呼び名
「あっ、いらっしゃいませ」
翌週の土曜日、僕は師匠と出会った将棋教室を再び訪れていた。
目的は勿論…………将棋だ!
だというのに、「胡桃ちゃんは、来て指してますよ」などと受付のお姉さんが女子小学生を薦めてくる。
確かに今日は師匠から将棋の指導を受けるために来た。
決して、女子小学生に会うためではない。
決してだ。
たまたま師匠が女子小学生であっただけだ!と自分に言い聞かせ、ありがとうございますと挨拶しつつ、教室へと入った。
さて、師匠は?と我が愛らしい師匠を探すと、そのお姿はすぐに見つかった。
陽光を受けた、髪は透けて綺麗な栗色をしている。懸命に考えているのか、プクッと頬を含ませたその姿は可愛らしいリスのようだ。
そんな師匠は、僕の親と同じぐらいの老人と対局していた。
将棋は、知的ゲームだ。
体格差などが関係ないため、まさに老若男女問わず一緒に楽しめるのが、将棋の魅力の一つだと思う。
まるで縁側で孫に将棋を教えているようなそんな微笑ましい光景に、盤面をこっそりのぞく。
そこには慈悲の欠片もない凄惨な状況が広がっていた。
しかし、それも致し方ないかもしれない。
互いに玉の囲いは、同じ穴熊。
穴熊とは、絶対に王手がかからないという特性を持つゆえに現代将棋においては、穴熊に囲えた時点で作戦勝ちとまで言われている、最強格の囲いの一つだ。
その防御力の高さを活かして、防御力をかなぐり捨てて攻撃に特化することができるのだ。
お互いが穴熊に囲いあったということは、インファイトの殴り合いで先に攻めを切らしたほうが負ける。
そして、勝ったのは師匠のほうのようだ。
相手の老人は、攻め駒尽きてあとに残されたのは堅陣だが逃げ場がない穴熊囲いのみだ。
俗に穴熊の姿焼きと言われる。
老人はそれを見て、「こら、だめだ」とおうぎょうに笑うと、「お嬢ちゃん強いなー」と手合カードに記入すると早々に席を立ってしまった。
どうやら感想戦はしないようだ。まぁ、義務ではないしな。
老人と入れ替わるように僕は師匠の正面に立つ。
「どうも師匠、おはようございます」
すると、師匠はきっと上目遣いにこちらを睨むと「もう、昼過ぎよ」と言った。
あっはは、すみませんと、体に染みついた愛想笑いをうかべつつ僕は席に座った。
「しかし、全駒する勢いですね」
改めて盤面をみると、相手の駒がほとんどなかった。
「諦めずにひたすら攻めてきたから、」
駒を片付けつつ、それに、と師匠は言葉をためると、
「振り穴だったのよ」と力強く言った。
振り穴とは、振り飛車で穴熊囲いをすることだ。逆に居飛車穴熊は、居飛穴と言われる。
師匠は、振り飛車を不利飛車と言って憚らない本格派居飛車党だ。まるで親の敵のように振り飛車党を嫌っている。何かあったのだろうか?と勘繰ってしまうほどだ。
しかし、僕は無難に返すことにした。
「それはいけませんね」
それで正解だったようで、師匠は、ふふんと鼻をならし、一手損の違いを咎めてやったわとご満悦だ。
興が乗ったか、師匠は片付けた駒を再び並べ始めた。
「せっかくだから、ここから勝ちきってみなさい」
先ほどの場面が再現される。いわゆる穴熊の姿焼きだ。相手は攻めゴマがないため、こちらは攻めるだけでいい負けようがないはずだ。
しかし、それによりも、
「すごいさっきの覚えてるんですか?」
まっさらな状態から、瞬時に先ほどの盤面を再現出来てるのだ。その記憶力に驚いていると、師匠の眉根が寄り、「当り前じゃない、さっき指したばかりよ」と何言ってるの、こいつ?と言った感じだ。
まじか、さっきだろうとなんだろうと、盤面を全部記憶することなんてできない。
ほぉ~師匠はすごいな~と感心していると、
「あ、あんたにだってそのうち出来るわよ!」
そう言いつつ、師匠は感心されたのが、恥ずかしいようで赤い顔を扇子で隠してしまった。
その行為自体は大変可愛らしいのた、あんたはいただけない。ここは大人として注意するべきだろう。
「師匠、目上の人に“あんた”はいただけません!」
