憤怒の陽に向かって走れ! 6
――そうして、この焦熱地獄の渦中にはふたりだけが残る。
現代の『憤怒の魔王』ベオリスと。
過去の『不屈の勇者』リオトーデ。
どちらも人を超えて魔人を超越した
最強、最上の――半神だ。
だがその力を失ったリオトでは、おのずと格落ち。それも桁外れの弱体化を強いられた彼では、およそ対立しても勝ちの目はない。ありえない。
百回サイコロを振ったところで、七の数字は一生でない。
描かれていない数字を引き当てて、それを百回連続させる幸運――奇跡がなければ、彼我の実力差を埋めることなどできはしない。
だというのに。
「お? うるせぇのが遠のいた。シノギの野郎の魔刀だったか」
「追わないのか」
その立ち姿は、その声は、一片の恐怖も見当たらない。
泰然で自若で、平静そのものだ。
まるで敗北の見えない蒙昧のよう。死を知らぬから恐れぬ盲目の愚者のよう。
けれど違う。違うのだ。まるで違う。
彼は――勇者なのだ。
勇者とは勇気ある者。勇敢で勇猛な英雄である
ならばこそ、敗北への恐怖も、死への絶望も、抱いてはおれども克己できる。勇気は、恐怖と絶望に打ち克って人を立ち上がらせる真に尊き感情だからだ。
決して、力を持った半神だからでも、紋章を得た現人神だからでもなく――リオトはその魂からして勇者なのである。
翻って、では。
「べつに。オレは誰かってぇと、お前が一番気になってるからな――その澄ました顔の裏で、おい、どんだけ怒りを燃やしてやがる? 見せてくれよ、なあ?」
ベオリス・ザダ・ミーノス。
彼もまた、心胆からして魔王である。
その性根は傲慢で自分勝手。なにより理不尽であり、この世全てが己の足下にあると信じて疑わない暴君だ。
「まさか、そのためにシノギを」
「ふん、この力の制御はお手の物さ。だからこそ、今だって抑えてるってのは、わかってるよな?」
空間が狂ったように振動し、その熱量をさらにさらに向上させる。それは世界そのものを変質させるほどのエネルギー。
気づけば大地はドロドロと熔けてマグマの如き流動物質と化している。空気は乾燥しすぎて鋭い刃のよう。雲は失せ、風は死に、そこら中で蜃気楼のような歪みが引っ切り無し。
ここはあるだけであらゆるものが死滅し焼却されるこの世の地獄である。
リオトのカソックも、ベルの冷却領域も、そんな些事なぞいつでも突破できるのだと、地獄熱波の魔王は笑う。
「なんかあったよな、翼人どもの故事だったか、太陽に近づきすぎて死ぬ的な話」
「貴様に近づけば蝋のごとく溶かされる。通常、誰も彼もが近寄れない。ただ接近するだけであらゆる者を死に至らしめる、貴様は太陽そのものだな」
「そうだ――オレは太陽だ」
その太陽は金色に輝かず、ただ命を奪う漆黒のそれ。
「漆黒の太陽。お前の挑むのはそれで、勝利なんてありえない。
だっていうのに、不屈。諦観に足を止めることもなく、絶望に沈むこともない。悲哀に涙もしない。
大した精神力だ。その理性で抑え込んだ
「貴様はそればかりだな。本当に――人というものを、ただ己の快楽のための道化としか見えていないのだな」
怒りという感情の一個だけを見て、それ以外を等しくどうでもいいと言う。
人はあらゆる感情を複雑に組み上げて心とした存在であり、ただひとつだけを抽出しようとするのは人を人と思っていないということ。
ただの――自分を楽しませるための道化、玩具としか見ていないのだ、この男は。
「ひひ、腹立たしいかよ。ひとをひととも思わぬ人でなし――そんなオレに義憤を感じるかよ、勇者。
けどなぁ、お前はそんな外道に負ける。殺される。おいそれは勇者サマにとって一体どれほどの不様だろうな、ははッ、ははははははははははははははははは!」
「――笑うんだな」
静かに。
まるで湖畔の水がそよ風に揺れ、微かな波紋が生じたように穏やかな声と瞳。
ああ、違う。
誤った表現ではないにしても、正確な描写とは言えない。
これはどう偽っても――嵐の前の静けさ。
「貴様は、己の精神性を外道と理解し、それをよしとして――笑うんだな」
「そうだよ、そうだ笑うとも! だってお前、怒ってるもんな。粛々とした態度で誤魔化しても、怒りの炎は圧縮され続けるだけ。消えていない。燃え盛っている。いいね、最高だよ、リオトーデ!」
それは否定できない。
リオトは確かに激怒している。憤慨し、少しでも気を緩めれば怒りに任せて乱雑に特攻してしまうだろう。
その感情を鋼の理性でなんとか抑えているにすぎない。
ベオリスはさらに挑発を繰り返す。執拗に、くどくどと、リオトの弱点になるものを探し当てるようにして。
「けどよ、もっと面にだしたらどうだよ、怒ってるなら怒り狂えばいいだろうが。そうでもしねぇとクラーテが報われねぇと思わねぇのか」
「……彼女の名をだすな」
激怒に噴火したりはしない。
むしろ凍えて、氷柱が脊髄に叩き込まれるような憤り。
冷え切った氷河の如き殺気に、ベオリスは実に嬉しそうにはにかむ。
そうだよな、そうだ。当たり前すぎて失念していたが、そこが最大の弱点でこそ勇者だよな!
