊長のことだ。言伝ことづてさえ伝えられればオルランドが司令部を留守にしても問題ないだろう。

 外套を羽織り、司令部の外に出ると、オルランドは野営地の片隅に建つ小型の天幕へと向かった。




***



「マリア」


 敬礼する隊員を退がらせて、オルランドは天幕の中へと声をかけた。

 僅かな沈黙のあと、入り口を覆う布が静かに持ち上げられ、隙間からマリアが顔を覗かせた。眠っていないのか目元が少し腫れている。昨夜の血に塗れた衣服ではなく、シンプルな大きめのローブを身に纏っていた。アルバーノが用意した替えの服はマリアが着るには些か大きかったようで、袖や襟元がだぶついていた。

 天幕の外でオルランドと向かい合ってからも、マリアは度々視線を動かしては中の様子を気にかけていた。


「彼の様子はどうだ?」


 躊躇いがちに伸ばしたオルランドの指先がマリアの手に触れると、彼女は俯いて首を横に振った。


(一度、譫言のように名前を呼んでくれたきり。まだ目を覚まさない)


 気落ちした様子で呟いて、再び足元へと視線を落とすと、マリアはそれきり黙り込んでしまった。

 僅かな沈黙のあと、オルランドが口を開いた。


「森で保護した女性達のために女物の衣類を調達したい。こんなときにすまないが、手伝ってはもらえないだろうか」


 眠ったまま目を覚まさない『彼』のことがある。すんなりと引き受けることはないだろう。

 予想通り、マリアは困惑した様子でオルランドの顔を見上げ、訴えるように呟いた。


(彼が目を覚ますまで、傍に居たい)


 罪悪感に苛まれているような、悲痛な面持ちだった。

 本来ならば、憲兵隊と無関係のマリアにはオルランドの頼みを聞き入れる義理など全くない。これまでにも、隙を見計らって姿を眩ましたとしても何ら不思議ではない状況が何度もあった。

 けれど、マリアはオルランドに対し、人捜しを手伝って貰ったという恩を感じている。馬鹿正直で義理堅いマリアは、恩人であるオルランドの頼みを無碍にできないのだ。エストフィーネに向かう道中で、マリアがオルランドの頼みを快く引き受けた理由も、きっとそこにあるに違いない。

 そう判断し、オルランドは冷静に言葉を返した。


「眠っていないのだろう? せめて気分転換をしたほうがいい。……尤も、あの村に行くことがきみの気分転換になるとは思えないが」


 一言付け加えて、苦笑して見せた。


「私は理由わけあってここを離れることができないが、きみの代わりに彼の様子を診ておくことはできる。どうか頼みをきいてもらえないだろうか」


 オルランドが説き伏せるように言葉を連ねる。再び訪れた僅かな沈黙のあと、マリアは気乗りしない様子で頷いた。



 小走りに村へと駆けていくマリアを見送って、オルランドは大きく息を吐く。

 どうしても、彼女をこの場から遠ざけなければならなかった。未だ眠り続けているあの男の処分を決めるために。


 彼女が何と言おうと、あの男が人間に危害を加えない証拠にはならない。例え正当防衛であったとしても、あの惨たらしい光景を作り出したという事実だけで、人に害なす異種族として軍法会議にかけるには充分だった。



「すまない、マリア……」


 腰に携えた剣の柄を撫で、握り締める。

 オルランドは意を決し、天幕の中へと踏み込んだ。



***



 重いまぶたを開いて、ゼノは二、三度瞬きをした。

 あたりが薄暗いのは、天井から広がった布に周囲が覆われているからだろう。どうやらここは天幕の中のようで、ゼノは地べたに敷かれた厚手の布の上に寝かされていた。視線をめぐらせるが、目に見える範囲に人はいないようだ。

 僅かにたゆむ布の向こう側から、人の話声が微かに聞こえていた。声の主は恐らく男性だが、相手の声は聞こえない。


 大きく息を吐き、目を閉じて、ゼノはこれまでの記憶を辿った。

 焼き討たれた村を歩いて周り、丘の上で死者へ花を手向けた。坂道を下り、湖のほとりで横になって――


 そこから先の記憶はなかった。

 熟れた果実が赤黒い汁を撒き散らし、次々に目の前で爆ぜていく夢をみていた。ただひたすら不快なだけの夢の終わりに、懐かしい声を聞いた気がする。


 ふたたび閉じたまぶたの裏に、淡い光に包まれた彼女の笑顔が浮かび上がる。もう一度眼を開けようとした、そのとき、入り口を覆っていた布が勢い良く開かれて、黒い影が飛び込んできた。

