2・真麻江の視る世界

「あのね。きょう、まさえね、あたらしいおともだちができたのー」


 小学一年生の姉が家族全員に自慢していたのが最初のような気がする。


「つうがくろのでんしんばしら、あるでしょ。あそこでいつもじーっと、こっち見てる子がいてね、その子、みっちゃんっていうんだけどね」


 そのみっちゃんというのは、女児の幽霊というわけではない。念のため、父が確認に行ってみると、そこには黒い影のような成人男性(年齢不詳)が目をぎょろつかせて立っていたらしい。どうして姉が「みっちゃん」などと呼んでいたのかは分からない。訊いても「なんか、みっちゃんってかんじだったから」と意味不明な理由を述べたという。

 それから、通学路の電柱には目を向けるなと父は姉と僕に言い聞かせた。


 次に、姉が友達になったのはやはり通学路の、溝にいたという小さな男の子。同年くらいで、その子供はしくしく泣いていたという。


「溝にはまってたから助けてあげたんだー」


 姉が言うにはそうらしい。怪我をしているから手当をしたいと姉はその男の子を家に連れてきた。母には視えない子供だった。

 仕方なく、祖父母が上手く対応して追い払ったらしいが……僕も確か会ったけれど、その子供の怪我というのは小さな擦り傷程度のものではなく、身体の右側全ての損傷が激しく、恐らく事故で亡くなった子供だった。


 姉の視界は僕らよりも少し違うらしい。彼女の視る世界には、そういった恐ろしいものが排除されているのだと僕はそう考えている。だから、姉は誰とでも仲良くなろうとするのだ。


 祖父をはじめ、祖母、父、僕は幽霊を視るとそれが何者であるかが分かる。例えば僕なら、亡くなった当時の格好であるとか、強い思念を抱いた真っ黒な塊だとか、そんな風に視える。祖父と父がどこまで鮮明に視ているのかは知らないが、僕と似たような視界であると思う。

 だから姉への対応には祖父も祖母も父もほとほと困っていた。勿論、一番困っていたのは母なのだが……まぁ、母は母で僕の面倒に追われていたらしい。


「あー、そんなこともあったっけねぇ」


 過去を振り返ってみると、姉は呑気にそう言った。

 父が出た後は、母も週2で勤めるパートへ出かけた。僕は今日は一限がないからのんびりしているけれど、姉はどうなのか。こいつは未だスウェット姿で、腹を掻きながらテレビを観ている。

 これで21歳の女子大生というのだから、世の中には詐欺師しかいないんじゃないかと僕は人間不信をむくむく成長させていた。


「まーね、あたしももうさすがに分かってるって。ただね、やっぱりそういうのって話してみないと分かんないもんで。気づいたら仲良くなっちゃうんだよねー」

「お前の場合、危機感がないだけなんじゃ……」


 意見してみると、すかさず鳩尾に拳が入った。


「『お前』って言うな、底辺クソぼっち陰キャ野郎」


 突然に理不尽をぶつけてきた。僕はフローリングに膝をつき、痛みに呻く。やばい、ハムエッグが出てくる……


「姉に向かって『お前』呼ばわりは許さん、底辺クソぼっち陰キャ野郎」


 一言一句変えずに悪口を並べてくる。なんて奴だ……僕はこの悪魔に立ち向かうべく、腹を抑えながら顔を上げた。


「いや、あの、もうぼっちじゃないんですが……」


 出てきた言葉が情けない。痛みが勝っている。そんな僕に対して、姉は冷たい視線を投げてきた。


「うるせぇ。彼女いたことねーくせに調子のんな、霊感クソニート」


 理不尽すぎる。そして僕はニートではない。誤解を生む発言をするな、狂暴ゴリラ女。そしてお前の方がよほど霊感強いだろうが。


 なんとか、もどしかけた朝食は胃の中におさまってくれた。もうこいつと喋るのはよそう。いつ地雷を踏むか分からないし……理不尽の塊みたいなこの姉は、たまにこんな暴挙に出るので、僕は用もないのに外へ出ることにした。


 祖父は居間でお茶をのんびり飲んでいる。出かけの際、祖父が「駅前気をつけろよー」と注意する声が聴こえた。

 そうだ。駅前に怪しい黒い影があったと父が言っていた。あんまり関わりたくはないが、こればかりは見過ごすことが出来ない。僕は早足で駅まで向かった。


 ***


 大学一年の初夏、僕は地下鉄の中で出会った幽霊たちと一時の友人関係を持ったことがある。その時に出会った花屋の店主には息子がいる。僕と同年であり、同じ学校なので、最近は彼とよく話をするようになっていた。


「黒い影?」


 駅前の花屋、アサマフラワーに行くと丁度店の手伝いをしていた。浅間陽介はポピーの束をバケツに入れながら、僕の話を聞いてくれる。


「そんなのも視えるんだ」

「うーん……まぁ、悪いものって言えばいいのか……そういうのを感知してしまうというか」

「へぇー、やっぱそういうのってあるんだなぁ」


 陽介は何かと理解があるので話も早いし助かる。それでも、僕の口調は未だにぎこちないのだが。きちんと会話が出来ているか自信がない。コミュ障をこじらせすぎたと反省している。


