懐かしい声

 街道の先に点々と浮かぶ明かりを頼りに、オルランドは隊を率いて月に照らされた夜道を進んだ。

 夜空を流れる雲が月を隠し、時折あたりを暗闇で覆う。エストフィーネ村の付近に設営された憲兵隊の野営地には大型の天幕が幾つも張られており、周辺を照らすように掲げられた松明がその存在を知らしめていた。月明かりを頼れないこのような夜には、人工的な灯りの存在が心強く感じられる。

 ようやく野営地に辿り着いたオルランドの部隊を、休息を取っていた憲兵隊の面々が迎え入れた。集まった隊員のあいだをすり抜けるようにしてオルランドの前に進み出たのは、オロステラで別れて以降、エストフィーネ行きの部隊を取り纏めていた副隊長のアルバーノだった。


「隊長、ご無事で何よりです」


 軽く敬礼したあと、アルバーノはエストフィーネ村の現状と捜査状況を報告した。オルランドは提示された案件にひとつひとつ指示を出し、全ての隊員に交代で休息を取らせるようアルバーノに命じた。

 明るくなり次第、生存者の捜索と遺体の搬送準備を始めなければならない。移動と捜索続きで疲労が蓄積されているであろう隊員達には、今のうちに休息を取らせる必要があると、オルランドは考えた。


「了解しました。失礼します」


 業務連絡を終えるとアルバーノは踵を返し、隊員の集まる大型の天幕へと歩き出した。遠ざかる背中を一瞥し、小さく息を吐いたあと、オルランドは弾かれるように顔を上げ、アルバーノに慌てて声を掛けた。



***



 松明と焚き火で明るい野営地とは対照的に、エストフィーネの村は夜の闇にとっぷりと浸かっていた。

 雲間から射す月の光で闇の中に浮かび上がるアーチ状の門の影。その傍に、彼女はひとり佇んで居た。


「こんな闇夜に一人きりで、怖くないのか?」


 手にしたランタンを掲げ、オルランドが声を掛けると、ぼんやりと空を見上げていたマリアが小首を傾げて振り返った。オルランドの姿を確認して、彼女は静かに首を横に振る。その姿はどこか儚げで、淋しそうに見えた。


 アルバーノの話によれば、陽が高いあいだ、マリアは憲兵隊の作業を見様見真似で手伝っていたらしい。けれど、日暮れとともに野営の準備が始まると、言葉の通じない彼女が手伝うには些か難しい作業ばかりになってしまったようだ。それでも暫くの間は所在無さげに野営地の隅に佇んでいたらしいが、野営の準備が終わった頃には、いつの間にか姿を消していたという。

 その後、村へ水を調達しに行った隊員から、村南口の門の近くで彼女を見かけたとの報告があったらしい。


 オロステラでの別れ際、オルランドは彼女に尋ね人の手掛かりを必ず伝えると約束し、村で待つようにと言いつけた。

 危険な森に彼女を連れて行くわけにはいかなかったというのは本当だ。だが、あの約束にはそれとは別の意味もあった。

 オルランドが部隊を離れているあいだ、彼女が行方を眩ますことのないように。彼女を繋ぎ止めておくために、オルランドはあの約束をしたのだ。

 その甲斐あってのことだろう。マリアは部隊に留まり、こうしてオルランドの帰還を待っていた。

 彼女には異種族特有の能力を使用しないよう言いつけてあった。炎のちからは当然として、精神感応の能力も絶対に使わないようにと。

 それは、異種族に少なからず恐れを抱く隊員から彼女の身を守るための忠告だった。けれど、その結果、彼女は意思疎通の出来ない大勢の他人の中に置き去りにされるかたちになってしまった。

 頼れる者も居らず、彼女はさぞ心細い思いをしたに違いない。


「待たせてしまってすまなかった」


 謝罪の言葉を口にして、オルランドはマリアに歩み寄った。ランタンの灯りが彼女を照らす。暗闇に浮かび上がるその姿を改めて目の当たりにし、オルランドは顔色を急変させた。