 逆光でその影の主の顔を確認することは出来なかった。ゼノは咄嗟に目を閉じて、眠っている振りをした。

 砂利を踏みしめる音がゆっくりと近付いて、ゼノのうえに影を落とした。

 眠ったふりを続けるゼノの顔を覗き込んで、は言った。


「まだ、眠ってる?」


 囁きに似たその声には聞き覚えがあった。記憶に残る懐かしい笑顔が鮮明に蘇り、ゼノは目を見開いた。

 腰まで伸びた朱紅い髪がふわりとなびく。天幕を出ていく彼女の背中を、ゼノは呆然と見送った。

 声をかけることなどできなかった。都合の良い夢をみているのではないかと思った。

 彼女が里の外に居るはずなど、あり得はしないのだから。


 マリアンルージュはゼノの故郷で唯一の、未婚の成人女性だった。子が生まれない竜の里で、姫か女王のように持てはやされ、何一つ不自由のない暮らしを送っていたはずだ。

 ゼノが知る限り、里の住人は皆、彼女に好意的だった。男勝りで女性らしさに欠けるところもあったけれど、持って生まれた美しさと無邪気な性格で、その欠点すら彼女の魅力のひとつになっていた。

 全ての者に愛されて恵まれた生活を送り、幸せな未来を約束されていた彼女が、里を降りるわけがない。



「お目覚めのようだな」


 唐突に男の声が響く。素早く身を起こし、ゼノは反射的に身構えた。

 考えることに夢中で、天幕に人が入ってきたことに全く気付いていなかった。きっちりと制服を着込んだ小豆色の髪の男が、出入り口を塞ぎながらゼノを見ていた。


「そう嫌な顔をしないでくれ。きみと話がしたいだけだ」


 口にした言葉とは裏腹に、その声には明らかな敵意が含まれていた。

 腰に携えた剣の柄に手を掛けたまま、男が数歩前に歩み出る。おそらくこの距離が彼の間合いなのだろう。


「レジオルド憲兵隊第十七隊隊長、オルランド=ベルニだ。きみの名を聞こう」


 朗々とした口調で名を名乗るオルランドの声には、有無を言わさぬ気迫があった。


「……ゼノ」


 低く唸るように呟くと、オルランドはゼノを見下ろしたまま、淡々と冷めた口調で話し続けた。


「珍しい名だな。……単刀直入に訊かせてもらうが、エストフィーネの村に火をつけたのはきみか?」


 オルランドの問いに、ゼノは無言で首を振った。


「では、街道を隔てた森の奥で、野盗の一味を惨殺したのは?」


 続けて問われ、言葉に詰まる。

 鉄錆と酒の臭いに満たされたあの光景を思い出し、胸の奥から不快なものが込み上げた。

 およそ人間の仕業ではあり得ない野盗の隠れ家の惨状を、そしてその犯人がゼノであることをこの男は知っている。

 答えようによっては厄介なことに成り兼ねなかった。


「沈黙は肯定と同じだ。きみがやったんだな?」


 問いに答えず苦い表情を浮かべるゼノに、オルランドが再度確認の言葉を突きつける。誤魔化しは効かないと判断し、ゼノは観念したように頷いた。


「……仕方がなかった」


 あの状況で、捕らわれた三人を無事に救い出す方法など、ゼノには考えつかなかった。

 鉄格子の牢を抜け出し、誰一人傷つけることなく逃げ果せる。そんな奇跡が起こせたら、どんなに良かっただろう。

 けれど、今ここでそんな弁解をしたところで意味はない。

 異種族を畏怖し、言葉の通じない猛獣と同列に扱う人間が、ゼノの言葉を信じるはずもないのだから。


(いざとなれば……)


 目の前の男の頭部が、赤い飛沫を散らして弾ける様が脳裏をよぎる。

 いとも容易くその光景を想像できてしまう自身の思考に、ゼノは悍ましいものを感じた。


 僅かな沈黙のあと、まだ納得し難いと言いたげな表情のまま、オルランドが口を開いた。


「ではもうひとつ聞かせて貰おう。我々の部隊に朱紅あかい髪の女性が同行している。彼女のことを知っているか?」

「朱紅い、髪……?」


 オルランドの問いに、ゼノは伏しがちだったまぶたを大きく見開いた。

 ゼノが知る限り、該当する人物はひとりしかいない。気が付いたときには、無意識に彼女の名前を口にしていた。


「マリアンルージュ……」

「我々にはマリアと名乗った。炎を操る異種族の女性だ」


 ゼノの口からその名前が出るのを待ち望んでいたかのように頷くと、オルランドは淡々と言葉を連ねた。


「我が国は異種族には寛容だ。ただこの土地に迷い込んでしまっただけの彼女の身の安全は保証できる。だが、人間に危害を加える異種族を野放しにしておくほど、我々も甘くはない」