「うーん……そういうのって、悪霊化しているのがほとんどなんだってうちの親とか爺さんが言うんだけど……まぁ、確かによくないものだね」

「なるほどなぁ。でも、俺はそういうの視えないから、防ぎようがないっつーか。追い祓ったりとか出来るの?」


 残念ながら、僕にはそういった祓いの技術はない。


「関わらないようにするのが一番だよ。まあ、あまりにも酷いようだったら、業者に頼んだほうがいいらしいけど」

「業者?」


 陽介はすぐさま食いついた。僕はうろ覚えの知識をゆっくりと紡ぐ。


「拝み屋とか祓い屋……まぁ、神社の神主とか坊さんとか、そういうのだよ」

「おお、本当にそんなのがあるのか……いやぁ、まだまだ知らないことがいっぱいあるなぁ」


 彼は感心するように笑った。一方、僕は花屋のベンチに座ったまま、駅の方面に視線を移す。

 父が言っていた黒い影……平面の影ではなく、僕が探しているのは黒い塊のようなものだ。でも、ぱっと視た感じではどこにもそういったものがない。


「まぁ、思い過ごしとか見間違いだったらいいけどさ……僕的にはあんまり近寄りたくないもので」

「ふーん……まぁ、危ないもんに首突っ込むのは誰だって嫌だしなぁ」


 うん。僕もそう思う。

 でも、世の中には自分から面倒事に首を突っ込む人種がいるのだ。これについては絶対、陽介に知られないようにしなくては……と決意を固めた瞬間だった。


「おっ! たいちゃんはっけーん」


 目の前で、僕を指差して笑う女が現れた。白いTシャツに、ワイドパンツ……いや、ガウチョパンツ? を穿いた長い黒髪の女。


 最悪だ……


 僕は頭を抱えた。一方、横では陽介が僕と彼女を交互に見ている。


「誰?」


 訊かないで欲しい、という願いは叶わない。


「おや、君が太一のお友達? はじめましてぇ、太一のお姉ちゃんの山田真麻江でーす」

「うっそ、姉ちゃんいるのか、お前!」


 陽介の反応はものすごくオーバーだと思う。だけど、そのオーバーリアクションに姉は気分を良くする。今朝に般若顔で僕の鳩尾を殴ったゴリラとは思えない完璧な笑顔を見せて。ちなみに、どうでもいい説明だけど姉は機嫌がいい時は僕のことを「たいちゃん」と呼ぶことがある。


「太一に友達が出来たって聞いたから見に来たの」

尾行けてきたの間違いだろ……」


 なんでよりによってこいつが来るのか。何しに来たのか。て言うか、この短時間で着替えて化粧して来るとは……姉はもしかすると化物の類なのかもしれない。


「俺、浅間陽介って言います! えと、お姉さんはいくつですか? 歳近そうっすね!」


 陽介は陽介で、年頃の男子学生らしくキラキラと目を輝かせて姉に話しかけている。なるほど……こういう人懐っこさが大事なんだろうな。まぁ、彼も今は彼女いないからあんまり参考にはならないな。


「たいちゃんの一個上だから、超近いよ。君ならタメでも全然OKだ!」

「よっしゃあ! んじゃあ、なんて呼べばいい?」

「真麻江ちゃんでいいよー」

「真麻江ちゃん! よろしく!」

「こちらこそ!」


 早い……距離を詰めるのが早すぎる……なんだこいつら、本当に怖い。がっしりと固い握手を交わした二人は、僕のことなど気にも留めずに楽しげな会話をしている。


 その間、僕はまた駅の方へ目を向けていた。

 甥浜駅は甥浜線の最初だから、駅が他に比べて広く、ちょっとした商店やファストフード店が駅構内に入っている。売店やら本屋やらが並ぶ看板が壁に埋め込まれてあり、出入り口がいくつもある。そこは昼間でも人の出入りがあり、特に子供連れの若い母親がいた。タクシーの運転手もいる。バスから降りてくる老人や学生も。だが、やはりそこに黒い影は見当たらない……――いや、やっぱり父の言うことは当たっていた。

 横断歩道の向こう側――日陰になったそこに、燻ったような黒い煙のようなものを僕の目が捉える。それは小さな塊で、ぐじゅぐじゅと不気味に蠢いていた。


「……太一。ねぇ、太一ってば」


 スパーンといい音が僕の脳内にまで響いてくる。頭を思い切り叩かれたらしい。


「なに……」


 痛みに呻きながら訊いてみる。すると、姉は眉をひそめた。


「なんだ、見てたのか」


 用は別にどうってことはないらしく、姉は僕の視ていたものを見つけるとそこに向かって駆け寄った。


「あ、おい! 姉ちゃん!」


 立ち上がり、腕を掴もうとするが既に遅く、姉は横断歩道を渡って一目散にそれへと向かう。そして、しゃがみこむとその影に向かって両手を伸ばした。


「なぁ、太一。真麻江ちゃん、何視てるの?」


 不穏を悟った陽介が訊く。僕はなんとも言えず、頭が真っ白だった。


 姉の視界は、悪いものを映さない。だから、何にでも躊躇なく近寄ってしまう。あれが黒い影だとも知らずに。

 姉はを抱き上げると、こっちに向かって手を振った。満面の笑みで。

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