憤怒の陽に向かって走れ! 1



「太陽に近づきすぎてはいけない。

 そのお怒りに触れてしまえば、我々の如き脆弱の輩は歩み寄るだけで溶かされてしまう。

 太陽に近づきすぎてはいけない。

 あの方もまた、大いなる神々の一柱なのだから」


                ――翼もつ民の最初の教え




 ――憤怒とはことごとくを焼き払う妄念である。


 カンディアという、そこは長閑な村だった。

 緑が多く、心優しい人々が住まい、魔物被害も少ない平和なごくありふれた田舎村。

 特産物はないし名物もなく、立ち寄る者も多くはない。『飛送処ヒソウショ』は設置されているものの、小さくあまり転移量の多い支部とは言えなかった。

 外からは関心を向けられる理由もなく、その分だけ内々で繋がりが深く、村人たちは助け合って逞しく生き抜いてきた。


 ――数分前までは。


「火……火は、いいねェ」


 カンディアの村は、たった数分の内に滅んでいた。

 轟々と火炎の渦は休むこともなく滾って、そこにあったはずの全てを焼き続ける。


 人の営み、生活の痕跡、有形無形問わず全部全部燃えて燃えて燃えていた。

 何もかもが紅蓮に染まり誰も彼もが焼け焦げて、なお燃焼は肥大化している。留まらずに拡大、業火は熱量を増し続ける。


 そんな、赤い死だけが支配する地獄の如き火の海に。

 それを作り出した男は悪魔のように平然と笑っていた。

 地獄の中心で、相対する少年に笑いかけていた。


「お前もそう思うだろ?」

「きっ、きさま……!」


 このなにもかもが死して絶えた地獄にて、少年は生きていた。かろうじて。

 体中を火傷に苛まれ、打撲や骨折もあって苦痛の嵐。痛みに涙さえにじませながら、けれど目つきだけは憎悪に満ちて炯々と輝く。


 それは目の前の男、村を滅ぼして笑う男へと向けた正しき怒りと憎しみで、それだけを糧に彼は死を拒絶していた。

 そんな激怒と憎悪の眼光に貫かれることに、しかし長身巨躯の男は喜んでいた。実に楽しそうに言葉を向ける。


「人間にゃ二種類あると思うんだよな。

 突然の悲劇が身に起こった時、理不尽に悲しむ奴と――怒る奴」


 ちらと立ち上がることもままならない少年に目線を送る。倒れ伏しても、首だけはどうにか上を向かせ、目だけは食い破るように男を睨み続ける。視線に殺傷力があるとするならば、きっとそれは酷く鋭い刃に似て。

 その斬撃のような視線を心地よさげに、なにより嬉しそうに男は続ける。


「オレは俄然、後者が好きでね。まあ、正確に言えば人の怒りの感情が好きで、それを見たくてこうして突然の悲劇を演出してるんだけど。

 つまり、お前の親も友も知り合いも全部――ただのオレの身勝手な娯楽のために、殺したぞ」


 武骨な顔つきで、厳ついガタイで、にっこりと猛獣のように笑う。最悪を告げる。

 腐り切っておぞましいほどのふざけた理由。

 村をひとつ滅ぼして、そこに生きる人々を残らず焼き殺しておいて――ただの娯楽と言い切ってはばからない。嬉しそうに笑って語る。


 その精神性は糞便よりも汚らしく醜い、悪鬼羅刹よりも恐ろしく捻じれている。

 なにより、こう言えば誰もが怒り狂うとわかっていて伝えているのが、最もおぞましいのではないか。


 なにせ、それは要はこの男は理解しているということになる。

 人の情を、思いやりを、正しさを。

 わかって、理解して、故に嘲笑う。ぶち壊して見せびらかす。それが最も効率的に、かつ確実に人を怒りに狂わせると知っているから残酷をこそ実行する。


 無知ならざる災厄の火は、だからなによりおぞましい。


「それで、なあ、おい、どう思うよ? お前は、悲しいか? それとも、怒るのか?」

「ぐっ、ギ……ィ!」


 もはや言葉にもならない。

 吹き出るあらゆる感情が魂をぐちゃぐちゃに掻き乱し、腹を満たし、喉を震わせ、総身がただ一念で破裂しそうになる。

 おぞましいほどの憎悪、黒く燃える億千の憤激。自らの魂すらも破裂させかねない膨大なる激情だった。


「ァ……ぁぁ」


 確かに憎悪憤怒はあって、目の前の男への殺意は尋常ならざる漆黒で。

 だが、ゆっくりと、見開いた眼光は閉ざされていき――完全に閉眼した時、流れるのは悲哀の涙。

 