「いいな、リオトーデ。お前のその氷冷の憤怒も素晴らしい。そうだ、オレを憎め、恨め、怒れ! お前の中のクラーテ・ナウロスもそう叫んでいるのだろう!? 応報せよと! 復讐せよと! なァ、そうなんだろう!?」
「貴様が――彼女を語るなよ!」
「だが事実だろう! 奴は復讐を望んだ! ならば己を殺したオレを殺せと言うに決まっている! そうでないといけない!
人は皆、復讐の連鎖に支配された憎悪と激怒の奴隷だからだ! やったらやり返さねばならない! やり返されたらまたやり返すのだ! それを永遠に繰り返して歴史となって今となる!」
「人は! 歴史は! そんな単純なものじゃない!」
「単純さ! 誰も彼もが復讐の円環に生き、流れ、そして怒る! それが人だ、人なんだ――それこそが人の業なんだよ!」
「っ!」
やったらやりかえされる。
結局、歴史などそれだけの繰り返しでしかない。最後には必ず人の業はそこに行きつく。
ベオリスの浅はかな持論など、もちろん理性でもって突き詰めていけば反論できる。
けれど、言葉を交わす以前に背景として暴力が存在し、それにおいてリオトは現在圧倒的に劣っている。なにを言い返しても、なにを論じても、全て暴威に叩き潰され無為となる。
論議の前に戦で負けている以上、なにを言っても負け犬の遠吠えにすぎない。どんな聖者の正論も、敗北者ならば聞く耳もつ者などいない。
要はここでのリオトの敗北は、許しがたい一線を越えたこの外道の主張を否定できないのと同じ。
クラーテを、人を、あらゆるものを侮辱されて――勇者たるが甘んじて受け入れるなど、許されることではない。
「負け……?」
そうだ、敗北が悪いのだ。
負けることが全ての要因であり、最悪へ落下させる忌むべきこと。
負ければすべてを失う。大切なものを、全部この手から落としてしまう。
「負け……ない……」
このまま仲間も守れず、友の仇も討てず、許しがたい敵の前に敗れ去るというのか。
弱体化しているから。魔力が失われているから。武装がないから。
そんな言い訳があれば負けていいのか。
己の敗北は誰より大事な仲間の死だということを忘れるな。
己の敗北は彼女の死を無意味とさせる愚行だということを思い出せ。
ならば言い訳は無用。敗北は許されない。絶対に、絶対に
何故ならそれは。
それは。
――勇者としてあるまじき行為である!
そうだ負けない。勝つ。
そのための算段はついているだろう。立ち止まるな。躊躇うな。戦うんだ。
「来い……」
奥の手を切る――まずは召喚術をイメージする。
遠く誰かを呼び覚ます声を作成し、果てまで別たれた何かを抱き寄せる手を構築する。
シノギとベルとに繋がる見えない奇縁に類似し、同じように結ばれた縁故をここにもう一度花開かせる。
リオトーデ・ウリエル・トワイラスと、かの武具は魂でつながっている。どれだけ時を経ても、どれだけ距離を経ても関係ない。我らの線は不滅、途切れることなどありえない。
その綱を引き上げる。招いて、呼び込み、引っ張り上げる。
「来い……ッ」
我が力、我が魂、我が半身。
我が意に従いて。
「来い――!!」
この手に!
