憤怒の陽に向かって走れ! 5



「――つまんねぇ」


 ふと――なんの脈絡もなく、なんの兆候もなく、怨嗟のように退屈を呟く男が現れいでた。


 まるで入れ替わったように。成り代わったように。

 クラーテ・ナウロスの燃え、灰すら残らず消え去った――その場所に、まったく同じ位相に、男は忽然と立っていた。


 大柄で、筋肉質で赤銅色の肌をした、魔人の男。

 特筆すべきは――背に負う一対の翼か。

 その翼は酷く冷徹で、恐ろしく硬質、艶めくほどの光沢を帯びて輝いてる。

 金属であった。鋼であった。


 鋼の翼を負う魔人――そんなものは世界広しと言えどもただひとり。


 だが、そいつが誰であるとか、そんなことはリオトにとってはどうでもいい。目の前に現出した唐突過ぎる悲劇にこそ心奪われ、あまりのショックに死んでしまいそうだった。


「っ!」


 だから、最初に駆け巡ったのは怒りに他ならず。灼熱が腹の底からせり上がり、爆発せんと感情が暴れまわる。


 正しく現状を認識している。彼女は死んだ。


 悲しみに泣き喚きたい気持ちが体中に走り、怒りに叫び散らしたくなる衝動が全身を巡る。

 だが即座に戦士としての警鐘が轟音でもって感情を打ち消す。徹底的に、怒りの熱を零へと冷ます。


 正しく現状を認識している。こいつはヤバい。


 ここで感情的になっては即死しかねないほどの死の具現。考えずに状況をはじめれば指先ひとつで全滅する。

 三人は目配せもなく揃って後退。逃げるように跳び退いて距離をとる。


「はァ……」


 魔人の男は頓着せず気だるそうに肩を落としてぼうっと空を眺めている。

 そんな消沈の体で、なのに漏れ出る熱量は太陽にすら届きかねないほどに恐ろしく破滅的。


 相対するだけで戦慄が渦巻いて、恐怖に手が震える。歯を噛み締めておかないと震えて次は噛み合わないだろう。

 シノギは隣にリオトとベルがいなければ、おそらくここで膝をついて平伏していただろう。そんな想像が、容易に脳裏に描き出せた。


 けれど、強がって、見栄を張って、なんとか直立を曲げない。

 凍り付いた舌の根に噛みついて恐怖を紛らわせ、シノギは叫ぶ。敵の正確な認知は最低必須で、ふたりはほぼ予測できていようが確信させることがまず必要と思った。


「鋼の翼を負い、赤銅色の肌をした筋骨隆々にして大柄長身の魔人! こいつが――!」



「オレが『憤怒の魔王』ベオリス・ザダ・ミーノスだ」



 ごく自然に首を動かし、視線を三人に向ける。

 睨むでもなくただ直視しただけで圧力が増し、その名と号に偽りなく相応しき半神たるの格を見せつける。

 威圧感の割には馴れ馴れしいフランクな態度で、魔王は言う。


「で、お前らはリオトーデとシノギ、そしてティベルシアだったな」


 その一言で、ベルは全てを察する。確信した。


「……やはり貴様、クラーテ・ナウロスの内に潜んでおったな」

「なにっ。クラーテの内にだと!?」

「潜伏の魔術。同化し、なにかの内部に潜むことのできる魔術。人体という複雑な構造への影響ない潜入などというのは困難じゃろうが、ふん、そこは魔王か」


 いつだったかベルが不思議に思ったこと――魔王は憤怒する者を見たい。ならばなぜ復讐者を作って、それを放置しているのか。


 否だ。


 村を滅ぼして、復讐者だけをひとり生き残らせて、そしてそいつの中でその憤怒の物語を静かに観賞し続ける。一番近くで、最高の特等席で、復讐者の怒りの念を愛でていたのだ。


