夜の森で
静寂に包まれた夜の森の生い茂る樹々を、一筋の川が東西に
月の光で闇のなかに浮かぶその川の
「昼間の、アレはなんなんだ?」
ひんやりと冷たい砂利の上に寝そべり、蒼白い月を見上げながらリュックが問う。
訝しげな表情で首を傾げ、ゼノは焚き火に細枝を
「いきなり真顔で口説き出すから、何事かと思ったよ」
「……口説く? 何の話ですか?」
「とぼけるなよ。これでも邪魔して悪いと思ってるんだぜ」
ゼノに向き直るようにごろりと寝返りを打ち、リュックはにやにやと笑って言った。
「毎晩ふたりでお愉しみだったんだろ?」
茶化すようなリュックの言葉に、ゼノがはたと動きを止める。僅かに考え込んだあと、ゼノは眉間に皺を寄せた。
どうやらリュックは大きな勘違いをしている。
ゼノとマリアンルージュが恋人か、それ以上の――つまり、男と女の関係にあると思っているようだ。
「俺とマリアはそんな関係ではありませんよ」
「マジかよ! じゃあどういうつもりで――」
リュックが大声をあげると同時に、ゼノは口元で人差し指を立ててみせた。その行動の意図を察し、リュックが慌てて口をつぐむ。
焚き火を隔てたゼノの向かいで静かに寝息を立てているマリアンルージュを確認し、ふたりは胸を撫でおろした。
昨夜、マリアンルージュはゼノに代わって夜通し火の番を務めていた。それを理由に、今夜は先に休んで疲れを癒すようにとゼノが提案すると、意外なことに彼女はすんなりとその提案を受け入れた。昼間の狩りから夕食の準備に掛けての疲れもあってのことかもしれない。
旅の道中では自身の体調を見極める判断力こそが重要である。妙な
マリアンルージュはそれをきちんと理解している。旅の仲間として考えるのであれば、ゼノにとってマリアンルージュは充分に信頼のおける相手だった。
「彼女と行動を共にしているのは共通の目的があるからです。それ以上でも以下でもありません」
「その割には、ちょっと水浴びを覗いたくらいで殴るんだな」
「それは、きみの卑劣な行動が不快だっただけです」
「へぇ……」
淡々とした口調でゼノが告げると、リュックは気の抜けた声を漏らした。
焚き火へと視線を戻し、ゼノは軽く息を吐く。自分で口にした言葉ながら、僅かに落ち込んでいた。
思い返せば、マリアンルージュとふたりで過ごしたこの数日に、ゼノはこの上ない充足感を感じていた。
マリアンルージュを守るとオルランドに約束したとはいえ、それは彼女の預かり知ることではない。イシュナードを捜し出すという目的を果たしてしまえば、彼女がゼノの傍にいる理由はなくなるだろう。
里を降りると決めたのは、イシュナードの無事を確認するためだった。だが、今の今迄、ゼノはその目的を忘れかけていた。
それどころか、
イシュナードがいなければ何ひとつ満足にこなせないことを、思い知ったばかりだというのに――。
「なに、ひとりでニヤニヤしてるんだよ。不気味な奴だな」
いつの間にか火の側へ戻ってきていたリュックが、ゼノの顔を覗き込んで言った。指摘されてはじめて、ゼノは自分が薄すらと自虐的な笑みを浮かべていたことに気が付いた。
「月光欲は終わったんですか?」
「ばっちり。お言葉に甘えて先に寝かせてもらうぜ」
満足気にそう答えると、リュックは親指を立て、にっと笑った。
元々リュックには先に休息を取るよう話をしてあったのだが、植物を生み出す能力を使うには月のちからを蓄える必要があるらしく、マリアンルージュが眠ってから今に至るまで、川原で月光欲をしていたのだ。
「ちっとばかし冷えてきたし、ねえちゃんに
「リューック」
わざとらしく戯けてみせるリュックに、ゼノは呆れて声を掛けた。けらけらと笑いながら砂利の上に寝転ぶと、ほどなくして、リュックは規則的な寝息を立て始めた。
「そろそろ良いかな」
石のかまどの中を覗き込み、ゼノは独りごちた。
煙に燻された肉の芳ばしい香りが、深夜の空きっ腹に刺激を与える。出来上がった燻製を取り出すと、ゼノは塩漬けにした生肉をかまどの中に丁寧に吊るしていった。
串焼きで空腹を満たしたあと、三人は夕刻から岩豚の調理に取り掛かった。