「“我、勇なる担い手なり――『
――『
「な――にっ」
そして魔術は成功し、遠き果てのどこかの場所から、あるものを召喚した。
リオトのその手に握られているのは蓮の花をあしらった護符である。
それは小さく、古古しく、頼りない。
手のひらサイズの平たい長方形で、金属製ではあるが古びれて、ただ鮮やかな蓮華だけが映えている。
だが問題はそこにはない。
語るべきはそれに宿りし圧倒的なまでの魔力。神の御業が生み落したと証明するに余りあるほどの神威である。
「そいつぁまさか!」
勇者たる力の象徴、『
魔王の習得する『
無論、こちらもまた各時代各個人ごとにその力は形を変え、担い手に相応しきものとなる。それは担い手の魂の一部を分割し素材として完成するが故。
唯一無二のオンリーワン。リオトの詳細は歴史に埋もれたために、ほぼ間違いなく初見という対策不能の刃なのである。
「その通り、これが我が『
その蓮の花を見せつけるように、握る護符を明示する。
見せつけられて真偽真贋のわからぬ魔王ではない。紛うことなき己と同等の力、小さき神そのもの。
まさかの奥の手にベオリスは驚愕し、歯噛みし、だがすぐに嘲笑う。
「くっ。ハ。呼び出したからなんだってんだ、魔力もないくせにどうやってそいつを起動させるつもりだ」
「魔力ならばあるさ――俺はひとりじゃないのだから」
『
だが枯れ果てた三馬鹿たる今のリオトにとっては、酷く膨大な魔力量である。「
ならば始動もできぬ宝の持ち腐れであるか。
否である。
「そうだ。俺はひとりじゃない!」
今のリオトだからこそ、捻出できる力もある。
離れてたって繋がっているのは、奇縁とて同じことだ。
ならば、同じ魂から魔力を借り受けることができないわけがないだろう。我ら三位一体にして一蓮托生、連理の奇縁で結ばれし同胞なのだから。
さあ。
「シノギ、ティベルシア――力を借りる。一緒に戦おう!」
シノギの魂を感じる。ベルの魂を感じる。
ここにある。傍にある。共にある。
自らの魔力を行使するのとなんら変わりなく――『
「まさか、仲間から魔力をうばって……?」
厳密にいえば違う。
彼ら三人は一人だ。同一人物だ。ゆえに、その魂の繋がりを強く意識すれば、そこに境界は存在しない。魔力を互いにシェアすることなど造作もない。
奪うのではない。もとから共有しているのだ。
無論、そんな奇縁の呪いなどベオリスは知らない。ただこのままでは魔力の充填が完了し、『
「くそ、させねぇぞ! なにが勇者! なにが『
鋼の翼が一際大きく羽ばたいた。
その翼は目に見えて赤熱していき、異能を一段階すっ飛ばして真価を発揮する。
最も小さいものたちをさらにさらに凶暴化させる。狂乱させ、乱舞させ、暴走させる。
熱量において絶対零度――下限は存在しても上限は存在しない。果てしなく熱量は上がっていき、世界を怒り狂わせて破滅へと導く。
その熱量――実に太陽の表面温度に匹敵する!