 やがて飽きれば先のクラーテのように内部から焼き尽くし、また別の村を滅ぼして復讐者を仕立て上げる。

 それこそが憤怒の魔王の繰り返していた恐るべき娯楽であり、唾棄すべき悪魔の所業であった。


 その過程として、今までクラーテの見聞きした情報を、ベオリスは得ているということ。

 そして、魔王ならば、敵対存在にもすぐに気づく。


「しかしリオトーデ神父さんよ、お前、勇者だったのか。クラーテん中にいた時にゃ反応なかったが、証印がじくじくと痛くて鬱陶しい」

「……だからどうした」

「それにしては、弱ェなって」

「もう廃業した、ただの元勇者でしかないんでね」

「元勇者、元勇者……か。ひひ、そいつぁお笑い草だ」


 言葉通り、ベオリスは顔中に喜色を浮かべて愉悦する。嘲るように、見下すように。

 ただリオトひとりを見据えて嬉々として弾劾する。


「お前のせいだ、お前がクラーテ・ナウロスを殺したぞ勇者サマ」

「……」

「戦力差も勝ち目も見えなくなるほど頭に血が上り、理性を焼くほど怒り狂う。そういうのが好きだったんだよ、オレァな。だってのになに冷静に理性を説いてんだ、優しく道行き導いてくれちゃってんの。そんな風にほとぼりを覚まされちゃあ、おい、殺すしかねぇじゃんよ」

「……っ」


 なにをぬけぬけとふざけくさった理屈を並べやがる。

 咆哮はノドに届く前に押しとどめられ、腹に飲み下して音にもならず。


 その抑制こそが度し難く、魔王ベオリスは肩透かしを食らったとばかりに不満を陳情する。

 身勝手に、理不尽に、ああ高慢なる魔王の暴虐そのものだ。


「しかも、なんだよ、お前ら、ここまでされて、ここまで言われて怒んねぇのか? 感情不具か? それとも、クラーテなんざ他人の死にゃ動揺もしないくらいに冷徹か。あんだけ親切にしといて、本心ではどうでもいい小娘と思ってたのか。

 あーあ、クラーテの奴は心底、お前らに感謝して好意を寄せてたんだぜ? 酷い話だ、酷い酷い、酷い話だ」


 演じるように首を振り、大げさにまで肩を竦め、苛立ちを誘うようにやれやれとため息を吐く。

 一転、今度は声高らかに糾弾する。


「どーでもいいんなら助けてんじゃねぇよ。そういう不用意な優しさとかいう奴でクラーテの奴、勘違いして死んじまったじゃねぇか。もっと長く生きる予定だったのに、もっと長く見物してるつもりだったのに。お前のせいだよ、神父さま。お前だ、お前が悪い。お前がクラーテを殺した。この人殺し、偽善者、嘘吐き野郎!」

「っ!」


 わかっている。

 わかっている。

 わかっている!


 これは安い挑発でしかない。怒りを誘う魔王のくだらないガキのような悪口に過ぎない。

 だが罵詈雑言というのは、単純で低劣なほどに感情を逆撫でし、人の冷静を奪い取る。またタチの悪いことに、一面的にはベオリスの発言に完全な否定が難しい。


 本当に、酷く、腹立たしいことこの上ない。

 真っ向から言われていない、横で聞いているだけのシノギやベルでさえハラワタ煮えくりかえって激発してしまいそうになる。


「ひひ」


 それもまた、魔王の力のひとつ。

 誰も知る由もないが、この『憤怒の魔王』にはその存在と接近するだけで彼に怒りの感情が湧き上がりやすくなる呪いが付与されている。無論、自らで自らに施した呪詛であり、つまり魔王の術式。その性能は語るまでもなく上等。


 彼は怒りの感情が好きだから。それを自分に向けてくる相手が愛おしいから。

 決して、冷静な判断を鈍らせるためとか、平常心を奪って集中力を削ぐためとか、そんなつまらない戦闘的な理由は一欠片も含まれていない。


 ただただ単純に、純なまでに――憤怒の相を見せてくれと言っているだけだ。


「……。ふぅ」


 逆さま、そんな彼を見続けて、しかも友を目の前で殺され、下劣な揶揄を叩き付けられ――なお平静を保つのは一体どれほどの精神力が要るのだろうか。


 リオトは腹の熱を排泄するように呼気を吐き出す。

 ごく自然と柄に触れて、血が滲むほどの握力で握り締めた。

 無表情なのに見開いた目の瞳孔は開き、噛み締めた奥歯は軋みを上げて少し削れた。


 リオトはその強靭な精神力をもって強く冷静を己に課している。

 けれど――だから殺意を失しているわけではまるでなく。


「ふたりとも逃げろ。俺が奴を抑える。いや――殺す」


 冷めきった激怒が、その言葉には悲しいくらいに染み込んでいた。

 考えなしに噴出されるのではなく、無差別に当たり散らすでもない。そんな不様は晒せない。

 引き絞り、握り締め圧縮し、全て戦意と殺意に転化させる――戦士としての最善なる怒りの使用法である。


 それでも怒りには違いなく――ベオリスの頬が裂けたように笑みをかたどっていたが、この際気にしていられない。リオトは目線を怨敵から離さないまま、ふたりへと語り掛ける。

