05、

 水槽は病院の待合室にあったのだ。

 母と妹とインフルエンザの予防接種を受けるため、近所の小児科に来ていた。小学校高学年か、中学生くらいだったと思う。相変わらず病院に行けば「注射しない?」と母に聞き、そのたびに私とは正反対に、病院に行っても注射をされてもピクリともしない妹と比べられ「お姉ちゃんなのに、恥かしいよ」と言われた。その日も、いつも通り、お姉ちゃんからしましょうねと看護師さんが言うもんだから、診察室でおっかなびっくり、妹より先に先生の前に座った。簡単な診察が淡々と進められる。その間も私の心臓はおかしいくらい鳴っていて、耳までわんわんしていた。

「じゃあ、あっちの部屋に行って注射しましょうか」

 まるで、死刑宣告みたい。抗いようのないその言葉は、私の何か、またはすべてを握りつぶしてしまう。ごしごしと右腕を脱脂綿で擦られる。ただのアルコール消毒なのに、もう痛いような気分になる。怖い怖い怖い怖い。ぎゅーっと目をつぶると、「力を抜いて」

 と太った看護師さんが言う。鈍い痛みがして、一瞬にしてその看護婦さんを恨む。

「はい。終わりましたよ。お姉ちゃんは、妹さんが終わるまで待合室で待っていてね」


 ふらふらと立ち上がり、診察室を出る。

 診察室を出ると私は水槽の前に座った。座ったのだけれど、おかしいのだ。目の前がくらくら揺れている。水槽の揺れに脳もつられてしまったのだろうか。冷や汗だか脂汗だかがおでこと背中に流れているような気がして私は何度も椅子に座りなおした。それでも、おかしい。なんだかさっきより悪化しておかしい。耳も遠い。

 不安になった私は、母のそばに行きたくてもう一度診察室に行く。診察室のドアには、カラフルな『し ん さ つ し つ』と書いたプレートがさげられており、いかにも小児科らしい。

 診察室をくぐると奥のほうに、妹をだっこした母が見えた。「お母さん、気分悪い」そう言いたいのに、口が回らなかった。おかしいのは口だけではない。足取りも。一向に、前に進んでいる気がしないのだ。座りたい。立っていられない。

 立っていられない私は、診察室の隅にある白いベッドを目にとめる。とにもかくにも、座らせてもらおう。そう思い、ベッドに近づき腰かけた。

 腰をかけた、つもりだった。

 実際は、ベッドの手前ぎりぎりのところ、つまり空中に腰かけ、私はしりもちをついた。しりもちをついたというより、80センチくらいの高さから落っこちたと言った方がいいだろう。そこから、私の記憶は、いったんなくなる。気が付くと、母、看護師さんが何人かと、院長先生に囲まれていた。しりもちをついたままだったので、記憶がなくなったのは一瞬だったよう。

 そのあとは、白いベッドに寝かされ、血圧を測られ、「大丈夫だ」というのに、なかなか帰してもらえなかった。実際、私は、この時から何度となく注射をするたびに、気分が悪くなり倒れるのだが、どの時も、すこし横になっていればいつも通りの体調に戻ることができた。

 後日、この日の様子を母から聞くと「夢遊病みたいな動きで、近づいてきたかと思うと急にベッドを目指しだし、勝手にベッドに腰掛け損ねて、しりもちをついた」と言われた。

 なんとも間抜けな姿である。


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