 威圧的に眼を細め、右手で剣の柄を握る。


「きみ異種族、……そうだな?」


 返答を待たず、その切っ先がゼノの喉元に突き付けられた。


「……だとしたら、どうするんですか?」


 喉元を掠める剣先に臆することなくゼノが詰め寄ってみせると、オルランドは僅かに眉を顰め、剣を退いた。口にした言葉とは違い、ゼノを傷付けるつもりは無いらしい。

 依然として剣を突き付けたまま、オルランドは続けた。


「目的を聞こう。何故きみたちはこの国に来た?」

「きみ……?」


 その問いは、未だマリアンルージュがこの地に居ることを信じられないゼノにとって、不可解なものでしかなかった。


「質問の意味がわかりません。マリアンルージュと俺は無関係、赤の他人です」

「そんな筈があるか! マリアは人間のことを何も知らずに、その身を危険に晒してまできみを捜していた。眠ったまま目を覚まさないきみを、夜を徹して見守っていた。無関係な者の為にできることではない!」


 嘘偽りなく答えたつもりだった。だが、ゼノの答えはオルランドを憤らせるものだったらしい。

 興奮して捲し立てるオルランドは、先刻までの冷静な彼とは別人のようだった。けれど、ゼノはその豹変ぶりよりも、オルランドの口から語られたマリアンルージュの行動に驚いていた。


 竜の里では外界の偵察は若い男の仕事であり、女子供が里を離れることは殆どない。男衆に紛れて狩りに出るなど、彼女が里の周辺まで足を伸ばしていたのは知っていたが、それでも決して人間が立ち入ることの無い結界の張られた森に出る程度だったはずだ。

 当然、彼女には里の外に関する知識がなかった。

 そんな彼女がたったひとりで里を離れ、結界を抜けて森の外に出た。しかも彼女は、殆ど面識など無かったゼノを捜していたと言う。

 そのような話、ゼノには信じられなかった。


 彼女が里の住人に求められる存在であったのに対し、ゼノは里で忌避される存在だった。

 共通するものなど何も――

 

 考えて、ようやく思い至った。

 遠い祭りの夜に昇華されたはずだったその想いが、未だ健在だったことに。


「そうか、イシュナード……」


 絡まった思考を整理して、ゼノはオルランドに向き直った。確信はないけれど、考えついた答えはゼノが導き出せるものの中で一番納得のいくものだった。


「確かに、そうでした。俺と彼女は無関係に等しいですが、恐らく同じ目的でここに居る」

「目的とは何だ」

「行方を眩ましたイシュナードを捜しだすこと……」

「イシュナード……?」


 聞き覚えがないと言うように、オルランドが眉を顰める。力強く頷いて、ゼノははっきりとした物言いで告げた。


「俺の親友であり、彼女の想い人だった男です」



 剣先が微かにぶれる。オルランドの確かな動揺が見て取れた。


「……その男を捜し出すために、きみの存在が必要不可欠だったと言うのか」


 オルランドの言葉に、ゼノは無言で頷いた。

 イシュナードが残した手掛かりは、おそらくゼノが持つ一冊の本のみだ。マリアンルージュが本の存在を知っていたとは思えないが、ゼノが里を降りたことを知った彼女は、イシュナードの行方に関する手掛かりをゼノが何らかの形で得たことを確信したのだろう。


 迷いのないゼノの表情からその言葉を信じる気になったのか、ゼノが逃げ出さないと踏んだのか。僅かな沈黙をおいて、オルランドは突きつけていた剣を鞘に収めた。

 険しい表情はそのままだったが、落ち着きを取り戻し、淡々とした口調で語り出す。


「我々は任務が片付き次第王都に帰還する。その際、きみたちを護送し、軍議にかけなければならない。素性の知れない異種族と遭遇した際に適用されるこの国の法に則って。……マリアに罪を問うつもりはないが、多くの人間を死に至らしめたきみには極刑が下されるだろう」


 冗談ではないとゼノが動くよりも先に、それを制するようにオルランドが声を張り上げた。


「もし、きみがマリアの目的のために尽くし、彼女を守ると言うのであれば、私は今ここできみを見逃しても構わない」


 オルランドが発した言葉が、ゼノには理解できなかった。

 法に従い刑を下すのではなかったのかと、訝しげな視線をオルランドへ向ける。


「きみが極刑を受けたとして、彼女ひとりでその男を捜すにはこの世界は危険すぎる。きみは彼女とは違う。人間の言葉を使い、特殊な能力を無闇に扱うこともない。この世界で身を守る術を知っている」