リュックの生み出した多種多様な植物を使い、マリアンルージュは岩豚を様々な料理に変えた。
特に重宝されたのは、火に強い耐性をもつ大きな葉の『レムプルフ』と、塩分を含有する珍しい野草『ソルティア』だ。
マリアンルージュはレムプルフの燃えにくい葉の特性を活かして鍋に代わる器を作り、即席のブーケガルニと肉を煮込んでスープを作った。肉と香草を大きな葉で包んで包み焼きにもした。どちらの料理も絶品で、ゼノとリュックは何度もおかわりをした。
食事を終えると、ゼノは余った肉を日持ちするよう調理することを提案した。
森の夜は獣除けの火を絶やさぬよう交代で火の番をする。そのついでに、陽が暮れるまでソルティアの葉で塩漬けにしておいた岩豚の肉を、少量ずつ
出来上がった燻製を食糧袋に詰め、焚き火の側へと戻る。芳ばしい香りを目一杯に吸い込み、ゼノは満足気な表情を浮かべた。
「上手く出来てた?」
いつの間に目を覚ましたのか、マリアンルージュが焚き火越しに声をかけてきた。
唖然とするゼノの様子に小首を傾げ、小さく伸びをしながらマリアンルージュが立ち上がる。
「まだ休んでいても大丈夫ですよ」
「そうは言うけど、いざそのときになったら、きみは眠っているわたしに気を遣って火の番を続けるんじゃないかな」
慌てるゼノにそう言い返し、くすりと微笑むと、マリアンルージュはゼノの隣に腰を下ろした。
「そんなことしたら、また居眠りしているうちに貴女に世話を焼かれることになるでしょう」
「そうだね」
やれやれと息を吐くゼノの顔を、マリアンルージュがなにやらご機嫌な様子で覗き込む。抱えた膝に頬を預け、真っ直ぐにみつめるものだから、ゼノはつい眼を逸らしてしまった。
僅かな沈黙のなか、火に焼べた小枝がぱちぱちと火の粉を散らす音が耳に届く。空を仰げば、蒼い月の光が冷たく地上を照らし、静寂に包まれた森をなお沈黙させていた。
「少し寒いね」
先に沈黙を破ったのはマリアンルージュだった。
樹々のあいだを吹き抜けてくる冷たい夜風に身を震わせ、肩を抱いて縮こまる。その様子を見て、ゼノは首を傾げた。
竜気を身に纏うことで外気の影響は遮断される。里を出てから常にそうし続けていたゼノは、昼と夜の気温の変化に気付いていなかった。
だが、マリアンルージュはそうではないらしい。竜気を纏っていないのか、夜の冷たい空気を肌で感じている。
眠りに着く前にリュックが言っていたあの言葉は、あながち冗談でもなかったようだ。
「そういえば、リュックもそんなことを言っていました」
「リュックが?」
ゼノの言葉を聞き、マリアンルージュが目を丸くする。周囲を見回し、砂利の上に寝転ぶリュックに目を留めたマリアンルージュは、眠っているリュックの側にいそいそと向かうと、羽織っていたマントを脱ぎ、穏やかな寝息をたてるリュックの身体に掛けた。
「ちょ……マリア、寒いんじゃなかったんですか?」
「このままじゃ、リュックが風邪をひいてしまうよ。わたしは火の側にいるから大丈夫」
中腰になって声をあげたゼノに笑ってそう返すと、マリアンルージュは火の側へ戻ってきた。砂利の上に集めてあった細枝を摘まみあげ、半分に折り、ひょいと投げて火に焼べる。そのままゼノの隣に腰を下ろし、細枝を焦がす炎に目を細めた。
焚き火に照らされたマリアンルージュの朱紅い髪が、夜の風に煽られて燃え上がる炎のように揺らぐ。その横顔に、ゼノは暫し目を奪われた。
視線に気がついたマリアンルージュが小首を傾げると、ゼノは躊躇いがちに口を開いた。
「……収穫祭の夜、舞を踊る貴女を遠くから観ていました。始めて舞台に立った貴女の、緊張に強張った顔を今でも思い出せます。美しく洗練されていく貴女と貴女の舞が観られる祭の夜を、毎年密かに楽しみにしていました」
瞳を逸らすことなく、真っ直ぐにそう言い放った。
最初は目を丸くしていたマリアンルージュだったが、ゼノが最後まで言い終える頃には、耳を真っ赤に染め上げて顔を膝に埋めてしまった。
ややあって、マリアンルージュが顔を上げる。
「……今の、なに?」
「……なにって?」
「だから、その……どう受け取れば良いのかなって……」
