とある精神病院の診察室にて
西宮樹
とある精神病院の診察室にて
ふと気が付くと、私は真っ白な部屋にいた。
何もない部屋だ。片隅に置かれたベッドと、物を書くための小さな机。机の上には、紙と先の丸い鉛筆があり、ファイルが乱雑に置かれていた。大きな窓と、そこから入ってくる柔らかな日差しが無ければ、牢獄に見えてもおかしくはない部屋だった。
「……ここは」
立ったまま、ぼーっと部屋を眺めていると、ドアに張ってある紙に気が付く。何かが書いてある。
私は気になって、その紙に近づいてみる。するとそこには、
『午後から診察
13C24室』
とだけ書かれていた。ボールペンで書かれているようだ。これは私の字だろうか。
と、そこで私は、急に自分の事を思い出してきた。そうだ、私は医者なのだ。それも外科や内科と言った、分かりやすい医者ではない。
精神病患者のためのカウンセラー。それが私の仕事だった。
私はこの病院に泊りがけで働いていて、患者の病室を借りて生活しているのだった。
まったく、こんな事を忘れてしまうだなんて、どうかしている。それに冷静になって自分の体を見れば、私が今着ている服は白衣じゃないか。これで医者じゃ無いと言う方がおかしい。
自分の事すら忘れてしまうなんて。きっと寝起きで頭が動いていなかったのだろうと、自分を納得させる。
「おっと、こうしてはいられない」
壁にかかっているデジタル時計を見ると、時刻はもう十二時を回っていた。これでは遅刻だ。
私は白衣を翻ると、ドアの張り紙を取ってから、ドアを開けて部屋を出た。
**************************************
ここ
この病院の主な業務は、精神病患者を入院させ治療や保護する事である。そんな一般的な精神科病院の仕事と、もう一つ別の仕事がある。
その仕事を担っているのが私、という訳だ。
「こんにちは、ドクターさん」
「やあ、こんにちは。調子はどうだい?」
診察室で、私は患者と相対する。机を挟み、一対一で向かい合う。
「問題はないですよ。そういうドクターさんはどうです?」
「そうだね。今日はちょっと、寝起きが悪かった。やけに寝起きがかったるくて、しばらくぼーっとしていたよ」
「おや、大丈夫ですか」
「きっと天気が良かったからだ。あの部屋には陽の光くらいしか楽しいものが無いから、つい楽しんでしまう」
「それでまどろんでいたと」
「何せあの部屋にはカーテンも無いからね。否が応でも光は入るさ」
そう言うと、私は軽く笑う。彼女――溝口巽も、私に合わせるようにして笑った。
彼女は、一見すると温和そうな女性だ。年は三十代から四十代と言ったところで、常に柔和な笑みを浮かべている。教師か保育士、それこそカウンセラーのような職業に就いていそうだと、彼女の事を何も知らない人は言うだろう。
しかし私は知っている。
彼女の本性を。恐るべき内面を。
「それじゃあ、君が今週した事を教えて欲しい。話す事は何でもいい」
「今週は、本を読んだりしていました。医学書ですね」
「人の中身を解剖している、そんな内容の本かい?」
「そうですね、そんな言い方も出来るでしょう」
「しかし君は散々、人の中身を見てきただろうに」
「そんな事は無いですよ。人というのは本当に興味深くて、私の想像を遥かに超えます。いくら調べても足りないくらいです」
彼女は眼を輝かせながら熱く語ってくれる。
彼女の言っている事は本当だ。彼女は多くの人間について、その中身を解剖してきた。腹を割り、胸を開いて、頭を搾ってきたのだろう。
