満開の桜の花の下で
21時50分。僕は家を出た。
桜坂公園は僕の家から徒歩五分のところにある。その名の通り、桜の木が生い茂っている有名な公園である。
5月の中旬ともなると、ほとんどの桜の花は散ってしまってはいるがそれなりに眺めのいい風景が見える。
公園に着いた。時計を見ると、まだ55分だった。そういえば彼女は詳細な待ち合わせ場所を教えてくれなかった。僕は彼女が入ってくるであろう公園の入り口付近でぼーと桜の木を見つめていた。
ほとんどはすっかり散ってしまって、木の下にいくつもの桃色の花びらを携えている。
心もとない街灯に照らされて、桜の木はその無防備な姿を見せつけていた。
怖いな。
率直にそう思った。僕は昔から桜を好きになれなかった。それは美しさの中に、狡猾な残酷さを隠し持っている気がしていたのだ。僕はそういう桜の浅ましさを毛嫌いしていたが、そこから生まれる底のしれない怖さに何度も魅了されていた。
しばらくして、自転車が悲鳴を上げる音が聞こえた。
振り向くと、すぐそばでアヤちゃんが自転車から降りてこちらを見つめていた。
「やあ!久しぶり!」
彼女は手を挙げて、快活そうな笑顔を見せる。
「やあ。」
僕もなんとなく手を挙げてほほえんだ。
彼女は自転車にストッパーをかけると、どんどん僕の方に近づいてきた。その気配に気づいて僕が少し後ろに下がっても、彼女がひるむことはなかった。ついにアヤちゃんは僕の肩をつかんで、唾を飛ばしながら言う。
「会いたかった!ずっと会いたかったよ、ナオくん!」
ナオくん。
その言葉は懐かしい響きを持って僕の鼓膜を揺らす。
そうだ。アヤちゃんは僕のことをそう呼んでいたのだ。
「あ、アヤちゃん…。」
視界いっぱいに広がる美しい彼女の顔を見ながら、僕は遠慮がちに言った。
その瞬間、彼女は僕の体を力いっぱい抱きしめた。
僕はあまりにもびっくりして、心臓が飛び出るかと思った。
「ナオくんだ。本物のナオくんだ。嘘じゃないんだね。」
アヤちゃんは僕の背中をさすりながら、何度も何度もうなづいている。
その声が震えていて、僕ははっとした。
「アヤちゃん…。泣いているの?」
僕はアヤちゃんの顔をのぞきこんだ。目から涙があふれているのがわかった。
「泣いているよ…。だって、ずっと寂しかったんだもん。」
ますます強く抱きしめられて、僕は痛かった。
「アヤちゃん、ごめん。苦しい。」
「ああ、ごめん…。」
彼女はようやく僕の体から離れた。愛おしげにこちらを見ているその目は涙で驚くほど美しい。
「ところで、ナオくん。」
とたんに、彼女は不思議そうに首をかしげる。
「アヤちゃんって、だれ?もしかして、妹と間違えている?」
「え…。」
「わたしのこと忘れたの?サヤカだよ、サヤカ。わたしは佐藤彩香。」
二人の間の時間が、一瞬止まった。
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