 冷静に、優しさすらも伴って、まさか怒り狂った感情なぞ垣間見せず。


「勇者として、こいつをゆるすわけにはいかない。その息の根を止めて、彼女の仇を討つ。討たねばならない」

「馬鹿者! 相手は魔王じゃぞ! おぬしは力を失っておるのじゃぞ! 怒りはわかるが、立ち向かうなぞ――」


 怒りに震えるリオトより、恐怖に震えるシノギより――この場の誰よりも沈着なベルの言はきっと正しい。それくらい、リオトには判断できた。

 その上で、立ち止まりはしなかった。愚かと知っていても、なさねばならないことがあると信じている。

 それは今ここで逃げ出すことでは断じてない。


「駄目だ。止まれない。でなくばなにが勇者か。なにが勇ある者か。そう、ここで奴を逃すというのは――まさしく勇者としてあるまじき行為だ」

「あぁっ、くそっ! そうじゃったな!」


 ベルは下品を承知で派手に舌打ちを鳴らす。


 そうだ、そうなのだ。リオトは呪いを帯びている。

 ベルのようにあってないようなそれではなく、シノギのように常に警戒しているそれでもない。

 いつも自然体でクリアして、全く表面化することのなかった彼の呪い。かつて古き魔王に課せられた激励たる呪詛。


 曰く――『勇者としてあるまじき行為をとれば死ぬ』。


 ならば彼の言うように、ここでの逃走はすなわち死となる。逃避に意味がない。手詰まりだ。

 なんて馬鹿げた話だろうか。魔王に挑みかかることこそが、この場における最も生存率の高い選択だなんて。


「けど、君たちを巻き込むわけにはいかない、逃げてくれ」

「ばァか。おれらは一蓮托生だろうがよ。逃げてもその意味がねェ。おれもやる」


 それは圧倒的な次元違いの恐怖に怯えるシノギの発言だった。

 ただひとり、ここにある三人の半神たちの枠から外れた単なる凡人たる青年の、全力の強がりだった。

 なんとか歪み強張った表情を笑みと呼べる程度に顔面筋を引き締め、シノギは言う。


「あんたがやって、ならおれもやる。やらねェ理屈がねェ。そうだろ?」

「……シノギ、君は。

 いや、ありがとう。共に戦おう」

「っ、戯けどもが! 男というのはいつもそれか! 敵わぬ相手に挑むなぞ勇気ではなく蛮勇じゃろうが!」


 それでもと、挑む姿は気高く誇り高いのだろう。

 ベルだってそれはわかるし、今も胸にこみ上げてくるものがある。

 だからこそ。


「絶対に死なんし、死なせんぞ。後でたっぷり説教してやるで、覚悟しておけよ小童ども」

「そりゃ怖ェな、あんな魔王なんぞよりもずっと怖ェや」

「そうだな。そうだ。全く――俺はいつも、友に恵まれる」


 万感の思いで呟いて、即時に切り替え。

 いつの間に、適度に柔らかくなった握り手でもって剣を引き抜く。真っ直ぐにその切っ先をにやにやと笑う大男へと差し向ける。


 それで怯む男でもない。むしろ待ちに待った開幕に期待する観客のように、ベオリスは歯を見せ笑う。


「よぉ、話はまとまったかよ。挑むのか、オレに――この『憤怒の魔王』によぉ!」

「ああ。貴様はここで滅ぼす。生かしてはおけない」

「そうか――そぉか! ひひ、ひはは、ははははははははははははははははは!」


 戦闘とは怒りの発露である。