 オルランドを見上げる彼女の頬には掠れた血の痕が残っており、身に纏った衣類のあちこちが赤黒く染め上げられていた。


「怪我をしたのか!?」


 衝動的にマリアの両肩を掴み、オルランドはマリアに詰め寄った。

 大きく見開かれた翡翠の瞳にオルランドの姿を映し、マリアが僅かに後退る。けれど、オルランドのただならぬ様子が彼女の身を案じたゆえのものだとすぐに理解したのだろう。マリアはオルランドの顔を見上げ、穏やかに微笑んだ。


(大丈夫、怪我なんてしてないよ。手伝いをしていて汚れてしまっただけだ)


 肩を掴む無骨な手にそっと触れ、マリアは静かに目を伏せた。泣き止まない子供を宥めるような優しい声は、オルランドの逸る気持ちを幾分落ち着かせてくれた。


 考えればすぐに判ることだった。

 アルバーノはマリアが作業を手伝ったと言っていた。隊員と意思の疎通が叶わない彼女は、当然作業衣のことなど知り得ない。結果として、そのままの服装で生存者の捜索と遺体運びを手伝うことになったのだろう。

 言葉が通じなくとも作業衣くらい渡せば良いだろうにと、無意識に拳を握る。

 一方的にマリアを任せたオルランドが言えた義理ではないが、平常時なら人一倍気が回るアルバーノだからこそ、今回の件については納得がいかなかった。寧ろこの状況が意図的なものであるような、そんな気さえしてくる。


 もし仮に、アルバーノは気が回らなかったのではなく、敢えて気を回さなかったのだとしたら……?



「隊長、ここでしたか」


 不意に掛けられた声に、オルランドは振り向きざまに身構えた。布袋を抱えたジルドと木製の水桶を提げたテオが、野営地の明かりを背にこちらに向かって来るのが見えた。


「アルバーノさんに頼まれました。これ、彼女の替えの服だそうです。それからついでに、村から水を汲んできていただきたいとのことです」


 いつになく取り乱した様子のオルランドを訝しげに見据えながら、淡々とジルドが告げる。手渡された水桶と布袋を受け取って、オルランドは苦々しく笑んだ。



***



 虫の鳴き声ひとつしない静まり返った村の通りを、オルランドはマリア連れて歩いていた。

 道の両脇に立ち並ぶ住人を失った家屋の扉や窓が、夜の風に煽られて、時折軋むような音を立てる。空を覆っていた雲はいつの間にか風に流され、月明かりがぼんやりと闇の中に村の全景を浮かび上がらせていた。

 手にしたランタンで道の先を照らし、もう一方の手には空の水桶を提げて、度々村の見取り図を確認しながら、広場へと続く坂道を登る。オルランドから半歩遅れて、替えの服が入った布袋を抱えたマリアが歩いていた。

 凄惨な襲撃事件の直後だと言うのに、オルランドには静寂に包まれた村が不気味に感じられない。これまでの任務でこういった状況に慣れてしまったこともあるが、それ以上に、アルバーノの不可解な行動の真意に気がついてしまったことが大きく影響していた。


 ――そういうことか。


 平常時のアルバーノならば、やはりマリアに作業衣を貸し与えていたのだ。だが、彼は今回、敢えてそうしなかった。

 肌や衣類が血にまみれることを厭わずに作業を手伝うマリアを見て、アルバーノは考えたのだ。森から戻ったオルランドが、自然な流れでマリアとふたりきりになる状況を作り出す筋書きを。


 余計な世話にもほどがあった。

 つまるところ、隊員の数名、少なくともアルバーノとジルドは、オルランドがマリアに対して特別な想いを抱いているものだと勘違いしているのだろう。

 確かに、出会いが特殊だったぶん接し方も特異なものになってはいるが、オルランドが彼女に対して抱いている感情は恋愛のそれではない。彼女が無知で危うい存在であるが故に、世話を焼いてしまっているだけだ。

 オルランドは深々と溜め息をつき、隣を歩くマリアの様子を盗み見た。


 真っ直ぐに前を見据えたまま、マリアは軽やかな足取りで坂道を歩いていた。

 月明かりを浴びて青みがかる柔らかな朱紅い髪は腰にかかるほど長く、彼女が足を踏み出すたびにふわりと風に揺れていた。長い睫毛に縁取られた翡翠の瞳は夜の明かりに反射してきらきらと輝き、薄紅色の唇は瑞々しく潤いを保っている。村娘のような野暮ったい服の上からでもよくわかる、くびれた腰からの柔らかな丸みを帯びるラインは、少女と言うより成熟した大人の女性を思わせた。