そして無論、そんな温度に人類は生存しえない。
それを為すベオリスを除き――周辺一帯の全ては焼滅される。蒸発する。
羽ばたき飛翔する彼を中心に大地は失われ、空気すらも焼かれ、まるで爆心地の有り様。ちょうど球形に世界を削り取ったのだ。
「はは、死んだ! 死んじまった……! オレの勝ち――!」
思わず快哉を上げ、ベオリスはリオトの消滅に歓喜し。
「やはり――そうか」
聞こえるはずのない声に血の気が引いた。
「貴様、自分以外の理不尽を知らないな。
自分以外の悪夢の如き理解不能を味わったことがないな」
太陽に飲まれているのと近しい球形の地獄。
足場すらなく、呼吸する酸素もない。なにもない。真空にも似た熱的亜空間のようなそこに。
果たして無傷のリオトは当たり前のように虚空を踏みしめてベオリスの正面に立っていた。
その高熱地帯は僅かも減衰していないのに、どころか高熱化し続けているというのに。
太陽地獄の世界であるのに――涼しい顔で、リオトは笑う。
「貴様――勇者と戦ったことがないな?」
「っ」
「魔王とも、まさか『
虐殺ばかりの男に戦闘技術を求めるものではない。力任せで全て勝利できる超越者に戦闘技量を培えというのも無理であろう。近寄るだけで勝利していた魔王に白兵戦の心得などあろうはずもない。
そもそもからして、自らの権能が効かない――実際は効いているし激痛に狂いそうだが――相手にどう立ち回るかなどと考えたこともない。
「だが、それも今日までだ。今から教えてやる、勇者の理不尽を、魔王の理解不能を。貴様がこれまで与え続けてきた恐怖というものを、その身に刻み込んでやる」
そんな風に凄惨に笑うリオトであるが。
なにか――違和感。
おかしい。なにか奇妙な変質を、ベオリスは覚えた。
いや、この焦熱地獄で平然としていることがなによりもおかしいのだが、そうではない。そういう変妙ではなく、なにか、もっと、些細な変化があるように思うのだ。
「あ」
と、ベオリスは気づく。
わかった――髪の毛が少し長いのだ。
そんな些細な変化をひとつ見破れば、すぐに次々と先ほどとの差異を発見し、列挙できるようになる。
カソックについた汚れや焼けた部分が消えて、真新しいほど綺麗に元通りになっている。少し目つきが鋭く尖っていて、笑い方が若干荒々しい。握る剣など金色に輝く全くの別物じゃないか。
そしてなにより、大きな変化すぎて気づけないでいたこと――魔力の総量が跳ね上がっている。
膨大、莫大、ベオリスに匹敵しかねない、いや、僅かだが確実に越えている。そんな力はこの世に二種類しか残っていない。
――先ほどまで装着していたはずの手袋がなく、その手で紋章が鮮烈に輝いているのがよくわかる。
すなわちそれは。
「勇者の力――!」
それその通り。
「
リオトーデ・ウリエル・トワイラスが、完全なる姿でそこに召喚なされたのだった。
◇
「これは……」
遠く遠く離れ、ベオリスの発生させた焦熱地獄の範囲外のある場所で、ベルは不意と気取る。
ごっそりと、その魔力が持っていかれた。なにかに消費され、なにかを自分が行使した。
それがリオトの奥の手のための処置なのはすぐに把握できて、狼狽えることもなくシノギへの治癒への影響は最小で留めることができた。
だがこれは、一体リオトはなにをした?
「これが……あいつの奥の手ってやつか……」
「むっ、シノギ! 目覚めたか!」
シノギは起き上がることもできないくせに、強がって頬の端を吊り上げようとして失敗する。
それでも弱弱しい言葉だけは見栄を張る。
「この程度で、おれが死ぬかよ」
「よかった……っ」
ぎゅっと、その死に体を抱きしめる。癒しの力は僅かも緩めず、けれど酷く安堵に綻んで、その全身でシノギの生存を感じ取ろうとする。
いつも自分は度外視。シノギは振り払おうにも振り払えないので、やはり口先だけを回す。
「おれのことより、リオトだ。こりゃなんだ。なにをしやがった、あの野郎」
「どんな手段かは知れぬが――この魔力、この感覚。勇者としての力を取り戻しておるな」
魔力を使われている感触はわかったが、それで勇者に戻った理屈は不明。
いや、推測できる可能性としては。
「それがあやつの『
「『
ならばこれからはじまるのは勇者と魔王の死闘。神話にすら等しい半神同士の大戦争となろう。
魔力を迸らせ、気力を競い、武威を誇る戦場。
そこにリオトがいる。ただひとりで戦いはじめる。