 闘争とは激怒のぶつけあいである。


 なればこそ、ここまで精神力強固な連中が逃げることなく戦いを挑んでくるというのは、ベオリスにとって悦楽でしかない。

 なにせそれは彼の望んだ憤怒そのものであり――彼の作ってきた数々の復讐者、その最高傑作になると予感させたから。


「ならばかかってくるがいい、元勇者とその仲間どもよ! その刃に怒りを乗せろ、放つ魔術に憤りを込めろ! お前たちの憤怒をオレに魅せてくれ!」

「いいだろう――もう抑えもききそうにない。ただしその代価は貴様の命だがな、魔王!」


 ――魔王は悪だ、討たねばならない。


 いつかの誰かの声が聞こえた気がした。


    ◇


「らァ!」


 初手はシノギが斬り開いた。

 彼我の距離を踏破し、その魔刀を振りおろす。

 戦闘態勢にすらならないベオリスを頭蓋から真っ二つにしてやると意気充分の斬撃。

 それを。


「ふん」


 べオリスは鼻で笑い。


「なっ」


 特に何もしない。

 無論、ならばと刃の進軍は止まらず、ベオリスの頭頂部へと振り下ろされる。

 ――金属同士が噛み合うような異音が響いた。


「にっ」


 断言してなんらの動作もない。術的な阻害もない。

 ただ常態で立っているだけで、素肌で――シノギの渾身の一太刀を弾いた。

 

「バケモンが!」

「お前が弱ェんだよ!」


 だが、どうにせ防がれるのは想定範囲内。

 だから本命は二撃目だ。


 シノギは弾かれた勢いを利用して一挙に後退。

 入れ替わり立ち代わり、リオトが前に出る。シノギの陰から意表をついて飛び出す。

 息を吸い――吐く。


「“汝、鋭利なる刃たれ――『斬った張ったのティアキルカット刀剣武・ソゥ具』”」

「む」


 再び――金属音が鈍く響き渡る。

 咄嗟に腕を突き出し、ベオリスは刃を受け止めていた。リオトの魔術付与した技剣さえ、魔王の肉体は凌いでしまう。

 けれど。


「ほう、オレの断魔拒絶結界ニヒトを斬り裂くか。なかなか出来る芸当じゃねぇんだけどな」


 僅かながら、皮膚は裂けて血が滲む。

 肉体を巡る魔力が自然に抗力を発揮し、自身を守る物理的な阻害となる。それの上位にあたる『断魔拒絶結界ニヒト』。


 魔王のそれという強力な結界を、リオトの剣は確かに裂いてその身へと届かせた。

 驚嘆すべき偉業である。目を見張る戦果である。けれど。


「本当に弱体化してやがるなァ。そのザマじゃあ『英雄エインフェリア』にすら届いていない――元勇者が聞いて呆れる」


 受け止めた腕に力がこもる。筋肉が肥大し、その圧倒的な暴力でもって――


「“驟雨しゅううの舞踏会はいつも蒼・雨粒は豪奢な鋼に着飾り踊る――『轟華斬剣乱の蒼空ブレイドサーカス・ブルー』”」


 蒼き宝剣が降り注ぐ。

 その美しい装飾をした剣はひとつひとつが人間大もある巨体で、質量も見合って超重量。当然、それ一本にでも押し潰されてはぺしゃんこだ。


 そんな巨人の担うべき大剣の射出数――実に九十九。


 雨あられと降り注ぐ宝剣は精密に制御され、ただベオリスにだけ殺到していく。傍のリオトにすら掠らない完璧なコントロールではあったが、その巨大さと大質量に巻き込まれかける。