「あっそう、つまんね」


 瞬間、少年は燃え尽きた。

 怒りを選ばぬ者に興味などない。


 ――そしてその村に残ったのはふたりだけ。



    ◇



「これは……」


 緑豊かな辺境の村だ――そう、シノギは道中で語っていたはずだ。

 特段におかしなこともなく、胡散臭いこともない簡単な郵便依頼。『飛送処ヒソウショ』をあまり有り難がらないタイプの依頼人の手紙を、『飛送処ヒソウショ』をあまり利用しない男へと届ける。

 それだけのいつもの日常で。


「場所を、間違えたというわけではないのじゃな?」

「ああ、ここだ。ここがカンディアの村のはずだ。おれは以前も同じ依頼主からここに手紙を届けたことがあるから、間違いない」


 ならばこれはなんだという。


 この黒焦げになった荒野はなんだという。


 あらゆるものが、そこには存在しなかった。

 地平線が見渡せるほどに遮蔽物はなく、大地は禍々しいほどに黒い焦土。灰すら風で吹き飛ばされ、大地は死んでいた。焼死していた。


 煤けた匂いとなにかを焼いた悪臭が漂うことで数日、もしくは数時間前まで猛火が奮っていたことがわかる。

 跡形もなく全てが焼却されていることから、その炎の熱量の尋常でなさは推察できる。そしてそんな火力を有する自然現象がこんな場所で発生することはありえず、ならば誰か人為的魔術的な災禍であろうことも理解に及ぶ。


 だがわからない。


 誰が、どんな理由で、こんなむごいことをなしたという。

 怒りに打ち震え、奥歯を噛み締めて、リオトは静かに瞑目する。そうでないと激発して無意味に怒り狂ってしまいそうだと思ったからだ。


 沈黙に、死した村は包まれる。

 しばらく誰もが口を閉ざし、暗澹あんたんたる静寂だけが支配して――やがて、やはり、シノギが口火を切る。


「……ベル、生存者の探査を頼む」

「む? なぜじゃ、こんな死に果てた地で生存しうる命なぞ――」

「おれの嫌な予測が外れてなきゃあ、いるはずだ。ひとりきりの生存者がどこかに、必ずな」

「なにかこの悲惨に心当たりがあるのか」


 背筋が凍えるほどに抑揚のないリオトの声に、シノギは曖昧に頷く。ただ返答はせず、顎をしゃくってベルに促すに留めた。


 ベルは慌てて術式を構築。探査を敷いて周囲に感覚を飛ばす。視覚であり聴覚であり、また熱源探知でもあり魔力感知でもある。複合した探査の術は精密で巧緻。すぐに目当ての存在を発見する。