手の平で口元を覆い隠し、マリアンルージュは困惑の色を隠せずにいる。その意味にようやく気がついて、ゼノは硬直した。
リュックが言っていたことはこれだったのだ。
子供の頃から、他人がゼノの言葉に耳を傾けることはほとんど無かった。それ故に、遠回しな言葉で誤解されることを避けようと、直接嘘偽りのない言葉を口にする癖がついていた。
相手がゼノの話を最後まで聞いてくれたことなどなかったために、これまで気付くことができなかった。直接好意を示すことが、ときとして相手に見返りを要求する行為になり得ることに。
マリアンルージュの問いは、先程のゼノの言葉を単なる褒め言葉として受け取れば良いのか、若しくは、愛の告白として受け取るべきなのかという確認のためのものだろう。
マリアンルージュには想う相手が他にいる。その相手が全てにおいて非の打ち所がない完璧な男だと言うことを、ゼノは理解している。
そして、マリアンルージュがその男と幸せになることを、ゼノ自身も望んでいる。
先程の言葉に、見返りなど求めてはいない。ましてや恋愛感情など、あるはずが――
「褒め言葉です。他意はありません」
はっきりとした口調でゼノが言い切ると、拍子抜けしたようにマリアンルージュは
「……そっか、そうだよね。ごめん、変な勘違いをするところだったよ」
くすくすと笑いながら、マリアンルージュが膝を抱える。
妙に落ち着かない、どこかくすぐったい気分だった。その裏で、ゼノは自身の感情の昂ぶりに僅かに動揺していた。
***
「収穫祭と言えば、毎年、祭りの前に狩りに出かけてね。捕らえた獲物を当日のご馳走にして振舞ってたんだ」
マリアンルージュが夜空を見上げ、楽しかった故郷の思い出を懐かしむように語る。
ゼノとマリアンルージュがふたりで火を囲み始めてから、随分と時間が経っていた。いつものゼノならば、この時間には眠気に負けそうになるものだが、今夜は違う。
他愛もない話しかしていないにも関わらず、マリアンルージュと言葉を交わすのが思いの外楽しくて、ゼノは夜が更けていくことに気がついていなかった。
「何度か岩豚も並んだんだよ? ゼノは食べたことなかった?」
「ないですね。祭には直接参加したことはありませんから」
「じゃあ、本当に今日初めて岩豚を食べたんだ」
「そうですよ」
気の利いた返しすらできないゼノを相手に、マリアンルージュは嬉々として話を続ける。
数百年もの長い時を生きてきたゼノだったが、これほどまでに自分に興味を示した相手は、イシュナードの他に知らなかった。それ故に、高嶺の花であったはずのマリアンルージュとこのような言葉を交わす日が来るとは、想像だにしていなかった。
「美味しかった?」
「美味しかったです。マリアが料理上手だったことが意外でしたが……」
期待を込めた眼差しで顔を横から覗き込むマリアンルージュに、ゼノはほんの少し意地の悪い言葉を返した。ゼノの
「どんな偏見だよ。料理も裁縫も、母から一通り仕込まれてるんだからね」
そう言って、拗ねた子供のようにそっぽを向いた。
整った容姿も相まって、その仕草は余計に愛らしく見える。
「そうですね。きっと良いお嫁さんになれますよ」
「……ほんとに?」
つい、口を滑らせたゼノだったが、流石に慣れというものがあるらしい。慌てふためくことなく艶のある笑みを浮かべると、マリアンルージュは嬉しそうに目を細めた。
僅かにたじろいで、ゼノは小さく頷いた。
「良かった……」
囁くようにそう零し、マリアンルージュがゆっくりとその視線を夜空へ向ける。
穏やかな笑顔で彼女が思い浮かべる相手は誰なのか――。
その答えを、ゼノは考えないことにした。
***
北から南へと流れる大きな川のうえを、淡い光が浮遊していた。
青白いその光に誘われて、川に棲む微生物が水面に浮かび上がる。その瞬間、光は糸のような触手で微生物を絡め取り、それらを次々と捕食した。
川辺に現れた淡い光はいつの間にか群れを成し、流れに逆らって川を北上する。砂利の敷き詰められた川縁で
光の群れは長い間
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