 慌ててリオトはその場から逃れる。

 ベオリスも同時に後退して回避を試みるも、数が多すぎる。範囲が広すぎる。コントロールが抜群すぎる。

 突然の通り雨にずぶ濡れになるように、宝剣の乱舞に飲み込まれてその姿すら埋もれてしまう。



「ド派手だな」

「だがあの程度では死なないぞ」

「わかっておる、追撃を仕掛ける! 前衛を頼むぞ」


 ベルの魔術は強力だ。魔王にだって手傷を負わせられる。

 だが、ベオリスの『断魔拒絶結界ニヒト』を貫くほどの威力を捻出するとなると、今の弱体化した身の上では少々手間取る。魔力を練り上げて術技へと転化するのに時間が要る。


「ああ、いつも通りだ。俺が時間を稼ぐ」

「今回はおれも決定打がねェ。縁は結んだけど意味ねェだろうし、時間稼ぎに回るぜ。ってことで嫌がらせでもひとつ」


 今握る魔刀を納刀し、すぐに『クシゲ』を起動させる。別に魔刀を引っ張り出す。そして抜刀。


「我が六の魔刀が一刀――『騒征ソウセイ魔刀・サエズリ』、その魔威をここに叫べ!」


 人に不快、魔物に苦痛、命あるものへの怨讐邪念。不協和音を囀る人魔問わずに嫌悪される妖刀である。


 魔物ほどには効力を発揮しないだろうが、魔王といえども集中力を削ぐくらいは可能なはずだ。

 現在、シノギの所有する魔刀で、役立つのはこれくらいだろう。どれにしたって殺傷力が不足し、フォローにしたって意味がない。


 ――ああ畜生。なんという戦力不足。足手まといにならないように立ち回るだけで手いっぱいじゃないか。


 嘆いている暇もない。


「ち――うるせぇな」


 苛立ち混じりの声が聞こえたと、そう思った瞬間に。


 あっという間に宝剣が融解した。


 九十九本残らず、跡形もなく、ただ鋼の翼の一羽ばたきで蒸発した。

 と。


「え」


 そう思った次の瞬間に。

 ベオリスはシノギとリオトの間に立っていた。


「っ」


 ぎりぎりでリオトが反応。剣を叩きつけ、敵の挙動に先んじる。

 知るか。


「っ」


 ベオリスはその大木のような腕で薙ぎ払う。

 シノギは納刀状態の『エニシ』を使ってベルの方へと己の身を逃す。紙一重の回避。けれど風圧だけで破壊的な損害をもたらす。馬の突進を食らったような衝撃は全身を突き抜け、その身はゴミのように吹っ飛んだ。


