いもむし

コオロギ

いもむし

 わたしはいもむしでした。

 しかし現在、わたしはにんげんの雌となっています。

 どうやらわたしが今のわたし、このにんげんに押し潰されて死んだときに魂が入れ替わったようです。

 いもむしであったわたしの皮膚は裂けて、緑色の体液がぷくりと丸い粒となって体外に押し出されたことでしょう。それを理解する間もなくわたしの肉体は死に、わたしの魂は別の生き物として生き延びました。

 生き延びたのはいいのですけれども、どうもこちらの体にもいろいろと不都合があるようです。右脚の間接部が通常とは逆方向に折れ曲がり、ぴんくの肉片と真っ白な骨が覗いています。胴体の中にあるいくつもの複雑な臓器も傷を負っているようで、あちらこちらから痛みが伝ってきます。いもむしであったわたしにはどれもが初めてで、どれもが新鮮に映りました。この肉体がどれほど危険な状態にあるのか、それだけは背筋が凍るほどに理解しました。

 いったいどうして、このにんげんはあんなところから落下してきたのでしょう。その場所には彼女以外に何人かにんげんがいたはずなのですけれども、彼女たちはどこかへ行ってしまったようです。

 だれかを呼びに行ったのでしょうか。それにしては時間が経っています。にんげんとは群れを成すいきものだったと記憶しているのですが、誤りだったのでしょうか。

 それともわたしが、もう助からないものと判断して去っていったのでしょうか。

 そんなことはわたしに分かりようもありません。ただ今生きていることだけはわかっています。

 わたしは首を持ち上げ、前を見ました。そこには灰色の壁があり、右側も、左側も、それに囲われていました。後ろには、見ることはできませんが、わたしが落ちた灰色の四角い建物が立っているでしょう。

 わたしは二本の腕を触角さながらに動かしました。先で五本ずつに分かれているこの指も一本一本蠢かして、わたしは前進を開始します。

 本当ならにんげんらしく、二本の脚で立って歩くところなのです。しかし右脚がこんな状態ではそれは叶わず、わたしは未だにいもむしのままみたように地面を這いつくばるしかありません。

 本当に今でもわたしがいもむしのままであったなら良かったのです。このざらざらした壁を越えることができたでしょう。塀に到達して手を当てたのですが、その手はするすると壁を滑って地面に落ちてしまうのです。

 困りました。吸盤状の脚とはまるで勝手が違います。かといって、立ち上がることもできません。

 爪を立ててみました。塀はがりがりと音を立て、爪と指の間からは赤い体液が滲み出しました。何枚かの爪が簡単そうにぺらんと剥がれて地面に落ちました。僅かに浮かび上がっていた身体が引きずりおろされるように前のめりに倒れ、顔面が塀にぶつかりました。

 また赤い体液が流れ出ていきます。けれどもなんとかこれで、塀に凭れかかることができました。

 腕を頭上へと伸ばします。壁の縁を掴みました。力を込めようとしますが、そこで視界が揺らぎ始めました。なんとか突っ張っていた左脚の膝が折れ、身体がずるずると壁に沿って崩れていきます。

 体液が出過ぎたようでした。わたしは死にかけでした。

 けれどもわたしはまだ生きています。

 消えそうになる意識をかき集めて、わたしはわたしに命令します。

 手を伸ばしなさい。

 手を伸ばしなさい。

 手を伸ばしなさい。

 手を伸ばしなさい。

 手を伸ばしなさい。

 手を伸ばしなさい。

 手を伸ばしなさい。

 手を伸ばしなさい。

 それが終わらない以上、わたしは死に向かって邁進するしかないのです。わたしは生きるのです。


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いもむし コオロギ @softinsect

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