3・電柱にご用心

「さすが太一の姉ちゃんだなー」


 陽介は感心するように言った。早くも姉の奇行に理解を示すとは、心が広すぎやしないか。この順応力は僕も取り入れたいところだ。

 だって、血の繋がった家族である僕でさえ姉の行動がいつまで経っても理解出来ないから……


 僕は唖然としたままでいた。姉の腕に抱かれる黒い影を視る。

 なんだろう、あれは。片手で抱けるくらいに小さなもの。だとしたら、人ではない。子供でもなさそうだ。動物の可能性が高いか。そこまで思いつくまでは鈍くなった脳みそが回転し始めていた。


「陽介……多分、あれ、犬か猫だよ」

「あれ、ってつまり……真麻江ちゃんが抱いてる?」

「そう。僕にはあれが黒い影に視えるから、ちょっと判断が難しいんだけどさ」

「さっき言ってたやつか」


 察しのいい彼に、僕はこくりと頷いた。途端に陽介が「うはぁ」と顔をしかめる。


「でも、真麻江にはあれが普通の犬か猫に視えてるんだよ……あいつ、いつもああなんだ」


 僕の疲弊した声に、陽介は同情の目を向けてきた。そして、その目を姉にも向ける。


「でも今のところ真麻江ちゃん、何ともなさそうだなー……うわ、やべぇ、こっち来る」

「陽介、ちょっと店の中に入ってて」

「りょーかい」


 横断歩道を渡ってくる姉は、黒い影を腕に抱いたまま。

 陽介はすぐに店の中へ引っ込んだ。それを認めて、僕は息を吸い込む。


「ちょっと、なんで手振り返してくんないのさー、ねぇ?」


 文句を言い、黒い影に話しかける。

 黒く蠢く、ぐじゃぐじゃと糸が絡んだような物体……それが元は何であるのか僕の目は映してくれない。一歩ずつ、姉から遠のいてみる。そして、距離を空けて僕は言った。


「姉ちゃん、それ、駄目なやつだよ」

「え?」

「黒い影。それ……多分、父さんが言ってたやつだと思う」


 僕の言葉に、姉は笑顔のままで固まった。それからゆっくりと目を伏せていく。


「……そっか。君、こんなに可愛い犬なのに……可哀想に」


 黒い影に向かって、彼女は小さく切なげに言った。

 僕の目が姉と同じだったら愛くるしい小型犬に視えていたんだろうか。分からない。

 僕の言葉によって、黒い影は更に大きく濃くなっていった。あれに触れるのは嫌だ、と肌がビリビリと痺れて警告を促している。


「この子、どうしよっか」


 姉は安穏と言った。一刻も早く捨ててきて欲しいと思っていたが、彼女の今にも泣き出しそうな顔を見るとそんな酷なことを言えるはずがない。


「……野放しにしておくのも気が引けるけど……元いたとこに返してきたら?」


 駅前に置いておくのは陽介に悪い。でも、それ以外に方法がないので僕はそれだけ言った。姉も「そうだね」と寂しそうに言い、すぐさま横断報道へと戻っていった。

 黒い影が僕を睨むように、姉の腕からはみ出している。僕は息を吐き出して目を逸らした。


「太一……どうなった?」


 店からこわごわ顔を覗かせる陽介。視えないのに恐れを抱くとは、これはこれで貴重な人種のような気がする。僕は苦笑を向けた。


「元いたとこに返してきてって言っといた」

「子供かよ」


 すかさず鋭いツッコミが飛んできた。


 ***


 それから僕は午後の講義を受けに大学へ向かった。姉は今日は学校に行く気はないようで「爺ちゃんと将棋するー」と家に帰ってしまった。まぁ、それなら安心だし、もしも姉の体に異常が見つかれば祖父がどうにかしてくれるだろう。


 ぼんやりと講義を受けて、たまに居眠りをして。そんな風に午後を過ごしていた。

 学校以外で特に用事はないので、講義が終われば帰路につく。

 まだ陽が落ちていない夕焼けの帰り道、突然にスマートフォンが音もなく震えだした。着信……?


「もしもし」


 表示は母だった。なんだろう。おつかいだろうか、考えていると電話の向こう側で母の声が響いてくる。


『太一! 今すぐ帰ってきて!』

「え?」

『早く! お母さんだけじゃ対応出来ない!』


 おつかいどころか突然の帰宅命令に驚いてしまう。

 なんだろう。今、家には母しかいないのだろうか。いや、祖父と姉が将棋で遊んでいたんじゃないか? それに、母だけで対応出来ないということは……勿論、霊関係だろう。僕は駅に向かって足を速めた。


「分かった。今から電車に乗るから、ちょっと待ってて……てか、本当に何があったの?」


 地下鉄のホームへと走りながら問う。すると、母はあたふたと落ち着きなく言った。


『ま、真麻江ちゃんがね……あの、なんか、彼氏を連れてきたの』

「は?」


 僕の足が階段を下りかけて止まる。


「え? なんて?」

『だから、真麻江ちゃんが彼氏を連れてきたの!』

「………」


 さて、ここで僕は二つの可能性を脳内に浮かべる。一つは真麻江の彼氏が生きた人間であるということ。二つは死んだ人間であるということ。

 娘が彼氏を連れてきたら動揺はするだろう。生きているにしろ。だが、死んだ人間であるならば、尚のこと困惑するはず。母だけで対応が出来ない、ということは祖父が出かけていないのだ。父も帰りは基本20時を超えるから僕が選ばれるのは必然的である。


