第2話 野球ってなんですか?

 結局その日は、誰にも声をかけることなく帰宅の途に就くこととなった。既に日も傾き、顔なじみの生徒が残っていなかったためである。


「ソースケ。あんたほんとーに、野球のこと知ってるわけ?」


 夕日に照らされる帰り道、かなめの顔が宗介の顔を覗き込む。この戦場帰りの軍事オタクは、いつだって誰も想像し得ないレベルの勘違いを披露するのだ。うろ覚えだが、さっきもとんでもないことを言っていた気がする。


 つい先日も、ラグビーのルールをまったく理解せず、ボールではなく対戦相手を蹴り飛ばして退場になったばかりだ。あの時の事件は、いまだに『二子玉川の悪夢』として他校の語り草になっている。


 しかも今回の相手もまた、硝子山高校なのだ。自然、嫌な予感もしてくるというものだ。


「肯定だ。以前マオから聞いたことがある」


「マオさん……。うぅ、心配だわ」


 マオとは、宗介の所属する秘密部隊ミスリルの仲間であり上官でもある女性で、かなめとも多少の面識があった。


 グラマラスな肢体と、とてもお子様には聞かせることのできない過激な発言(といっても、あまりに汚くてである)を操り、ボブカットの黒髪と吊り気味の目は、そのキツい性格をよく表している。


 とはいえ、飾り気の無いサバサバとした性格はかなめに通じるものがあるため、かなめはマオに好感を持っていた。持ってはいるが――


(絶対まともに教えてない)


 逆の信頼感もあった。


「そうだ」


 不安に駆られるかなめの脳裏に、一つの案が降ってわいた。


「これからテレビ……は最近やってないか。ラジオで野球の試合聴けるから、うちで聴いてく?」


 野球の詳しいルールとまではいかないが、実際にプレイしている中継を聴けば、どんな競技なのか大まかなイメージぐらいは掴めるはず。


 詳しいルールは、明日ソフト部の恭子にでもルールブックを借りて、授業中にでも読ませればいい。それに久しぶりに一緒に夕飯を食べるというのも――


「いや、問題ない」


 思考を寸断する容赦のない返答。こともあろうに、この朴念仁は、にべもなくかなめの提案を断った。どうしてこの男は、こうもこちらの意を汲み取ってくれないのだろうか。


 多少イラッとしたかなめのこめかみに青筋が浮かんだ。


 が、ここは慣れでなんとか堪える。


「いいから来なさいって。夕ご飯、食べて行きなさいよ」


 ゴクリッ


 宗介の喉が分かりやすく応えを返した。普段、軍隊のレーション等ばかりを食べている宗介にとって、かなめの料理は紛れもないごちそうなのである。自然、かなめが作ったスパイシーなカレーの記憶が鼻腔をかすめる。のどには唾があふれる。呼ばれて断る理由もない。


「そういうことならば、伺おう」


「えぇ。そーしなさい」


 かなめの声音には、尊大な態度の他にも、嬉しい感情が見え隠れしていた。



 帰り道の商店街で、しこたまカレーの具材を買いこんだ二人は、マンションのかなめの部屋へと上がっていった。


 張り切って買いすぎただろうか。その袋はずっしりと重く、隠し味にと買ったリンゴが、袋の上から零れ落ちそうになっている。


「じゃあ、ちゃちゃっと作るから、はいこれ。聴いてなさい」


 荷物を抱えながら、鼻歌交じりにキッチンへと向かうかなめ。その横を通って、宗介は居間に腰を下ろした。


 かなめから渡された古臭いラジオに電源を入れると、ラジオ特有のガビガビ音が聴こえ、感度を調整すると、球場から鳴り響く声援や、鳴り物の音が轟いてきた。


「まるで戦場だな……」


 戦いに身を置く宗介には、どうやら鳴り物や声援の音は、違った印象で知覚されるようだった。


『さぁ、試合は大詰め8回の表の攻撃。現在スコアは両投手好投の末に0-0! 熱戦の様相となっております』


 アナウンサーだろうか。やたらとハキハキとした滑舌の良い声が聴こえてくる。


『私ぁ打ち合いの方が好きですがね。ま、先発の白田君と藤山君、どちらもお互い一歩も引かずといった素晴らしい投手戦ですなぁ』


 こちらは勿体つけたような老人の声。だが、多少早口になっている。おそらく解説だろう。喋り方に差はあれど、どちらも少し興奮した様子で熱がこもり早口だ。


 2人は今までの試合展開を振り返りつつ、両軍の奮戦ぶりをあれやこれや解説していたが、残念ながら野球というゲームのルールを知らない宗介には、これっぽっちも展開が伝わってこない。


 ただ、うねる様な歓声や、轟くような鳴り物の轟音、『アァァァァァイッ!』という何者かの奇声(球審のストライクコール)などが折り重なり、熱波のような興奮がスタジアムを包みこんでいる空気だけは感じられた。


(これはデモだな。暴動に対する備えは万全なのだろうか)


 宗介がそんな物騒なことを考えながら中継を聴いていると――


『アーッ!』


 不意にアナウンサーの悲鳴があがった。緊張感のある悲鳴。宗介は咄嗟に銃を構え、次の展開に耳を尖らせた。


『打った球がピッチャーに直撃! ボールは転々と転がって……ヒット! ヒットです! 白田は大丈夫でしょうか。頭に当たったように見えましたが』


 暫時、宗介は戦慄した。


「大丈夫なわけがない……頭を狙撃ヒットされたんだぞ……」


 今まさに、ラジオの向こうで殺人事件が発生したのである。


 もちろん球場では打球が投手に当たっただけなのだが、歴戦の戦士である宗介の耳には『撃った弾が頭に直撃! 狙撃ヒットです狙撃ヒット』としか聴こえていなかった。


『あーっとダメなようですね。ここでピッチャー交代です。場内は騒然。観客席も異様なムードに包まれております』


 沈痛なアナウンサーの声が響き、宗介もまた、息をのんで試合の先行きに耳を傾けた。


 と、すると突然、球場の喧騒が途絶え、たどたどしい子供の声がラジオから響き渡る。


『すごーい。美味し~』


 たった今人が撃たれたはずなのに、ラジオから響く6歳くらいの媚びた子供の声。どうやらみそ汁の宣伝らしい。


(なぜこのタイミングで!?)