 確かに、マリアは美しい。今迄にオルランドが救ったどの村の娘よりも、社交の場で出会ったどの女性よりも、娼館で抱いたどの女よりも、純粋で輝いて見えた。

 袖口から伸びたほっそりと白い腕は、触れればさぞやわらかく、しっとりとなめらかなことだろう。吸い付くような肌の感触を想像し、オルランドは慌てて首を振った。

 任務続きで疲れているのか、余計な気を遣われた所為か、意識せずとも如何わしいことを考えてしまいそうになる。

 大きく息を吐いてもう一度隣に眼を向ければ、オルランドの視線に気付いたマリアがにこやかに微笑んだ。無防備な笑顔に気恥ずかしさがこみ上げて、オルランドは意味もなく顔を背けてしまった。


 実に馬鹿馬鹿しい!

 年甲斐もなく無意味に焦る自分自身に、オルランドは苛立ちを覚えていた。

 思春期の少年でもあるまいし、このような感情を今更抱くなど、あまりにも滑稽ではないか。

 万が一オルランドが彼女に想いを寄せたとして、まだ二十歳はたちかそこらであろう彼女に対し、オルランドの年齢は三十に差し掛かる。政略結婚ならば良くある年齢差だろうが、そのような世界とは無縁な彼女からすれば、こんな年の離れた男からの好意など迷惑甚だしいはずだ。


「……オルランド?」


 不意に名前を呼ばれて振り返ると、マリアが心配したようにオルランドを見上げていた。


「すまない、少し疲れたようだ」


 慌てて笑顔を作り、見取り図を確認する。

 この通りを道なりに歩けば、やがては中央広場に行き当たる。アルバーノの報告が正しいのならば、その広場は件の襲撃で大勢の村人が犠牲になった場所であり、今も犠牲者の遺体が無数に安置されている。

 幾度となく野盗の襲撃に曝された村を見てきたオルランドだが、このような時間に多くの遺体が置かれた場所を通ることには未だに抵抗があった。

 村の地理に詳しくない以上、出来ることならこのまま広場を通り抜けたいところだが、平和な土地で育ったであろうマリアにとっては、相当耐え難い状況になるだろう。

 迂回するべきかどうか暫し考え込んだあと、オルランドはマリアに判断を委ねることにした。先刻からオルランドの隣で様子を窺っていたマリアの手を取り、傍に引き寄せると、オルランドはランタンの灯りで見取り図を照らしてみせた。


「このまま進むと中央広場に突き当たる。昼間のうちにきみたちが村人の遺体を運び集めた広場だ。抵抗があるようなら、時間はかかるが迂回することもできるが、私もこの村には詳しくない。……このまま進んでも大丈夫だろうか?」


 オルランドが問うと、マリアは村の見取り図を覗き込み、大きく頷いて云った。


(大丈夫、このまま進もう。生きているものは必ず死ぬのだから、死者を恐れたりはしないよ)


 その言葉のとおり、広場を通り抜ける際にマリアが取り乱すことは様子は一度としてなかった。怖気づくことなく広場に足を踏み入れて、彼女は一切の言葉もなくオルランドの後をついてきた。


 変わり者だと思ってはいたが、ここまで肝が座っているとは想像だにしていなかった。

 オルランドが知る限り、女子供というのは大概闇を恐れるものであり、無数の死体が側にあるというだけでも、その恐怖は尋常ではないものだったはずだ。


 オルランドの脳裏にふと、野盗の隠れ家で見た光景が過った。マリアの捜し人は、おそらくあの惨状を作り上げた男だ。もしかしたら、彼女もその男と同様に人の死に対して何も感じない、冷酷で残忍な生き物なのかもしれない。

 オルランドが眉間に皺を寄せた、そのときだった。水桶の取っ手を握っていたオルランドの手首に、あたたかな指先が触れた。柔らかで温かいその感触が何なのか、オルランドはすぐに理解できた。


(オルランド、なにか話をしよう……)