三十人。彼女が今まで殺してきた人間の数だ。最もそれは、彼女にとっては殺したというより、解剖したという言い方の方が正しいだろうが。一つ言える事は、結果として三十人は無残に殺され、彼女の死刑は確定したという事だ。
この病院のもう一つの業務であり、私の仕事というのは、こういった死刑囚に対しカウンセリングを行う事である。
とは言っても大した事はしない。取り留めのない話をして、精神状態に異常がないかチェックする。それだけだ。
恐らく、精神鑑定か何かの資料にでもするのだろう。死刑囚と言えども人は人。ましてやそれが精神病患者ともなれば、その扱いは丁重にならざるを得ない。死刑にした人間に精神疾患があったともなれば、世間のバッシングは免れない。
だからこうして、定期的にチェックを行うのだ。
「……」
「どうかしましたか? ドクターさん」
彼女は、私の事を『ドクターさん』と呼ぶ。不思議な呼び方だ。
心配そうに見てくる彼女に、私は「何でもないさ」と答える。いけない、余計な事を考えてしまった。
いくら彼女が対象殺人者でも、ここでは一人の患者だ。だから私は医者として、誠実に彼女と向き合わなくてはいけない。
「さあ、面談を続けよう。そうだね、今日は君の昔話でもしようか」
「昔話、ですか」
「ああ」
昔の事をどのくらい覚えているのか。また、その思い出に対しどのような感情を持っているのか。それを把握するのも、精神鑑定には重要なプロセスとなる。とりわけ、彼女のような死刑囚にとっては。
「そうですね、昔の事と言われても、何を話せばいいのか」
「学生時代の話なんてどうだろうか」
私が助け舟を出しても、彼女は悩んだままだった。腕を組みながらうーんと唸って、「本当に、話す事が無いんです」と言った。
「あんまり、大した出来事は起きていないというか」
「そうなのかい? 普通の女学生だったとか」
「普通と言っていいのかは分かりませんが。とりわけ人に話せるような話題はありませんよ」
「……」
彼女は誤魔化すように笑った。嘘をついているようには、思えない。きっと彼女は、自分の人生が変哲も無いものだったと信じているのだろう。
しかし私は知っている。
彼女の母親は、彼女が小さい時に家を出て行った。父親は彼女に暴力を振るい、そんな生活が十年続いた。その時の彼女の心境を慮ると、中々つらいものがある。その経験が、彼女を殺人者に変えたのだろう。
酷い境遇の中を生き抜き、そして三十人もの人を殺した。しかし目の前の彼女はとてもそうは見えない。普通の女性に見える。
「それより、ドクターさんはどうですか?」
彼女の方から突然切り出され、私は思わずたじろぐ。
「私かい?」
「ええ。私としては、ドクターさんの昔話の方が気になりますよ」
私の話か。本来私の仕事は彼女の話を聞く事であって、自分の話をする事ではないのだが。しかし興味があると言われれば、言わない訳にもいかないだろう。
互いを理解する事が、コミュニケーションの一助になる事は間違いないのだから。
「そうだね、私の学生時代は……」
「学生時代は?」
「……あれ?」
思い出せない。
思い出そうとすると、なぜか靄がかかったようになる。
待て、私は医者だ。それは間違いない。だから、医学部に通う大学生だった時期があったはずだ。では、それはいつだ? 何年前の話だ?
そもそも、私は一体何歳だったか? この病院には、いつから勤務していたっけ。
私は何者だ――?