だというのに――なぜ。
なぜおれはこんなところで寝ている。
あいつが死にもの狂いで戦っているのに、どうしておれはそこに加勢していない。そんな不実がどうして許されようか、いや許されるはずがない。
なんて。なんて不様。なんて弱さ。
「ちっくしょ……」
なにが三位一体か。一蓮托生が聞いて呆れる。連理の奇縁は足手まといの鎖となっているだけではないか。
「ちくしょう……!」
◇
「なんでだ」
熱量は上がる。上昇し続ける。加速度的に地獄は広がり、深まり、変貌していく。
先ほどまでは数千度であったのに、既に一万を超え、数万度にまで達している。
それでもなお停止はなく、加速だけ。さらに無限に世界は熱量をいや増すばかり。
「なんで――」
生存域などとっくに失せた。生命のあるべき気温は遥か彼方に飛ばされもはや忘れた。
だからこそ地獄。死者の国。この世をも徐々に滅ぼしかけている生死反転の魔王の領土。
そんな場所で、ただひとり、カソックの青年は凪いだままに直立している。
「なんで死なねぇ、リオトーデ!」
太陽の魔王はわけがわからない。
この領域にあるものは生命、非生命問わずあらゆるが
今までずっと、ずっとそうだった。この世界で生きることが許されているのは己だけだったのだ。
なのにどうして奴は立っている。生きて、笑っているという。
悪夢の如き勇者は、おどけたように肩を竦めて見せる。
「なにを言う。死んでいるさ」
「っ!?」
死んでいる。なのに死んでいない。生き返る。
蘇生は神ですらありえない不可能――しかし、極限までそれに
「再生能力、か?」
熱に死する直前で再生し、再生し、再生し続けているのではないか。
無限の熱量に対抗しているのは、無限の再生なのではないか。そういう推測。
それならば魔力が欠損し、雑魚にまで落ちぶれていたのが急に勇者の力を取り戻したことにもある程度の納得はいく。
だがそうだとして、それもまたおかしいではないか。
「なんでそんなに平静なんだよっ。わけがわからねぇ。いっ、痛みを感じてねぇのか、このイカレ野郎!」
「それだよ、それ」
「なに?」
やはり穏やかに、リオトは目を細める。まるで優しげな風に心地よいと微笑を浮かべているような、この場にそぐわない安穏の表情。
それが、べオリスはなにより恐ろしく思えた。
リオトは言う。
「勇者や魔王っていうのは、わけがわからないくらい強いのさ。
貴様は痛みがどうの言ったが、はは、もはやここまでの温度ともなれば人知の及ばぬ域さ。そう、わけがわからない。わけがわからなさすぎて熱いとか痛いとか通り越して、笑えてくる」
嘘をつけ。
確かに十万度を超える熱など人の感じうるレベルを超越している。けれど確実に、苦痛に類する方向性の衝撃を受けているはずなのだ。笑えてくるようだなどと、断じてありえない。
ならばこそこの勇者は狂っているのだろう。
あまりの痛みを超えた痛みに、熱いという感想に収まらない熱さに、気が狂ったのだ。でなければへらへらと笑っていられるはずがない。
「イカレ野郎が、イカレたまんま死にやがれぇ!」
鋼の翼が踊る。
熱波の内で舞い上がり、この空気すら歪み狂った地獄でもその主は自在に飛行する。
周辺一帯の焦熱領域でも死なないのなら、直接殺せばいいだけのこと。
高速駆動で接近する魔王に、リオトは嘆息ひとつ漏らすだけ。特段に身構えもしない。その必要がない。
「死ねぇぇぇえええ!」
それはまるで。
この戦闘の最初、シノギがベオリスに斬りかかった時の再現だった。
ならば結果もまた。
「ははァ!」
ベオリスはその鋼の翼を叩き込む。刃のように突き刺し、内部にその熱源体を送り込む。
周囲の温度を数万度以上に超越させたその熱の根源を直接ぶちこまれ――
「
それは光の冠のごとき究極の熱的死。
――リオトの肉体は一瞬で蒸発した。
「ははははははははははははははははははははははは――!!」
そして。
「はっ――あァ?」
「その程度か、魔王」
平然と、リオトは無傷でそこにある。
今度こそ本当に――意味がわからない。
こんなの既に再生の域を超えている。時が逆巻いたような、ありえない事象が目の前で起きた。
消えたのだ、それを見た。蒸発して、消失して、虚空と化した。
それを確認した。確実に、確定したのだ。