 それは消えてしまいそうなほどの、か細い聲だった。

 オルランドに触れたマリアの指先は、凍えるようにかたかたと震えていた。



***



 森での出来事を順を追って説明しながら、オルランドはマリアの手を引いて闇の中を進んだ。

 もう少し夢のある話や楽しい話ができれば良かったけれど、生憎、オルランドの引き出しには憲兵隊としての任務の話題しか存在しない。

 野盗に命を奪われた村人が眠るこの広場で、当の野盗の最期を語ることになるとは思ってもみなかったけれど、今このとき、オルランドの話に耳を傾けるマリアの不安を取り除くことができるのならば、話の内容などどうでも良かった。


 広場を通り過ぎても、オルランドは話を続けた。

 憲兵隊を手伝ったために捜し人の手掛かりを探す時間がなかったのだろう。僅かな情報も聴き逃すまいと、マリアは真剣にオルランドの話に耳を傾けているようだった。

 野盗の隠れ家の惨状を、オルランドは事細かに説明した。話の途中、マリアは何度か悲しげに俯いていたが、そんなことにはお構いなしに、オルランドは全てをマリアに話して聞かせた。

 彼女が捜している男の危険性を、オルランドはどうしても彼女に伝えておきたかった。

 

「不躾な質問で悪いが、きみはその男がどういう人間かわかっているのか?」

(わかっているよ。あなたの話が本当なら、きっと今も、彼は辛い思いをしてると思う。彼は優しい人だから)


 話の最後にオルランドが尋ねると、マリアは穏やかな調子でそう答えた。

 人間の姿を保てないほど損壊した死体の山が折り重なるあの部屋の惨状を聞いても尚、『彼』は優しい人だとマリアは言う。

 あれだけの虐殺行為を平然とやってのけた男のことを、マリアは信じて疑わない。それどころか、心配する様子すらみせている。

 考えるよりも前に、オルランドは声を荒げていた。


「優しい……? すまないが、あの惨状を見てからでは、とてもそうは思えない。その男はきみが思うより遥かに危険で邪悪な存在だ」


 柄にもなく語気を強め、オルランドは捲し立てた。本当は、マリアの身の危険を考えて忠告をするだけのつもりだった。

 だが、その男を信頼しきったマリアの態度に、オルランドは今、無性に腹が立っていた。


 すぐ隣で彼女の心配をしているオルランドよりも、彼女は自分を置き去りにしたその男を信じている。

 それはオルランドにとって、受け入れ難い事実だった。


「何故、そこまできみはその男の肩を持つ? その男はきみの――」


 そこまで口にして、オルランドは先の言葉を飲み込んだ。困惑した様子でオルランドを見上げる、マリアの哀しげな瞳が胸に刺さった。


「……すまなかった。忘れてくれ」


 謝罪の言葉を告げて、早足に坂道を登る。オルランドの名を呼びながら、マリアが後を追ってきた。


 出会って一日にも満たないオルランドよりも、同郷の知人である男の肩を持つのは当然のことだろう。マリアの行動は何もおかしなものではない。おかしいのは、そんな彼女に腹を立てるオルランドのほうだ。


 もう、この感情に誤魔化しは効かない。

 この苛立ちの原因を、オルランドは認めざるを得なかった。

 あのときは余計なお世話だと馬鹿にしたが、アルバーノの考えは的を得ていたのだ。


 オルランドは足を止め、坂道を駆け上がってきたマリアを振り返った。不機嫌の理由がわからず困惑するマリアに構いもせずに、再び彼女の手を取って歩き出した。


 この村の貯水湖の周辺には夜間発光性の花が咲くと、見取り図を手渡しながらジルドが言っていた。湖まで行き着けば、幻想的で美しい夜景をふたりで見ることが出来るはずだ。そこで、はっきりと伝えよう。

 想いが通じる必要はない。ただ一言、自分の望みを伝えられればそれで良い。


「捜し人の手掛かりが見つからなかったそのときは、一緒に王都に来て欲しい」と。



***



 緩やかな坂道をのぼり、枝分かれした道の一つを降ると、徐々に周りが樹々に囲まれていった。月の明かりが木の葉に遮られ、先程まで必要性の曖昧だったランタンの灯りが存在感を増していく。

 オルランドもマリアも、あれから一言も言葉を発していなかった。何度かマリアが手を振り解こうとしたが、オルランドは気が付かない振りをした。


(……怒ってる?)