 ベルは手のひらサイズの驚愕に怪訝そうに眉を顰める。


「まさか……ありえん。確かにひとり生存者がおるぞ、一体どうやって――」

「助けに行くぞ! 方角は!?」


 疑問などどうでもいいとばかり急に律動的になって焦るリオトに、ベルは方向を指さすことで答える。

 すぐに指し示す道を真っ直ぐに走り去っていく。

 いても立ってもいられなかったのだろう。なにかできることを求めていたのだろう。その疾走は悲しいくらいに愚直だった。


 一方で足を動かすこともしないベルは、横眼流し目で事を予言したシノギを刺す。


「して、シノギ?」

「ああ、畜生。やっぱりこうなるかよ、畜生」


 シノギは答えず、なにもかもが嫌になったというように天を仰いでこの運命を呪う。

 トラブルに巻き込まれやすい体質だと自覚はしていたつもりだし、二人に出会ってから事件遭遇率はさらに上昇したかもしれないと覚悟はしていた。


 だが、まさかここまでの悲惨に遭うことになろうとは。この世で最も出会ってはならない存在の足跡に巡り合うとは。

 シノギは忌み嫌うものを吐き出すように、嫌悪すべきものを唾棄するように、それを言った。


「魔王だ――『憤怒の魔王』、【鋼の翼を負う憤怒カリュプス・イーラ】が現れたんだ」



    ◇



「旅人にとっちゃあ、割と有名な話だ。というか、知らんと困る類の知識だな。曰く――」


 確かに村があったはずの場所を訪れて、そこになにもなくなっていたら、それはきっと『憤怒の魔王』の仕業に違いない。

 彼は神出鬼没に現れ出でて、なにもかもを燃やして去っていく。

 ただひとり――仕立て上げられた悲哀の復讐者だけを残して。


「この知識がないと、道を間違えたかと勘違いして迷子になるから、こういうことも稀にあるんだって知っておかないと旅人はあっさり死ぬ」


 所移って、隣の村のある宿屋。

 三馬鹿は生存者の少女を担いで運び、治癒を施し、休ませるためにベッドへ寝かせた。


 少女は全身を火傷し、至る所を骨折して、死んだように目を覚まさなかった。

 それでも生きている。ベルの治療も効いて、今は安らかそうな寝顔をして、リオトは深く安堵したものだ。

 安堵すれば、ならば次に話すことは明確。シノギが手持ちの情報を晒して共有する必要があった。


 そうして、ざっくりとした説明をすれば、リオトは苦々しくベッドの少女に視線を遣る。


「それで、悲哀の復讐者というのは、この子のことか」

「ああ」

「まあ目の前で両親も友人もなにもかも焼かれてしまえば、復讐という結論も当然といえるじゃろうが」

「彼女の心情は理解できる。だが、相手の魔王の思惑は見えないな。どうして復讐者なんか残すんだ」


 そう、当然だ。それをやらかした魔王にだって、それはわかっているはず。

 いや、わかっていながらなのか。意図して残したのか。

 しかしそれはどんな理屈でなされた行動だ?


「『憤怒の魔王』――悲劇の下手人、神出鬼没の翼、手ぐすね引いた悪魔――【鋼の翼を負う憤怒カリュプス・イーラ】。そんな風に呼ばれる、現代における悪い魔王。

 奴は悲劇を起こし、ひとりだけ生存者を残し、そしてそいつの復讐を待つという。魔王は憤怒の感情が好みで、復讐なんかはわかりやすく好いている。だから、それを誰かに強要するために悲劇を起こす。己へ向ける憤怒を味わうために」


 どんな理屈か――復讐されたいから。


 意味不明だ。わけがわからない。余人には理解できない、共感できない。どうしようもなく狂った理屈といえる。

 否、理解してはいけないのだ。共感しようと試みることすら禁忌なのだ。

 それは外れた者の破綻した思想で、覗き込もうとするだけで取り込まれかねない深淵なのだから。


 リオトは考察も放り投げてただ頷いた。


「わかった。理解できないことは、わかった」

「で、そのトチ狂った魔王の阿呆がちょうどわしらの目的地の村で勃発してしまったと、要はそういうことじゃな?」

「ああ、誰にとっても、不運なことにな」


 届けるはずだった手紙を懐に感じながら、シノギはため息のように肯定した。

 そこでリオトがなんだか輝かしく笑う。


「時にシノギ、他意はない、まったくもって他意はないのだけど、『憤怒の魔王』っていうのはどこにいるのかわかるかな」

「知らんわ」

「ち」


 勇者が舌打ちしやがった。

 シノギは残った情報を続ける。


「神出鬼没の名は伊達じゃねェぞ。悲劇を起こしてひとり残し去って、それから一切姿をくらませる。誰にも消息が知れず、本当に消え去ったようにいなくなるんだ。そして、再び別の場所で悲劇が起こることで、やはり生きていたのだと世に知れる」


 まるで悲劇を起こすその時にしか、この世界に存在していないかのような、そんな噂が囁かれるほどに完璧な消息不明。

 他の魔王や勇者でさえ『憤怒の魔王』は見つけられないという。ゆえに神出鬼没の名を冠する。


「しかし、それは妙じゃな」

「あん? なにが。魔王レベルの隠密なんだからそれくらい……」

「そうではなくじゃな――どこぞに消えておったら、そやつは好物の見物をできぬではないか」

「あ」


 怒りの感情が好きで、復讐者をわざわざ作り――そして放置して身を隠す?