なのに瞬きもしない内にリオトは在って、まるで落丁した小説のよう。あるべきはずのページが抜けて、ことの因果が成立していないようにしか感じられない。因なく果となっているような奇妙、脈絡のない夢のような整合性のなさ。
困惑するベオリスに、リオトはいっそ優しげな微笑を刻む。
「俺は――もう死んでも死なないぞ、魔王」
「ふざけるな、不死などありえるものか。命は必ず死する!」
そうでなければ神々の滅びなどありえなかった。
そうでなければならない。
そうでなければ、ああ、この勇者はなんて絶望なのだ。
絶望は頷く。己は絶望などではないと。
「そうだな。不死はありえない。俺も死ぬさ。けどな、俺を殺すなら、俺の心を折ることだ。我が魂の屈せぬ限り、この身は朽ちぬ」
「心だと。魂だと」
意志力の続く限り終わりのない無限の再生を誇るというのか。
死を超越し、あらゆる損傷を無為として生存するというのか。
「――その通り。ゆえ貴様に勝ち目はない。わけのわからないまま死んでいけ」
◇
リオトーデ・ウリエル・トワイラスの
魔王の推測したそれの持つ能力は回復再生――否である。ではなく、蓮華の有する特性は「再帰」である。
修復ではなく修正で、再生ではなく再帰。
もっと噛み砕いて言えば、「時の切り貼り」。
過去の一瞬の己の状態を
つまり、今のリオトはかつて勇者であった頃の彼そのもの。
模倣でも、取り繕うでも、似せるでもなく、完璧なる過去の再帰である。
魔力器官は損傷なく駆動し、肉体もまた全盛期、武装までがかつてのもので――完全なる勇者としてのリオトーデだ。
肉体的な面が全盛に戻った点を見るとわかりづらいが、ここで重要なのはかつての武装までも手にしているということ。
だから、たとえばこんなこともできる。
金色の神剣『
遠き過去、彼がその手に握った愛剣、
能力発動以前には影も形もなかったはずのそれが、再帰に呼応して当たり前のようにリオトの手の中で輝いている。
それはかつて使ったリオトの剣そのもの。もはや自己そのものとして認識された、真に紛うことなきそのままだ。
贋作にあらず、模倣にあらず。真作にして神作。真実、
ゆえに、現代この時間軸、この瞬間においてのみ。
――
時間干渉を行うが故の矛盾であり、この刹那だけの世界法則の崩壊である。
そう、『
勇者魔王の半神たちのもつ異能の中でも破格であろう。
しかしこの力、実は大変使い勝手が悪い。
効果が限定的すぎた。再帰を施せるのはリオト自身だけなのだ。だからできて精々、現状維持であって――武器がない。
恐るべき武芸になす術はなく。
おぞましき魔術には焼き滅ぼされる。
無論、無限に肥大化する熱量などという神の御業に、対抗は不可能。あっさりと焼き焦がされ、苦痛に苛まされ、そして死ぬだけ。
要は実力勝負にしかならないということ。
圧倒的な破壊力があるわけでも、能力値を躍進させるわけでもない。ただただ維持で、実力通り。
たとえば弱者がこれを用いたとしても、それは無限に嬲り殺されるだけの拷問でしかない。いや、それ以前に途中で心が壊れて発動ならずに野垂れ死にするだろうが。
とはいえ彼は勇者。
その基礎スペックは他を圧倒する。
だから問題点が浮き彫りになるのは同格との戦闘――魔王との決戦だ。
彼らとは基本的な力の上下は無いに等しい。その上で
かつて二度、リオトは魔王と戦っている。その際にも、拷問に等しい死闘を繰り広げ、幾度となく死んだ。死ぬだけの苦痛を被った。
強くならねばまた死ぬだけ。
そしてすぐには強くなれない。
だから死んで、死んで、死んで。
強くなるまで、対抗できるようになるまで死んで。
そうして魔王と拮抗するまで戦い続けた。思考錯誤を繰り返し、技の総当たりを連続し、今よりも少しずつだけ強くなって。
ただただ不屈の闘志だけを武器に挑み続けた。
最初、一人目の魔王との戦いにおいて、リオトは七百回ほど死んだ。
次、二人目の魔王との戦いにおいて、リオトは百回ほど死んだ。
此度、三人目の魔王との戦いにおいて、リオトは今千回以上は死んでいる。死に続けている。
只今ですら超高熱空域に立っているだけで秒単位――いやもっと短い間隔で死を繰り返している。何度も何度も。死んだ回数の記録を更新し続けている。
そう、死んでいる。
リオトはいま一見して無傷であるが、実際は熱に焼かれて、ほぼ同時ともいえる直後に元に戻っていた。再帰していた。
消費した魔力すらもかつての全快時に固定され常に魔力万全、体力もまた減じた傍から元通りで不変。