「――うっ」
無理に思い出そうとしたら、突然頭痛が襲ってきた。椅子から転がり落ちるようにして、床にへたり込んでしまう。
「だ、大丈夫ですか! すぐに人を呼びます――」
「いや、心配しなくていい」
驚いたような、心配した顔をしている彼女を手で牽制して、私は自力で立ち上がる。
脂汗が酷い。白衣の裾で拭うと、べっとりと濡れていた。
「……ふう」
深呼吸をして体を落ち着かせる。椅子に座ると脱力感が襲ってくる。
「本当に大丈夫ですか?」
「――思い出したんだ」
顔を覗き込む彼女に対し、私は呟くように言った。
「私は、地元の大学に通う大学生だった。勉学に励む中で、哲学や精神医療に興味を持ち、それでこの道に進む事を決めた。あとは病院を転々として。三年程前から、この病院で働いている」
一度思い出したら、すらすらと出てくる。さっきまでの度忘れが嘘のようだ。
「すまないね。思い出すのに随分と時間がかかった。今日は本当に、調子が悪いようだ。まだ寝ぼけているようだ」
「……ずっとですよ」
「?」
私から眼を逸らして、彼女は呟いた。あまりにも小さい声で、正しく聞き取れたのか分からない。
ずっと? 彼女はそう言ったのか。
果たして彼女は何と言ったのか。何を伝えたかったのか。それを聞き返そうとしたところで、
「あ、もう時間ですね」
視線を壁掛け時計に向けながら、彼女が言った。
どうやら面談時間は終わりのようだ。時間が経つのは早い。
「今日はすまないね。私の調子が悪いばかりに、君に迷惑をかけてしまった」
「いえ、また話しましょう、ドクターさん。私は、あなたの事をもっと知りたいですから」
私の謝罪に、彼女は笑顔で返す。しかも、今後の約束まで取り付ける如才のなさだ。
だが私は知っている。死刑囚である彼女は、いつ死んでもおかしくない。もしかしたら、明日には処刑されているなんて事もありえる。次に話せる機会なんて、あるかも分からないのだ。
「……また話せる日を楽しみにしているよ」
「ええ」
そう言うと、私は診察室を出た。扉のプレートには、『13C24』と書かれている。
今まで彼女と何回話したろうか。そしてこれから、何回話せるだろうか。それは私には分からない。そして、知らなくてもいい事なのだろう。
彼女にとって私は、しょせんただのカウンセラーでしかない。彼女の人生の最後の一時に現れる、おまけのような人間だ。彼女は、私の事をもっと知りたい言う。しかしそれは結局、解剖したいという事に他ならない。
そしてその機会が永遠にあり得ない以上、彼女は私の事を理解できないだろう。
そして私にとってもそれは変わらない。彼女は所詮、患者の一人でしかない。こうして話して、精神状態にチェックを入れる。それだけだ。
「――あれ?」
と、そこで私は気が付く。
――そう言えば、カルテの類を持っていない。
部屋を出ていく時は手ぶらだったのだから、当然と言えば当然だけど。しかし、患者の診察に際し、何も書かないというのはありえないだろう。
そもそも私は今までの診察で、カルテの類を持っていただろうか。
「まあ、いっか」
なぜか私には、それが大して重要でないように思えた。何というか、私には必要ない物に思えるのだ。それどころか、要らないとすら思えてくる。
きっと私の仕事は、めんどくさい書類を書く事ではないのだろう。患者とふれあい、彼らの心を覗く。それが私の仕事だ。
さて、明日は誰と話すのだろう?
少しだけワクワクしながら、私は自分の部屋へと戻る。
**************************************
『13C24』と呼ばれる部屋の中で、彼女――溝口巽は本を読んでいた。静かに、黙々と、ページをめくっていく。小さな紙の擦れる音が、『13C24』に微かに響く。
本のタイトルは、『自分を騙す嘘 ~精神医学の観点から見る虚言癖~』というものだった。彼女はそれを、興味深そうに見る。
まったく人の心理というのは奥が深いと、彼女は思う。いくら調べてもキリがなく、自分の想像をはるかに超えている。
精神医学というのは、人の心を解剖するようなものである。ただ、人の心は眼には見えない。だから、あの手この手で人を分かろうとする。
彼女にとって、精神医学とは人と人が分かり合うためのものだった。
「――すみません」
突然、そんな声が部屋に響く。と同時に、控えめに扉がノックされる。彼女は読んでいた本を閉じると、扉の向こうにいる人間に声をかけ、部屋に入るように言った。