「分かった……急いで帰るよ」


 僕はそれだけ告げると、電話を切った。そして、今しがた前を風のように走り止まった電車の中へ入る。その足取りは重たい。



 五丁目の電柱とやらは、いつも駅へ行く道にある。ただ、今朝はそれを避けて通ったことをすっかり忘れていた。習慣というのは恐ろしい。無意識に足が選んでしまうのだから。


 陽も暮れかけた薄紫の空。夜というのは魔が通る。あまり出歩きたくはない。特に、交通事故で亡くなった人が出やすいのだ。五丁目で交通事故があったばかりなら尚更だろう。僕は電柱に目を向けないように歩いた。

 家までの道のりで電柱は七本ある。一本、二本、三本、と横目でチラチラと確認しながら通る。今のところ、事故の供え物である花束はない。四本、五本……あぁ、六本目だ。花束がある。それを視界に入れないよう、僕は足早にその道を通った。


 声は聴こえなかった。大人しい人なのかもしれない。もしくは、成仏しているか。

 事故で亡くなった人というのは無自覚な場合が多いから、その場所にとどまっていることがあるのだという。今までもそういう人は視てきたけれど、黒い影だったり酷い怪我をしていたりと悲惨な姿であるので、いくら霊感があっても視たいものでは決してないのだ。


 七本目の電柱を過ぎ去って、僕はようやく安堵しながら自宅に飛び込んだ。


「ただいまー……うわっ」


 玄関を開けると、すぐに母の顔があった。


「おかえり、太一……お母さん、頑張れない……」


 そうだった。姉が彼氏を連れてきていたんだった。しかし、なんで突然に。

 母は玄関マットに座り込んで疲れた顔をしていた。視えないなりになんとかもてなそうと努力したんだろう。夕飯の支度をしている途中と思しき格好で僕に助けを求めてきた。


「分かった分かった……でも、僕、コミュ障だから上手くは出来ないよ」

「上手くやって、お願い」


 主張は完全に無視された。

 どうやら、件の二人はダイニングにいるらしい。何故、急に彼氏をこんな時間に連れ込んだのかを問い詰めよう。いや、違う。まずは生きてるか死んでるか見極めないといけない。僕は息を吸い込んで居間の扉を開いた。母が後ろからコソコソとついてくる。


「ただいま……」


 とりあえずそう声をかけるも、ぎこちない。僕はすぐにダイニングを見た。テーブルにはご機嫌な姉ともう一人……あー……薄いなぁ……背中が透き通ってる……


「霊ですね、彼」


 僕はすぐに振り返った。母がこくこくと頷く。お疲れ様、母さん。


「あの……姉ちゃん」


 おずおずと近寄ってみると、姉とその彼氏が同時にこちらを見る。見た、んだよな……なんだろう。視線が合わないのは、彼氏の顔がないからか。僕は頭を抱えた。


「おかえり、太一!」


 姉は機嫌がいい。まったく、突拍子もないことをしてくれる迷惑な姉だ。なんで、よりによって顔面粉砕した彼氏を連れてくるんだろう……僕は視線を彼氏には向けずにいた。


「はじめまして、弟くん?」


 彼氏は優しげにそう話しかけてきた。待って、どうやって喋ってるんだ、この人。


「は、はじめ、まして……どうも……えーっと、姉の彼氏、さん? ですか……」


 厳しい。無理です。僕には無理です。彼の顔を見ることが出来ません。

 こんなの母さんに見せたら卒倒する。視えないって最高の武器なんじゃないか。

 僕はあまり彼に近づかないようにしていた。それを真麻江が気づかないはずがない。怪訝な目を向けてくる。


「太一、人見知りしないでよ。これね、彼氏のケイスケ。ちょっと今日、大事な話をしたいって言い出してさー。急でごめんね」


 いや、そんな配慮はどうでもいいです。違うんです。そうじゃなくて……


「あの、ちょっと……姉を借ります」


 すぐさま母と姉を連れて居間から出た。扉を閉めて玄関前に集まる。


「……おい、真麻江」

「何よ」


 姉はふてぶてしく返事する。母は居間を覗こうとしていたが、僕がその視界を遮る。声を低めて姉を睨んだ。


「あの彼氏、どこで拾ってきたの」

「拾ってきたとはなんだ。ケイスケとはもう二週間の付き合いだっていうのに」

「二週間かよ」


 僕は思わず吐き捨てた。いや、違う。そっちじゃない。落ち着こう。


「えーっと、それじゃあ二週間前に亡くなった人、なんだよね?」


 問うと、姉はきょとんとした目を向けてきた。まさかの無自覚……僕と母は揃って肩を落とす。


「え? じゃあ、何、お母さん見えてなかったってこと?」

「そうよぉ……もう、だから私、太一に助けを求めてね」

「言ってくれたらいいのにぃ」

「言えるわけないでしょ!」


 ご本人前にして「あなたはいつお亡くなりに?」なんて訊けるわけがない。これには母に同情する。姉は「はぁー」と落胆した。


「そっかぁ……ケイスケ、死んでるのかー……つらっ」

「お前のその言動では悲しみが一切伝わらないけどな」


 僕は白い目を姉に向ける。まったく、困ったやつだ……


「とにかく、爺ちゃんと父さんが帰ってくる前にお帰り願ってくれよ。大体、大事な話ってなんだよ。付き合って二週間のくせに」

「何って、結婚でしょ」


 姉はサラリと言った。僕は呆然とし、母は口元に手を当てる。そしてまた居間を覗こうとした。

 母さん、視えないんだから見ても意味がないよ……そんな現実逃避の文言を思い浮かべる始末だった。

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