03、
小学二年生の私の担任の先生は、笑うと目の端にしわがいっぱいできる女の先生だった。大らかでよく笑う人だったが、宿題をたくさん出すし、忘れ物や礼儀作法を怠るとものすごい勢いで叱った。時には、先生が泣き出すのではないかと思うほど熱く厳しかった。
私が真面目な大脱走をした日。あの日の前の週、教科書を忘れた男の子が、立たされて「帰りなさい」と怒鳴られた。男の子は泣きながらランドセルを背負って扉の前まで行ったがそこからどうしたら良いのかわからず棒立ちになった。
七・八歳の子供たちが集まる教室で、みんなが息を飲んでいた。
するとさきほどまで怒り狂っていた先生が、突如泣き出した。棒立ちで泣く少年と、一言も喋らないクラスメイト、情緒不安定な担任の先生。教室は混沌とした。
私にとって、この日の出来事は、あまりにも衝撃的であった。帰宅して母に伝えるのもはばかられて秘密にした。
一週間後である。私は、朝の教室でランドセルの中身を確認しながら、サーっと血の気が引くのが分かった。教科書を忘れてしまった。
大脱走の幕開けだ。
「帰りなさい」
頭の中は、先生のあの震える声でいっぱいだった。
すぐさま下駄箱まで行き、履きなれた靴に足を乱暴に突っ込むと、私は駆け出した。校門までの長い桜並木を、登校してくる生徒たちとは逆方向に突っ走る。クラスメイトの何人かとすれ違ったが、皆、きょとんとしていた。正門を抜けたあたりで高学年の子だろうか、お兄さんに「一回学校に来たら、勝手に出たらいけないんだぞお」と叫ばれた。そんな言葉、あの時の私には伝わるはずもない。大事件なのだ。
うちまでは一本道。息がぜえぜえいって苦しくなった。そんな時にちょうどよく雨なんかが降ってきて状況はさらに悪化する。坂を下れば家なのに、よろよろの足腰に坂道はツラくて右足の靴が脱げた。私は、もうかなり前からだけど、泣き出していた。靴が脱げたことでくじけて大泣きした。
みじめで、苦しくて、でも早く教科書を取りに帰らなくてはという気持ちでいっぱいだった。
「どうしたの?」
わんわん泣いていたら、後ろから声をかけられた。よく知っている近所のおばちゃんだった。
私は保護されて家に送り届けられた。家に帰って母に経緯を伝えていると、なんだか悪いことをしてしまったのだ、ということにその時はじめて気が付いた。
母は笑いながら「なんだ。悪い人に襲われたのかと思ってお母さんびっくりしちゃったじゃない」と言った。母は私の大脱走がいたって真面目な大脱走だと分かってくれた。
それにしても、びしょ濡れで、靴が片方脱げて疲れ切った娘が泣きながら近所のおばさんに保護されて帰ってくるというのは、母親的にも大事件だったであろう。
なんてことのない面白おかしいエピソードのように思えるが、私は未だにこの話を、笑い話にして他人に語ることができない。
連れ戻された学校の職員室の革張りのソファ、担任の先生の申し訳なさそうな顔、教室に帰ったときの消え入りたい気持ち。忘れることができなかった。
そんな大事件のすべてを塗り替えてしまうくらい、今回の「耳にカビが生えた」というのことは衝撃的で、私を大変呆れさせた。
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