 後方を気にかけながらも振り返ろうとしないオルランドに向かって、不意にマリアが云った。


「何故、そう思う? 怒る理由など何もないだろう」


 歩みを止めてマリアに向き直り、オルランドは応えた。

 確かに先刻は苛立ちもしたが、今の彼は怒ってなどいなかった。ただ、自身の想いの在り処に気がついてしまった以上、これまで通りの対応を続けられる自信が、彼にはなかった。

 水桶の取っ手を提げた手首が若干痛みを訴えていても、握った彼女の手を放したくないと思う程度には浮き足立った気持ちになっていたのだ。

 

 この想いを自覚したのが陽のある時間帯でなくて良かった。

 憲兵隊の一部隊を任される隊長であろうというのに、今のオルランドの心境は思春期の少年と変わらない。

 想う相手が傍に居る。それだけで、とても落ち着いてなどいられなくなる。

 今の彼は、マリアに対して平静を装うだけで精一杯だった。


(……ごめん。あなたはわたしのことを気にかけてくれただけなのに、それを突っ撥ねるようなことを言ってしまって)


 まだオルランドが機嫌を損ねていると思っているのだろう。マリアは真剣にオルランドの顔を見上げて云った。

 不安の滲む翡翠の瞳にみつめられて、オルランドはごくりと喉を鳴らした。

 身体に触れ、視線を交えなければ意思の疎通を図れないマリアは、常にオルランドに対して無防備だった。今も、ふたりのあいだに距離などない。


「気にしなくていい。そんなことより……」


 湧きあがる衝動を抑えるように、オルランドが坂道の先に目を向けると、道が開けたその先に、ぼんやりと灯りが見えた。

 マリアの手をぐいと引いて、オルランドは坂道を降った。



 やがて視界が開けると、そこには色とりどりの淡い光に彩られた、幻想的な光景が広がっていた。


(綺麗……)


 瞳を輝かせて湖をみつめるマリアの伝わらない筈のその言葉は、もしかすると幻聴だったのかもしれない。

 淡い光に照らされたその横顔をみつめたまま、オルランドは溜め息に似た呟きを洩らした。


「あぁ、……とても綺麗だ……」


 淡い光が湖を彩るこの風景も悪くない。けれどオルランドの目には、夢にも似たこの空間に於いて尚、マリアの美しさは一層際立っているように見えた。

 引き寄せられるように、彼女の肩にかかる朱紅い髪に指先で触れる。


「オルランド……?」


 大きな目を瞬かせ、マリアがオルランドを見上げた。

 この状況で、どこまで鈍いのか。オルランドは苦笑して、赤茶けた血の痕が残る彼女の頬にそっと触れた。


「顔を洗ってくるといい。水浴びをしたいと言うのであれば、そのあいだ別の場所で待とう」


 そう言って湖を指差して見せると、マリアは笑顔で頷いて湖へと目を向けた。淡い光の中を、彼女は小走りに駆けてゆく。遠ざかる背中を見送ると、オルランドは傍らの立木に背を預けた。

 何度か深呼吸を繰り返し、胸を撫で下ろす。胸いっぱいに吸い込んだ夜の冷たい空気が、もやがかっていた頭をすっきりさせた気がした。


「馬鹿なことを……」


 呟いて、指先をみつめる。彼女の柔らかな髪の感触が、触れた頬から伝わった温もりが、まだ指先に残っていた。

 何度か拳を握り、指先の感覚を取り戻した、そのときだった。


「ゼノ!」


 湖の側からマリアの声が聞こえた。瞬間、全身が総毛立ち、オルランドは考えるより先に走り出していた。


 湖のほとりで、マリアはぺたりと座り込んでいた。

 目を覚まさない『彼』の穏やかな寝息を確認して、目尻に涙を滲ませて。

 彼女は微笑んだまま、『彼』の名前を繰り返し何度も呟いた。



***



 気怠い微睡みのなか、名前を呼ばれた気がした。


 夢と現実の境界が酷く曖昧で、彼の名を呼ぶその声が、どこから聞こえるのかもわからない。

 不鮮明な記憶を手繰り寄せるように光の筋を辿り、重いまぶたを開けて。


「マリアンルージュ……」


 懐かしい声で彼を呼ぶそのひとの名を、掠れた声で呟いた。


「やっとみつけた……」


 淡い光に包まれた朧げな視界の中で、彼女は穏やかに微笑んでいた。


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