第90話 意志

好意を抱いてからは、彼に構うようになった。


部活が終わってから下校する時も彼について帰り、土日の部活が終わってからは一緒にご飯を食べようと彼に持ちかけた。


気持ちがバレてしまったらどうしよう、と思ったけど、自己評価の低い彼のことだから自惚れることも自覚することも無いに等しいだろう。


それに、私は欲張りだから、好きな人の前で緊張する以上に彼を求める気持ちがはるかに上回っていた。部活も勉強も亀井さんも、全てモノにしたい。


私は、努力家なのだ。自分で言うのも変な話だが。


亀井さんは、優しいだけじゃなく、冗談の言える面白い人だった。人を茶化したり冗談を言ったりするように見えなかったけど、気安い間柄になると、こんなにも明るく陽気な人だったのかと、驚いてしまう。


静かな人間は、暗い人間とイコールではないことを知った。おとなしくて温厚な彼は、朝の日差しのような仄かに温かいオーラがある。


「亀井さん!」


何度か一緒に帰るようになってからは、名前を呼ぶだけで自然と並んで歩くようになった。


世の中のカップルは、付き合っている現在ももちろんだが、付き合う前もピークである。


漫画かドラマで見聞きしたフレーズを思い出す。きっと、今の私がそれに当てはまる。それに、付き合ってからも…。なんて妄想すると気持ちが高まって、部屋の布団に顔を埋めて嬌声を上げる日もあった。


部活に勉強、そして恋愛。全てが充実したような毎日。


今生きている現実が楽しいし、こんな日々がずっと続いてくれたらいいな。本気でそう思っていた。


しかし。


新人戦を前に控えた、2学期の放課後。


階段の踊り場で、私の幸せな毎日が、徐々に軋んで崩れていく。



「結衣、亀井先輩のこと狙ってんの?」


私としたことが、めずらしく課題をし忘れて、お世辞にも真面目とは言えない2人のクラスメートと一緒に職員室へ向かっていたところ、彼女たちは急にその話題を持ち出した。


私と亀井さんが一緒に帰っていることは、いろいろと噂になっているらしい。そっとしてほしいのに、と思う。


狙ってる、と言う言葉に、多少の違和感を感じる。確かに、彼のことが好きで、叶うなら付き合いたいと思うが、彼のことを狙ってるなんて、まるで傲慢な態度で上から見下ろしているみたいだ。


もちろん彼女たちは、そんなつもりで聞いているわけでは無いと思うから、別にいいんだけど。もともと、ストックの少ない彼女たちから繊細に言葉を選ぶことなんて出来ないはずだし、ここで言う「狙ってる」は、単に好意を抱いているか、ということを聞きたいはずだ。


一方で、雰囲気だけは悪意を十分に含んでいた。


亀井サトシのどこが良いのか、もしかして本気になっていないよね、そう言わんばかりの空気感が漂う。


ありもしない声が、頭の中で勝手に聞こえてくる。


どうしてこんな地味で目立たないやつがいいの?


明るく、部活も勉強も成績優秀な男子が、学年の中に留まらず、全校のそういった人種がこの中学にはたくさんいるのに。


こんなやつと一緒にいたら笑われるよ?


亀井サトシは、ダサい。


怖くなった。


たいていの女子から人気のない彼を好きになること、仮に付き合うことになって、これまでの友人関係、クラスや部活で上の方にいた自分の立ち位置が脅かされるリスクが脳裏をよぎった。


でも、そんなことは、前からずっと分かっていたことだ。周りから非難されることだって分かってるし、覚悟も決めている。


だから…、だから私は…。


「どうなの?」


次は、たっぷりと含みのある声で、私に尋ねる。というよりは、何かの同調を求めるような態度だ。



「ありえないし、亀井さんは先輩としては良い人だけど。アイスとかご飯とか、よく奢ってくれるから、ホントに優しいの。お財布にね」


卑怯だ。


私は、勇気がなかった。周りの意見に流されて、自分の意志を貫くことが出来なかった。


私たちがいるすぐ上の階には、1人の生徒の気配がした。私の声に反応して息が詰まったように立ち尽くす男子生徒。


その直後、強く廊下を蹴り出して、一瞬でその影が消えた。


顔を崩して走り去る亀井サトシの横顔が、双眸に焼き付いた。

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