 黙り込んだゼノを見据え、オルランドは続けた。そして最後に、懇願するように彼に告げた。


「彼女を守れ。悪い条件では無い筈だ」


 絞り出すようなその声は、捕らわれたレナをゼノに任せたときのヤンのものと似ていた。自身の無力さを理解し、誰かに希望を託すときのものだ。

 オルランドとマリアンルージュは出会って間も無い間柄のはずだ。けれど、少なくともオルランドは真剣に彼女の身を案じていると、そう感じ取れた。


「……元より、そのつもりです」

「信じよう。絶対に彼女を危険な目に合わせない。そう約束してくれ」


 念を押すように告げると、オルランドは大きく息を吐き、先刻までの険しい表情とはうって変わった柔らかな笑みを浮かべた。

 天幕のなかを満たしていた緊迫した空気は、いつの間にか消え失せていた。


 去り際、緊張で強張った身体をほぐすようにぐんと伸びをして、オルランドはゼノを振り返り、清々しい声音で告げた。


「実を言うと、内心冷や冷やものだった。なにせきみは、あれだけの数の野盗を無傷で惨殺してしまうような化け物だからな」



***



 そよ風が街道を吹き抜けて、黄金色の草叢が海のように波を打つ。秋晴れの空は高く、黄金色の草の海と水平線を分かつていた。

 亜麻色のマントをたなびかせながら街道を進んでいたマリアンルージュが、風に躍る朱紅い髪を抑えて後方を振り返る。


「のんびりしてると日が暮れてしまうよ」


 彼女は朗らかに笑い、幾分遅れて街道を歩くゼノを急かした。小さく肩を竦め、ゼノが歩調を早める。


 ふたりが憲兵隊の野営地を離れてから、すでに数時間が過ぎていた。王都へ帰還する憲兵隊とは向かう方角が真逆であったため、ふたりは憲兵隊の出立を待たずに野営地を出てきてしまった。

 見送りに立ったオルランドと、その部下の姿が思い出される。

 別れの握手を求めて差し出されたマリアンルージュの手を躊躇いがちに握ったオルランドの、名残惜しそうな表情が目に浮かんだ。

 

「ろくに挨拶もせずに出てきてしまいましたが、本当に良かったんですか?」


 マリアンルージュの隣に並び、心配そうにゼノが尋ねた。


「いいんだ。あまり長居しても迷惑だろうし」

「まぁ、そうかもしれませんね」

「それにあの人、お人好しだから」


 マリアンルージュがくすりと笑う。

 鈍感だなと思いつつ、ゼノは小さく息を吐いた。


 オルランドと彼女のあいだに何があったのかは判らない。けれど、多少言葉を交わしただけのゼノでさえ、オルランドが特別な想いをマリアンルージュに寄せていたことにはすぐに気が付いたものだ。


「好意を寄せられることに慣れ過ぎているというのも、困ったものですね」


 皮肉に呟いてゼノが隣に目を向けると、マリアンルージュはいつの間にか軽やかな足取りで数歩先を歩いていた。


「マリアンルージュ」


 呼び慣れない彼女の名前を呼ぶ。

 同じ里で育ったとはいえ、ゼノとマリアンルージュは一度言葉を交わしただけの赤の他人だった。


 同じ人物を捜している。

 ただそれだけの、小さな縁で結ばれた奇妙な関係。

 それなのに、独りのときとは違い、不思議と心が軽くなる。


「マリアンルージュ!」


 もう一度、今度は大きな声で名前を呼んだ。

 踏み出しかけた足を止め、彼女がくるりと振り返る。


「全くもって、きみは他人行儀だな」


 僅かに頬を膨らませ、彼女は不愉快だと言いたげにゼノに指先を突きつけた。


「そんな長い名前を呼ぶのは面倒だろう。マリアでいい」

「……別に面倒なほど長くもないと思いますが」

「マリアでいい」

「はぁ……」


 鈍感なくせに、強引だ。

 溜め息をひとつ堪え、ゼノは心の中で呟いた。


「マリア」


 試すように口にすれば、マリアンルージュは満足気に頷いて、にっこりと笑う。

 こんなに馬鹿らしい、砕けた会話をしたのはいつぶりだろう。

 いなくなった親友との日々を懐かしみながら、ゼノは赤い本の表紙を撫でた。



「そういえばその服、酷い臭いがする」


 くんと鼻をひくつかせ、唐突にマリアンルージュが言った。ゼノのコートの臭いを嗅いで、眉間にシワを寄せてみせる。

 野盗の隠れ家で返り血を浴びたまま洗っていないのだから、臭うのも当然だ。そう思いながらもついつい袖を嗅ぎ、あまりの異臭にゼノは眉を顰めた。


「街に着いたら新調しよう」

「誰がお金を払うんですか」

「お金?」

「……」


 まずは人間の世界の常識と、守るべきルールを教えなければ。

 それから言葉。

 それから……、必要なことを、全て。


 額に手をあて、溜め息を吐くゼノを他所に、マリアンルージュは弾むように街道を駆けていく。

 慌てて彼女のあとを追い、ゼノは思った。


 ――まぁ、こんな二人旅も悪くはない、か。


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