 リオトは斬撃を止めず、むしろ前進。巨体の懐にまで踏み込み、薙ぎ払いをやり過ごす。同時に足払いで僅かでも体幹を揺らし、踏鞴を踏ませる。シノギへの追撃を阻む。


 ぎろりと、魔王の凶眼がリオトへと視線が向く。

 瞬間、刺突。

 悪瞳に慣れた彼が睥睨へいげいなどで身を竦ませるわけがない。むしろ好機とばかりにこちらに向けてくれた目を狙う。


 寸で、スウェーバックで体を逸らして避けられる。ベオリスは目の前に銀の剣が停止していることを目視する。それが一瞬の躊躇いもなく振り下ろされた。


「舐めるな!」


 斬剣に、魔王は額でもって受けて立つ。

 頭突きの要領でリオトの鋭刃を受け止め、皮一枚を裂かれるも停止させる。


「“月は鏡、鏡は己・直視する醜悪の裏・まやかしの女王は己の不様に沈みいく――”」

「っ」

「逃がさない!」


 詠唱の旋律を聞きとがめ、ベオリスは微かに焦りを見せる。

 無論、リオトにも美しい歌声は聞こえていて、額と鍔競り合う我が剣に全霊を注ぐ。

 体重操作の妙。筋肉質とはいえ、ベオリスと比して小さく軽いリオトの体重を上手く活用して圧しつける。楔のようにその動作を剣一本で制限する驚嘆の技芸である。

 そして術は執行される。


「――“『運命数奇しくも平伏すストレンジアクト・ソルム』”!」


 醜悪の女王はそれを直視したすべての者を圧殺する。

 大地すら沈没しかねない重力場。真上から不可視の巨人が全体重をこめて踏みつけるような斥力が発生した。


 魔王ベオリスですら、その歩みは縛られ、足がどんどん地面に沈んでいく。全身に苦痛が走る。どんなものも逃れられない運命の鎖は平伏を要求した故に。

 しかしなんとも驚愕。

 斥力の直撃しているベオリス、それに接触しているリオトには被害が及ばず、軽い身のこなしでその場を退くではないか。


「ち。いい魔術じゃねぇか。それに術構築は完璧、発動速度は感嘆の域、対象を絞る制御は信じられねぇ御業だな。

 ――まあ、そもそも足らねぇけどな」

「っ」


 術式が崩壊していく。

 不可視の重力場が、また不可視のなにがしかの浸食を受けて消滅している。


 魔力現象は魔力現象で干渉できる。

 たとえば重力という不明の力の奔流でも、高位であり膨大な魔力であれば食い破れる。

 圧倒的なまでの出力差。技量で誤魔化せる領域を遥か逸脱した純粋で単純なパワーだけで、ベオリスはベルの術式を破砕したのだ。


 しかし消え去ったはずの時空間の歪みは未だ虚空に観察できる。それはつまり、こちらの術による残響ではなく、敵の力の余波。

 ベルは力負けしたことよりもそれにこそ目を細め、推論を並べる。 


「空間のゆらぎ、光の屈折――蜃気楼に近い」

「やはり奴の『偽神権能レリックアート』は火炎の能力か」


 魔王たる力の象徴、『魔王の証印ペッカートゥム』の与える固有にして懸絶の異能――それが『偽神権能レリックアート』。

 勇者の所有する『神等勇具レリックアーツ』と比肩して対等の、神遺物アーティファクトすら凌駕しかねない神にも等しき力である。


 その下賜した理由からして、推定決戦兵装の神遺物アーティファクトに匹敵しかねない性能を保有するとされ、その上、各時代各個人ごとにその力は形を変え、担い手に相応しきものとなるという。それは担い手の魂の色形に沿って決定するが故。

 ワンオフ、唯一無二。誰も知らず不明な、ほぼ間違いなく初見という対策不能の刃なのである。


 つまり――抜かせてはならない必殺の極技。


「なんだよ、見てぇのか? じゃあ、見せてやるよ」

「っ」

「やべ」

「退け、退けぇ!」


 リオトが後退と防御姿勢をとる。

 シノギが形振り構わず全力で逃避に走る。

 ベルが叫び散らしながら全速力で魔術を編み上げる。


「これがオレの力、オレの『偽神権能レリックアート』。



 ――『鋼の翼を負う憤怒カリュプス・イーラ』」



 瞬間。


 世界が震え――理が変わった。


 目に見えぬ力が周辺一帯を覆い尽し、あらゆる存在事象を例外なく包み込む。

 それはまさしく領域の塗り替えに等しく、魔王の腹に飲まれたような四面楚歌。

 踏みしめる地も、呼吸する空気も、全てが全て魔王と化して独裁支配下に置かれてしまう。

 結果。


「――ぁ?」


 シノギが倒れた。


「なん――」

「じゃと!」


 唇が渇き、眼球の水分は飛び、皮膚が爛れる。

 喉が焼けて呼吸もできず、内側のあらゆるものが熱されてドロドロに溶けていきそうになる。


 口を閉ざして目を固く瞑るも大して意味はなく、圧倒的な激痛を全身で味わう。それは神経の末端から焼けた鉄板で焙られているような、骨が突然に炎にすげ変わったような、意味不明な熱的苦痛の連続だった。

 燃えて、燃えて、全身が火も炎もなく焼き焦がされている。


 肉体への痛みは精神へ負荷を与え、意識は朦朧とする。思考もままならない。なのに壮絶な痛苦が気絶もさせず生き地獄へと陥れる。

 小さな氷のように溶けていく、熔けていく。心も身体も、端から順に滅んでいく。

 そんな状況をしかと観察できて、徐々に死滅していく自己を否応なく理解できてしまい怖気が走っては狂いそうになる。


「くそっ! “低俗なる星々の嘲り・凍てつく夜空の冷笑・君臨せよ厳酷の臥待月ふしまちづき”!」


 実に――二秒。

 たった二秒で、ベオリスの能力に対抗するに最適の魔術を選び、行使し、シノギに付与した魔王ベルは流石の一言。


 だが同時に。

 たった二秒で、人一人を半死半生まで追い込んだ――魔王ベオリスの『偽神権能レリックアート』のおぞましきは饒舌に尽くしがたい。

 その正体は。


「熱か――!」


 炎などという現象ではない。そんな余計で余分な性質は皆無。

 それ以前の、原子の振動。最も小さきものの暴走――熱量の強制上昇こそが憤怒の魔王ベオリスの異能である。


 翼を媒介して外部にも熱を発散することで、周辺一帯を高熱化させる。

 説明すればそれだけの能力で、その出力を別にすればさして珍しいものでもない。特殊性もなにもなく希少とも言えないだろう。だが単純ゆえに強力無比で、明快だからこそ回避不能である。