「まさか……解説席が占拠されたのか?」


 陰謀の臭いを感じ取った宗介は、愛用のグロッグに力を込めた。なおも続くみそ汁の宣伝。宝くじの宣伝。カーナビの宣伝。間違いない。事件は現場で起こっている。


 だが、ちょうど宗介が陰謀を確信したタイミングで中継が再開された。


 そう。もちろん解説席は占拠などされておらず、中継ぎ投手が緊急登板のための調整をする間、CMを流していたにすぎなかったのだ。


 宗介は中継が復活したことに多少の安堵を覚えた。しかし、グロッグを握りしめる手からは力が抜けず、相応の緊張感を残したまま事態の流れに備える。


『代わったピッチャーのマックスですが、なにやらそわそわしていますね』


『これは狙っているかも分からんね』


『といいますと? 』


『報復死球ですよ。さっきの藤山ねぇ、私見てたんですが、白山が倒れてる時に、ニヤニヤしながら一塁へ走っていったんですよ。ほらここ、なにかヘラヘラしながら煽っていますよこれは』


 宗介の脳裏には、相手を狙撃ヒットして挑発の笑みを浮かべる危険な男が映っていた。その男が犠牲者たちを煽っている。


(報復しきゅう――)


 『しきゅう』とは何だろう。しきゅう。死球。やはり死球だろうか。報復と言っているし、おそらくは復讐。


 軍隊では報復行為は頻繁に行われている。やられてやり返す力を見せなければ、カモだと思われるからだ。調子に乗った相手からの攻撃はどんどんとエスカレートしていく。それを防ぐには報復するしかない。


 テロに対するカウンターとして、某国の調査員が、テロ犯の親族を一堂に集め一人ひとりテロ犯に聴こえるように処刑していった話は有名だ。テロ犯は泣き叫びながら慈悲を懇願したそうだが、譲歩は行われなかったという。


 おそらく、今からマックスという男が藤山という男の命を狙うはずだ。銃撃戦になるのだろうか。いや、だがクサい。わざわざ藤山が挑発した理由は――


「そうか。ブービートラップ」


『アーッ!』


 呟くや否や、ラジオからまたも悲鳴が上がった。


『当たった! 当たりました! 頭部直撃! 頭部に行きました! これはいけません! 両軍がベンチから飛び出してきます! 場内騒然!』


 ゴクリッ


 宗介の脳裏では、筋骨隆々とした黒人傭兵のマックスが黒光りする銃を構え、F言葉を吐き散らしながら藤山の頭を撃ち抜いていた。ブービートラップは不発。藤山は策に溺れたのだ。


『いったー! いの一番にマックスへと飛び掛かっていった藤山! もの凄いパンチが入りました! あー! マックス倒れた! 動けない!』


「なに! 藤山だと!?」


 宗介の頭の中では、倒れた藤山が狂喜の表情で起き上がり、油断するマックスへと躍りかかった。そのまま殴り倒し、ナイフで喉を掻き切る。


 藤山は死んでいなかったのだ。だが何故……。


(そうか。ヘルメットか)


 確か野球という競技をしている者は、ヘルメットを被っていた記憶がある。あれは防弾だったのだ。藤山は相手の油断を誘うために挑発し判断力を奪い、射殺されたふりをしてマックスを急襲したのだ。


(なるほど。マックスめ、詰めが甘い)


 歴戦の戦士である宗介からすれば、藤山の策謀など称賛に値するものではない。冷静さを欠いたマックスが間抜けだった。それだけの話である。


 ちなみに、改めて言う必要もないだろうが、実際の球場では、藤山の次の打者がデッドボールをくらい、担架で運ばれ、一塁にいた藤山がマウンドでマックスを殴り倒しただけの話である。決して死者は出ていないし、宗介の頭の中のように銃弾もナイフも煌めいてはいない。


 しかしこの試合は、宗介の中の野球に対するイメージを見事に間違った方向へと運んでしまっていた。


『いや、しかしこういうのもなんですが、やはり野球は乱闘ですなぁ。血湧き、肉踊りますよ』


 ラジオから轟く悲鳴。溢れる怒号。湧き上がる歓声。そして恍惚とした声を漏らす物騒な解説。


 宗介はラジオから流れてくる様々な情報を精査し、グロッグを握りしめ――


「これの指揮を、俺は執らねばならないのか」


 タラリと、冷たい水滴と共に、緊張の言葉を零した。


 肺腑の奥に冷たい氷の塊のような不安を抱えながら、宗介は必死に考える。いったい誰を集めればいいというのか。


 ご機嫌な様相でカレーを持って現れたかなめは、その時確かに聞いたのだった。


「――まと―でらは、残念だが覚悟するか。生きては帰れないだろう」

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