僕の思い出2

 東京から長野に引っ越す日は、刻々と近づいていた。

 それでも僕はアヤちゃんに別れを切り出す気にはなれなかった。

 僕が長野に引っ越してしまうことを知ると、彼女は怒るのではないか。そして、僕の顔をめちゃくちゃにぶん殴るのではないか。そう思って、僕はギリギリまで黙っていようと思った。

 

 ついにお別れの日。帰りの学活で先生が小さなお別れ会を催してくれた。

「今日で直也君は転校してしまいます。みなさん寂しくなりますが、直也君を元気よく送りましょう。」

先生は僕にそう言ってくれ、クラスの代表者はメッセージカードをくれた。

 「長野に行ってもがんばれよ。」「勉強しっかりやりましょうね。」メッセージカードには、当たり障りのない言葉ばかりが並んでいた。いつもアヤちゃんと一緒だった僕には、友達らしい友達が一人も出来ていなかった。感情のない文章が書かれてあるのも当然といえば当然の話だった。メッセージカードに、アヤちゃんの名前はなかった。

 

「みなさん。これまで本当にありがとうございました。長野に引っ越しても、みなさんとの思い出は忘れません。また新しい場所で頑張っていこうと思います。」

黒板の前に立ってありきたりな言葉を口に出している間、僕はアヤちゃんの方をちらりと盗み見た。彼女はうつむいており、表情はよくわからなかった。

 お別れ会はつつがなく終わり、下校の時間になった。

 

 いつもならすぐに僕の席に来て「帰るぞ」と話しかけてくるはずなのに、彼女は僕の方を一度も見ずに席を立って廊下に出た。

 怒っているのかな…。

 僕は慌てて廊下に飛び出した。

 彼女は早足で歩き、玄関で靴を履き替え、校門を出て、通学路に入った。僕は市の早いアヤちゃんの後を懸命に追っていた。

 最初の交差点を渡った後の角で、彼女の足が止まった。

 振り向いて、彼女は僕の顔をいぶかしそうに見つめる。

「なんなの?あんた。わたしのあとを追ってきて。ストーカーで訴えるわよ。」

「いや、怒っているのかなあって思いまして…。」

「何?わたしが何に怒っていると思っているの?あんたがどこに行ってしまおうが、わたしには全然関係ないんですけど。あんたなんか赤の他人なんですけど。」

顔を真っ赤にして、彼女は怒鳴り散らした。

「ごめんなさい…。」

「なに?なんで謝るわけ?別にわたしはあんたに謝られる筋合いなんか一つもないんですけど?人違いじゃないんですか?」

僕は彼女にはじめて腹が立った。

「だから、引っ越すことになって、お別れしなければならなくなったのに、それを言い出せずにいてごめんなさい。本当は一番最初に言わなければならなかったのに…。ほかの人には言ってたのに、アヤちゃんにだけ言わなくてごめんなさい…。」

僕は深々と頭を下げた。

 その瞬間、アヤちゃんは僕の方に突進してきて、勢いよく僕の胸倉をつかんだ。

 殴られる。

 僕は歯をくいしばって、目をつぶった。

「なんで、なんで言ってくれなかったの?わたし、あんたの一番の友達でしょ?

 わかってたのよ!あんたが転校することくらい!わたしだってあんたのほかに一人や二人友達はいるわよ!なのに、わたしが一番親しくしていたのに…。どうして言ってくれなかったの?」

目を開けると、彼女はポロポロと涙を流していた。友達?僕とアヤちゃんが友達だって?

「ごめん…。」

「そうやって、謝ればいいと思っているんだから!どうせ殴られるとか思って、言わなかったんでしょ?このバカ!チビ!ノロマ!」

泣きそうになりながら、僕は彼女にはじめて言い返した。

「だって、いつも乱暴なんだもん!ゴリラ!ブス!デブ!」

僕の悪口を聞いて、彼女は真っ青になった。

「このわたしに、どうしてそんな言い方をするわけ!信じられないわ!」

アヤちゃんは僕の胸をつかんでいた手を離すと、フラフラと少し後退した。そのあとものすごい速さで僕の顔にとびつき、頬をめちゃくちゃに引っ掻いた。

「痛い!痛い!」

「はは。あんたはわたしに逆らうことなんてできないのよ!絶対にね!あんたがどこに行こうとも、必ず探し出して、いじめてやるんだから!」

「やったな。この狂暴女!!」

僕は彼女の手を引っぱたいて、頬に平手打ちを食らわした。すると彼女は鋭い目つきでにらみつけ、僕の腹めがけて力いっぱいに殴った。

 あまりの痛さに、僕は気を失ってしまった。


 気がつくと、僕は自分の部屋のベッドに寝ていた。

 しばらくすると、母が入ってきて心配そうに僕を見つめている。

「あんたね、なんでアヤちゃんにお別れ言わなかったの?

 さっきアヤちゃんがあんたをおぶさって家の玄関に来てね、あんたとケンカになって気を失わせてしまってすみませんと謝っていたわ。

 それで、なんでケンカになったの?って聞いたらわたしにお別れをいってくれなかったんですって泣くのよ。

 あとでお母さんと一緒にもう一度謝りに行くって言っていたわ。

 確かにね、手を出したアヤちゃんが悪いことは悪いのよ。でもね、あんただって悪いところはあるわ。アヤちゃん、あんたがいなくなって寂しくなると思ったんじゃないかしら。」

僕は母親の話をおぼつかない意識のまま聞いていた。

 アヤちゃんが僕のことをそんなに大切に思っているなんて、信じられないことだった。

 その後アヤちゃんは彼女のお母さんと一緒に謝りに来た。アヤちゃんのお母さんは僕の母に何度も何度も謝っていた。アヤちゃんも目にいっぱい涙をためて、僕に謝った。

 それ以来、僕らは一度も会っていない。


 彼女は小さいころから美人だった。だから彼女がとてもモテていたことは知っていた。その分、まるで使用人のように彼女のもとにくっついている僕をよく思わない男子も多かった。しかし僕がいじめられているのを見ると彼女はいつも男子たちに反撃をした。

 アヤちゃん…。4年ぶりだ…。

 僕は不思議な感動に包まれて、彼女を見つめた。

 アヤちゃんはすっかり女らしく、しおらしくなっていた。昔の乱暴女の面影などみじんも残っていなかった。

「それじゃあ、自己紹介もそんなところで。佐藤さんの席だが。」

山岸先生が教室中を見回す。

「おい、石田。お前の隣空席だろ。あそこがいい。」

え?僕は一瞬、絶句した。確かに僕の隣の席には誰もいなかった。

 クラスメイトの視線が一斉に僕に集まる。

 彼女は僕の隣の席に座った。

「石田くん。よろしくね。」

彼女の微笑はまぶしくて、直視できなかった。

 




 

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