 それはなにかおかしい。確かに奇妙な矛盾を孕む。もしかしたら重要ななにかを掴めそうな素朴な疑問。


 とはいえ、それについての考察は、今の三馬鹿にはできなかった。

 ――少女が不意に目覚め、そこで話は打ち切られたから。


「ん……ぅぅ」


 一斉に三対の目がベッドへと向かう――少女は意識を取り戻し。


「あ――」


 即座に全てを思い出して。

 瞳に涙が溢れて。

 こぼれて。


「あァァ――」


 絶叫する。


「あああああああああああああぁぁぁぁぁぁァァァァアアアアアアアアアア!!」


 髪を振り乱し、頭を掻き毟り、壊れたように叫ぶ。

 それは憤怒で、それは悲嘆で、それは絶望。


 様々な負の感情が交じり合い、溶け合い、ぐちゃぐちゃになって原形も残らない。どろどろとした悪感情は際限なく湧き上がっては声と変わる。絶叫として不満の全てを吐き出そうとして、しかしそれは悪夢の坩堝。


 ただひたすらに割り切れずわかりたくもない現実を拒絶するように喚き散らして、だが終わりなどない。彼女の絶望の深さは、終着のない底なしだった。 

 ならば彼女はもはや死ぬまで絶叫する生きた亡霊だ。


「……ふん」


 ベルは至極冷静に音を遮断する術を使って少女の悲痛な絶叫を閉じ込める。うるさいし、宿屋の他の客に迷惑になるし。

 なにより聞いていられなかった。

 それからふたりに問う。


「どうするのじゃ、あれ」

「どうするたって」

「…………」


 こういう時にベルもシノギも役立たず。もともとボッチで人との接し方が拙いのだ。そんなコミュニケーション下手なふたりが、村を焼かれ家族も知人も失った少女になにを言えという。


 自然と視線はリオトへ集まり、当人は重々しく頷いた。すぐに無言で少女に歩み寄る。

 そして音遮断の領域を超え、叫び声に耳を傷めながらも、怯むことなく手を伸ばす。少女を、優しく優しく抱きしめる。


「大丈夫だ」


 根拠なんかない。理屈なんかない。

 だけど断ずる。そのようにしてやると誓う。


「大丈夫だ、もう君を傷つける奴はいない。悲しいことがあったのは辛いよな、泣いていい。だけど自分を責めるな、君は悪くない」


 大丈夫。君は悪くない。

 繰り返し繰り返しそう言い聞かせ、抱きしめて両腕を抑え込む。少女の頭を手で包むことで、首も無理な稼働をさせない。

 抵抗しても、無理に暴れようとしても、リオトの腕力には敵わない。少女は抑え込まれ、無茶な自傷も封じ込まれ、ただ抱いてくれる暖かさと優しい声に聴き入ることしかできない。


 いつまでもいつまでも。数時間にも及び、リオトはずっと抱きしめ続けた。ぬくもりを与え続けた。

 それが彼のしてやれる精一杯だったから。




「ぁぁ……」


 やがて、少女の声が途切れる。力尽きて、声枯れ果てて、そしてまた昏倒した。

 リオトはそれを見届けて、少女を優しくベッドに寝かしつける。


 そこを見計らったように、するりとシノギが手を伸ばす。水を注いだコップをリオトへ渡す。


「お疲れ。大丈夫か?」

「ああ、問題ない。水、ありがとう」

「随分と凄まじく、なによりも悲痛な叫びであったな」


 ベルの痛々しいものを見たという感想に、リオトは水を飲み干してすぐに返す。


「つい少し前まではただの村娘だったんだ、あんなことがあれば発狂しかねない。これくらいは当然だよ」

「同情はするがの」


 それ以上はコメントを差し控える。

 なんだか空気が重くなる中で、リオトは殊更明るげに口を開く。


「あ、そういえばふたりとも、途中で席を外しただろ。どこに行ってたんだ?」

「ああ。『飛送処ヒソウショ』にちょっとな。手紙を転送して送り主に返してきた。事情を説明してな」


 これを怠るとシノギは呪いに殺されてしまう。郵便屋の呪いはキャンセルは許すが、事後処理の放置は許さない。難儀である。


「それと服を買ってきたぞ。こやつのそれはもはやボロ布じゃしな」

「だからティベルシアも一緒に出てたのか」


 そういうところに気のまわらないリオトとしてはいたく感心してしまう。たぶんシノギも絶対思いついてないはずだから、やっぱりそこらへん魔王も女性らしいところもあるものだ。