 人は体温が四十二度を超えると細胞に著しいダメージを負う。さらに上昇してしまうとタンパク質が凝固してしまうか、それ以前に死んでいることだろう。

 また体内の血液が沸騰し、蒸気が脳や心臓にでも届けば心停止。即死は免れない。


 熱とは、恐ろしいまでに人を殺すに適した目に見えぬ殺人者なのである。


 リオトはカソックの防御性能でなんとか耐え忍んだ。ベルは多重に張っておいた結界で極力遮断している。

 だがシノギは素っ裸に等しい。その太陽の如き炎熱に晒されて、二秒で死にかけた。あと一秒あればまず死亡していた。


 そして、このままであってもいずれ死ぬ。


「すまぬ、シノギ!」


 念動力。遠く届く不可視の手のひらでもってベルは倒れ伏すシノギを掴み、力任せに引っ張り寄せる。

 労わるように抱き留め、すぐに治癒の術式にとりかかる。


「すまぬ、間に合わず、すまぬっ」


 泣きそうになりながら術式をはじめる。抱きしめたままに全身で治癒を与える。

 ベルの治癒の腕とその再生力を考慮換算し――リオトは、シノギの状態が最悪に近いと察する。


 感情的にならないようにと努めた低い声で。けれどやっぱり酷く感情的に、リオトは言う。


「……ティベルシア。君はシノギを連れて逃げろ。遠くまで」

「なっ。しかし――!」

「俺では!」


 遮って。

 無力に嘆くように。不甲斐なさをなじるように。涙を流すように。

 自分の役割を申告する。


「俺ではシノギを治癒する魔術は扱えない! だが、足止めくらいはできる!」

「馬鹿を抜かせ! おぬしも一緒に逃げるぞ!」

「それを許す相手ではない。誰かが足止めしなければならない。そして、それは俺におあつらえ向きだ。いつものように」

「っ」


 ここでの逡巡はシノギの生存率に関わる。迷いはリオトへの負担になる。

 わかっている。この場で一番冷静なベルが、それを一番わかっている。わかっているのだ。


 だからとここでリオトをひとり残すことは見捨てるようでなによりも辛く、そして魔王相手に単独で挑む無謀を許すのは――即ち彼の死ではないのか。

 既に熱量の向上に伴ってリオトのカソックは端から融解している。その強固なる防御性能すらも浸食され、彼の肉体は悲鳴を上げている。


 なのに、どこまでも穏やかに、リオトは言う。


「ティベルシア、俺は戦士だ。戦士なんだよ。立ち向かう戦士を憂慮で引き留めるのは侮辱でしかない」

「それは男の理屈じゃろ。わしは、戦士としての矜持なぞよりも、生きていてほしいのじゃ!」

「すまない。だが、俺は死なない。俺の死は君とシノギの死でもある。ならば、絶対に死ねない。

 ――奥の手を切る」

「なっ」


 その一言に、ベルは目を見開く。

 いつか聞いていた、もしかしたら可能かもしれないリオトの奥の手の話を思い出す。


 シノギが秘して封じて使わぬと心に決めている六本目の魔刀のように。

 ベルが使えぬはずの魔王たる力を後先考えなければ引き出せるかもしれないように。


 使いたくないと、そう言っていたはずの反則技がある。

 使いたくない。本当に、心底、使いたくはなかったが――致し方ない。でなければここで三人まとめて全滅する。


 リオトは祈るようでいて遠ざけるように、抱きしめるようでいて辛辣にその思いの限り、ただ願いを叫ぶ。


「頼む。シノギを死なせないでくれ!」

「っぅ」


 その一言が、ベルに決意の火を灯す。シノギの存在が、やはり彼らの問答を終結させた。

 未練を断ち切るように強く歯を噛み締め、ベルは血反吐を吐くようにして言うしかなかった。


「約束せよ、絶対に死ぬな!」


 シノギにも施した冷却領域の魔術をリオトに付与し、ベルは反転して駆け出した。シノギを浮遊で持ち上げ引き連れて。

 急速に身体が冷えていく心地よさを感じながら、リオトは笑顔で返す。


「ああ、ありがとう。絶対だ――ただすこし、君たちの力を借りるよ」


 そう、ひとりきりでは勝てないから。

 三馬鹿が揃って負けたことなど一度もないのだから。

 対峙するのがリオトひとりであっても、共にあるのならば負けるはずがない。

 故にこそ。


 ――蓮よ、もう一度だけ花開け。

 


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