完全なる己の回帰。
喪失のない再帰連続――それは時の一時停止にも匹敵する完全無欠の現状維持である。
ただひとつ。
この能力で再帰できないものがある。
それは魂である。
魂とはリオト――この
それの変質はすなわち彼の喪失であり、担い手であることの失権。ならば逆説、そこに手を加えることは不可能なのである。
総括して現在のリオトの状況を正確に記すのなら。
――かつて勇者であった時代の肉体と武装を持ち。
――記憶や知識や経験は現在の、最も長く生きている三馬鹿のそれ。
だからこそ、ベオリスへの怒りは正しく備え、シノギとベルへの心配も当然に慮っている。
死の苦しみを逃れようもなく受け入れ続けている。
ある宗派における地獄では、あらゆる苦痛を与えてその身を粉々に砕いて――そして獄卒が「活きよ」と唱えるだけで一瞬で再生、元に戻るという。また再び同じ苦痛を与えてその身を砕く責苦を延々と繰り返す。
何年も、何十何百、何千年も。
休む間もなく嬲り続ける。やがては、心すらも砕けて粉々になるが、それすら、また「活きよ」と唱えるだけで元に戻してしまう。
そういう無間に繰り返す苦しみを味あわせる場所こそが、地獄なのだと。
ならばリオトこそは地獄の住人。四苦八苦しながらひた走る狂戦士。
心だけは再帰できない、ただ無限に傷つき続ける修羅である。
◇
「魔王、貴様は復讐の円環こそが人の業だと言ったな。ああ、確かにそうだろう。人はそういうものかもしれない」
リオトは語りながら、金色の剣を振るう。
すぱん、と。
ベオリスの右腕が刎ね飛ばされる。ベオリスから離れその恩恵を失った瞬間に、腕は蒸発して消えた。
彼の創った焦熱地獄にあるのは、以前として例外の当人と再帰するリオトのみ。
「ぐぅっ」
痛みに顔を歪めつつも、べオリスは右腕に魔力を充填。再生に注げば、すぐに腕は生え治る。そこは魔王としておぞましき強さの一端。驚くにも値しない。
リオトは微塵も立ち止まらずに斬剣を駆動。斬って、斬って、斬り飛ばす。
そして斬撃とともに、言葉もやまない。ただ真摯に――言いたい放題されたことを、ここで言い返す。
「けどな、同時にそれを止める術もまたあるんだよ」
リオトの声は怒りに震えている。刃の一撃一撃に怒気が込められていた。
ベオリスの好む憤怒そのもので、しかし、彼にそれを楽しむ余裕などない。斬り刻まれて苦鳴を漏らす。
憤怒の魔王は今、もしかしたらはじめて――。
「復讐の円環を止める方法はひとつ、ひとつきりの難事! 許すことのみだ!」
「ッ」
否だ。否である。
べオリスは抱きかけた己への疑念を払拭するが如くに吠える。猛り憤る。
憤怒のアザナの如く――誰よりも激怒する。
「はッ、なんだよ、なんだ? お前にできるのか!? オレを許し、クラーテ・ナウロスの死を忘れ、円環を止めることが、お前にできるか!?
できやしない! できるわけがない! お前は憤怒に満ちてオレを殺さずにはいられない! それが次の復讐と憎悪を産み落とすことになろうとも! なぜなら――それが人だからだ!」
「ああ、そうだとも。それを踏まえても、俺は貴様を許せやしない」
だってリオトは聖人なんかじゃない。
泣いたり笑ったり、怒ったりもする普通の人間でしかない。
ここでベオリスを許すなんて、到底できない。したくないと思う凡人なのだ。
「そうだ、それでいい。人間ってのは強くねぇんだ、許すなんてできるわけがねぇ!」
「かもしれない。俺だって俺のできないことを人に押し付けはしないさ」
だから、できることをできるだけして。
それが多くのひとたちにもしてほしい、そう願うだけ。
「俺にできるのは、だからせいぜい耐え忍んで堪えることくらいだ」
あるがままに事実を受け入れ、迸る感情を理性で抑え、そしていつか許せる時が来るまで耐え続ける。
そんな日は来ないのかもしれない。一生涯、怒りが心にわだかまってしまうのかもしれない。
「だけど、きっと、ひとは許すことのできる者なんだ。貴様の円環は必ず打破できる。そう信じている。
ぐるぐる同じところを巡り続ける愚かさも、やがて許しを与える高潔さのためのステップでしかない。ひとは巡るように前に進む。足踏みしても僅かずつであれ必ず前進していく。
――貴様の見下すような理屈は間違っている! ひとを娯楽の玩具としか見ていないような円環など、正しいはずがない!