「失礼します」
「あら、
扉を開けて入って来たのは、看護師の雛森アキラだった。この病院に配属されたての新米で、溝口もよく世話を焼いている。
「いえ、その。次の患者さんの診察までもうすぐなので」
「あら、もうそんな時間」
溝口は時計を確認する。時計の針は、次の診察までの時間が無い事を示していた。彼女は椅子に座ったまま、背伸びをして凝り固まった体をほぐす。
「ああ、今日も大変だったわ」
「……今日の患者さん。あの人でしょう? 虚言癖の」
オドオドしながら、雛森が声をかける。精神病患者との面会という、重大な仕事を終えた溝口に対し、ねぎらいの言葉をかけようとする。
「自分の事を、医者だと思っている」
「……そうね、彼の症状は一見普通に見えて、どうしようもなく破綻している。下手に刺激するとどうなるか分からない。ある種厄介な患者だわ」
溝口は、さっきの診察を思い出す。
患者が過去の話を思い出そうとした時、急に頭痛を訴えた。と思ったら急に立ち上がり、平然とするのだからびっくりした。しかも、その口から語られた過去はすべて偽物だった。
「彼は自分の事を、精神医学に携わる医者だと思い込んでいるわ。この病院に泊りがけで務めているカウンセラーだってね」
「本当は、ただ入院しているだけなんですけどね」
そう、実際彼の部屋は、患者用の部屋である。一見すると牢獄のように見えるのは間違いではなく、暴れる精神病患者を収容する役割を兼ねているからだ。
部屋が殺風景なのも当然で、自傷行為に繋がりそうなもの――先の尖ったボールペンや、首を絞められるカーテンの類――を除けば、自然と殺風景になる。
「しかも私の事を、死刑囚か何かだと思っているらしくてね。大勢の人を殺した、殺人者だって」
「へえ、それは怖いですね」
「死刑囚が、こんな病院にいる訳ないじゃない。普通、刑務所で話すものでしょうに」
「確かに、そう言われるとそうですね」
「そして彼は、私のカウンセラーを務めているらしいの。私も彼の事を、ドクターって呼んだりして」
「え、本当ですか」
「というか、向こうが勘違いしたのよ。私は『
「それはまた、面白い話ですね」
「そうね。思えばそう呼ばれた時から、彼は自分の事を医者だと思い込んだのかもしれないわ」
椅子に深く腰かけながら、溝口は考える。
自らが医者だと思い込み、白衣を着て診察をフリをする彼。毎朝スタッフが書いたメモを読んで、自分がこの時間、この部屋で診察するのだと勘違いする。
溝口を死刑囚と思いながら、溝口の心理を勝手に慮ろうとする。
「……案外、普通なのかもね」
「え?」
「読田さんの見ている景色よ。彼の見てる世界は間違っていて、嘘にまみれている。でもその嘘に気づかなきゃ、世界は普通に回っているように見えるでしょ?」
「確かに、読田さんにとっては、自分が医者である事が普通ですもんね」
「……案外、私達の見ている景色の方が、嘘だったりしてね」
「ちょっと、怖い事言わないでくださいよ」
雛森は冗談と受け取ったのか、怖がっているフリをした。両手で体を抱えるようにする、過剰なリアクションだ。
しかし、溝口は真剣だった。それは常々、彼女の考えている事だから。
読田さんからすれば、自らは医者である『ドクターさん』となるが、私達からすれば彼は精神病患者の『読田さん』でしかない。
そしてそのどちらが正しいのか、それを完全に保障してくれる人間は誰もいない。私は彼を『読田さん』だと思っていて、周りがそれを保証してくれる。平たく言えば、ただそれだけの話だ。
実は読田さんの方が正しくて、他の全員が間違っている。そんな仮説を否定する材料は、この世界には存在しない。
それに。
案外、どちらの世界も大した違いはないのかもしれない。『ドクターさん』と『読田さん』、読み方で言えば、大した違いがないように。
「……なんてね」
「え?」
「なんか、変な事考えすぎちゃったみたい。本にのめりこみすぎたのかしら」
溝口は立ち上がり、首を回す。そして本を白衣のポケットに入れる。
「よし、じゃあ気合入れていきますか。行くわよ、雛森さん」
「はい!」
雛森を連れ添って、部屋を出ていこうとする溝口。と、そこで彼女は、とある事に気づいた。
――そういえば、カルテの類を持っていない。
とある精神病院の診察室にて 西宮樹 @seikyuuki
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