すると、師匠は扇子から半分顔を出す。上目遣いの琥珀色の瞳と目が合う。釣り目のため睨んでいるように見える瞳は、心なしか怯えた色をたたえてるいるような気がする。
うっ、少々強く言い過ぎたかもしれない、と僕は反省し朗らかな笑みを浮かべる。
「上総 巧って名前があるんで、それで呼んでもらえるかな?」
師匠は、それを受けてどう返すか、まるで将棋を指すような真剣さでもって眉間に皺を寄せ、頬をぷくっと含まらせる。
師匠はどうやら考えると頬を含ませる癖があるようだ。
リスのような愛らしい師匠を眺めながら、巧お兄ちゃんでもいいんだよ?なんて考えていると、
「かずさん」
まさかの愛称!いきなりフレンドリーすぎやしないですか、師匠!と心の中でツッコミを入れつつ、お兄ちゃんが諦めきれない僕は、「“さ”が一個、少ないですよ」などと意地悪なことを言ってみる。
「…………かずさささん」
「今度は、“さ”が一個多いです」
「よ、呼びにくいのよ!」
「そこは、失礼、噛みました。と言って欲しかったです」
「…………なによ、それ」
「すみません…………なんでもないです」
これが、ジェネレーションというものか。自分が年を取ったことを不意なところで実感していると、師匠が扇子で唇をトントン叩いている。
そうだ、まだ“巧お兄ちゃん”が残っているじゃないか、僕は気力を取り戻すと、
「た」
きたぁあああああああああああああああああああああ。
「巧!」
呼び捨てかぁああああああああああああああああああ。
僕は、思わず頭を抱えてしまった。
まさかの呼び捨てとは、…………いや待てよ。これはチャンスじゃないか。
僕は師匠の一手に対して、素晴らしい、次の一手を閃いた。
これしかない!
「師匠、確かに僕は教わる立場ですが、一応目上でもあります」
師匠の肩がビクッと震える。また怖がらせてしまったかもしれない。
しかし、一度放ってしまったからには、詰み切るしかないのだ!
目上を呼び捨てなどいけないことだ、ここは妥協案としてお兄ちゃんを提案しよう。
僕にしては冴えている。
僕は、まるで詰将棋を解き切ったときような妙な達成感を感じなら、次の一手を放とうとしたとき、
「将棋の世界では…………」
師匠が先に口を開き、
「師弟関係は、家族と一緒なの…………つまり巧は、わたしの息子のようなものなの!」
強烈な一手を放ってきた。
息子と来るとは、僕はたぶん今苦笑いをうかべているだろう。
確かに将棋界では師弟関係を、親兄弟のように表すのは知っている(ラノベや漫画で見た)。
だからといって呼び捨ては如何なものだろうか。
師匠をちらりと見ると、師匠はその丸っこくて可愛らしく、宝石のように輝く琥珀色の瞳をまっすぐとこちらを、上目遣いににらむように見つめていた。
視線をさらに下げれば、扇子を握りしめているのが見えた。
少女特有のマシュマロのように柔らかそうな手は、今は紅葉のように赤い。
それほどに扇子を強くにじりしているのだろう。
そんな懸命な師匠の姿を見てしまった僕は、…………投了せざるを得なかった。
「そういうことでしたら…………」と渋々といった感じで僕が応じると、
師匠の眉根がピクンと跳ね上がり、
そして…………次第に口元が緩みだした。
「ふふん、私が師匠としてしっかり教えてあげるわ」とドヤ顔だ。
そんなに師匠に僕の渾身の次の一手を放つ。
「はい、これからもよろしくお願いします。ママ」
「なっマ、―――ちょちょ、調子に乗るな!」
パチンと扇子ではたかれてしまった。
「わあわわわ、私のことは“師匠”と呼びなさい。いいわね!」
僕の考えた一手は、顔を真っ赤にして怒る師匠にバサリと両断されてしまった。
「あっははは、すみません。師匠」とその時は笑っていた僕だが、家に帰ってから、女子小学生にママはないだろうとベッドの上で悶絶するのだった。
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