なおそれでも貴様が正道と説くのなら、いいだろう、そんなものは俺が叩き斬ってやる!」
この殺意は怒りに起因するものではない。
彼が剣を執るのは、いつだって誰かのため。
それは憤怒による感情任せなものではなく、復讐のような誰かに責を押し付けるようなものでもない。
ただただ己自身の殺意で、己の中の判断で殺す。
「――『
その手に握る神剣に静かな火が灯る。
その刀身と同じく美しいまでに鮮やかなる黄金色の炎が刃より発火する。
「これは貴様を殺す――貴様の熱だ」
リオトが強化付与の魔術を好んで習得しているのはそのためで、この神剣は付与魔術を施されればより一層の強化となって伝導する。
そしてその特性は、なにも自ら術を付与しなくても構わない。
たとえば――周囲全体に満ちる魔力を根源とした膨大な熱量をも、かの剣は食らい力と転ずる。
なればこそ、灯る金色の炎とはべオリスの憤怒そのもので。
「行くぞ、べオリス・ザダ・ミーノス、ただの魔王風情。
俺もまた、ただの勇者として――悪しき貴様を討つ」
「……っぁ」
それはべオリスにとって理解不能の結論。
不明、不明瞭、意味不明。わけがわからない。
――魔王と勇者はわけがわからないほど強い。
そんなリオトの言葉が、ベオリスの脳裏にリフレインする。
その通りだ。
ベオリスはリオトの
わからないというのは――恐ろしい。
「ひっ、ィァァア」
憤怒の魔王は今、もしかしたらはじめて――敵対者の怒りに恐怖を覚えていた。
人に恐怖をばら撒き、怒りを強要するために悲劇を演出し続けたおぞましき憤怒の魔王が、明確に確実にリオトに恐怖しているのだ。
怒りに身を任せて紛らすことすらできないほどの――それは絶大にして致命的な恐れ。
そして当たり前のこと。
恐怖に打ち勝てぬ臆病者の行動は古今東西ひとつきり。大上段に振りかぶられた刃に恐れをなしてすべきは二つとない。
「あああああぁぁあああぁぁぁああアアアァァァァアア――!」
後ずさり、背を向け、不様に逃げ出す。
鋼の翼を大きく広げて逃避行動に全霊を費やす。全力で、ただこの
慌てず、焦らず、沈着に。
静かにリオトは届かぬ言葉を送ってやる。
「貴様がこれまで多くの人々に味わわせてきた貴様の熱。因果応報――太陽を抱いて死んでいけ」
リオトのその高潔なる魂のような輝かしき黄金色の炎は、荒々しく燃えたりはしない。粛々と、いっそ優し気に――まるで暖かい太陽の日差しのよう。
この焦熱地獄においても一際美しく輝いて――。
一歩。
足を踏み出す。なにもない空間を硬質な地面のように踏みしめ、当たり前に近寄る。
一歩一歩、歩は進む。少しずつ回転は上がり、歩行は小走りに。小走りは疾駆に。
「俺はこの力が、この
単純に使用者の俺が痛くて苦しくてたまらないし、なによりなんだかずるいしな。昔から、自在に使えた頃から極力使用に踏み切ることはなかった。それでも、今も昔も変わらない。こいつを使うと決めるのはいつだって――」
愚直にただ真っ直ぐ天へと駆け上る無謀な翼人の伝承が如く、リオトはベオリスの元へと全力疾走。追走する。
熱量が跳ね上がっても止まらない。痛みが狂気的に全身を襲い掛かっても躊躇わない。幾度となく死んでも赦さない。
「何度死んででも打倒すべき敵と対峙した時だ! さあ終わりだ憤怒の魔王ベオリス・ザダ・ミーノス!」
刹那で彼我の間合いを踏破し、ただ全力で金色の剣を振り下ろす。
そして。
戦いは決着した。
黒き太陽は没し、金色の太陽だけが世界を照らす。
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