 というわけで着替えさせるために一旦、男性陣は退室。

 数分でベルから声がかかり、もう一度入室。着替え終えた少女は心なしか安らいだ表情に見えた。


「てか、ベル、どうやって着替えさせたんだよ。あんた腕力ゼロだろ」

「そりゃ魔術じゃろ。魔術は工夫すればいろんなことができるのじゃぞ」

「へえ? たとえば?」

「焼け焦げておった金髪も整えておいたぞ。綺麗な長髪であったろうが、再生はできんでショートになってしまったがの」

「なんか思ったより生活臭溢れてんな」

「かくれんぼもできるぞ」

「やらねェよ」


 なんで突然遊び事になるんだよ。

 呆れるシノギに、ベルは真面目そうに目を細める。なんだか、少しだけ話を早めに推し進めようとしている。


「さておき、しかしどうするのじゃ、この娘」

「適当に教会とかそこらへんに引き渡すとかくらいしか思いつかんな。この村に知り合いなんざいねェし。当人に聞いて、余所に親類なり頼れる筋なりがいりゃあ楽だがな」

「いなければ天涯孤独か。珍しいというほどでもないが、辛いな」

「どうにせよ、本人の希望次第じゃろうな。ちゃんと向き合って問わねばわからんよ」


 まあ、会話できるほどに落ち着くかはわからないが。

 最悪、このまま目覚める度にノドが潰れるまで叫び声を上げるかもしれない。もはや正気ではなく、狂ってしまっているのかもしれない。

 救いようのないところまで――少女は墜落しているのかもしれない。


 悲観的なことを想定するベルであるが、楽観視できる要素が見当たらないのだから仕方がない。

 口にはせず、態度にも出さず、ベルは暗い先より仄明るい今を見る。


「まあ、とりあえずもう一度、ノドを重点的に治癒しておこうかの」

「頼む、ティベルシア」

「あんたは飯だな、ほれ、買っといたぞ」


 言って、シノギは外出ついでに購入しておいたサンドウィッチをリオトに渡す。数時間も少女につきっきりで腹も減ろう。


「腹が減ってはなんとやらって言うしな、食え」

「ああ、ありがとう」


 ささいな気遣いがありがたかった。

 自分の勝手な人助けに迷惑しているはずなのに、文句もなくそれでこそと苦笑して認めてもらえているのはなにより嬉しかった。


 恵まれている、恵まれすぎている。本当に。

 だからこそこの幸せを独り占めするでなく、誰かに配ってあげたいと思う。

 手を差し伸べ続ける勇気をもった者、それがリオトの思う勇者という理想像だった。



    ◇



 そして、翌日の昼前辺りに、再び金髪の少女は目覚めた。

 今度は、即座に絶叫したりもせず、静かに半身を起こし、ぼうっと窓の外を見遣る。

 状況が理解できないのだろう。昨日の目覚めと絶叫すら、覚えているのか定かではない。


 リオトは一晩中握り続けていた少女の手に、さらにもう片方の手を置く。包みこむよう、暖かくなってほしいというように。

 兎にも角にも、落ち着いているなら言葉を交わせるはず。リオトは優しげに、驚かさぬように、まずは自己紹介から。


「おはよう、はじめまして。俺の名はリオトーデ・トワイラス」

「…………」


 声をかけられ、少女は鷹揚に首を動かした。リオトを、その濁った眼でようやく視認した。

 その碧い瞳には、今はなんの感情も見受けられない。


 昨日あった激情も、今あるべき困惑も、なにもない。ただただ湖畔のように静寂とし、氷のように凍てついている。

 構わず懸命、リオトは積極的に声をかける。


「きっと、混乱してるよね。どういう状況かわからないよね。君の記憶はどこまであるのかな?」

「…………」

「俺のこと、見覚えはないかな」

「…………」

「じゃあ君の名前は?」

「…………」


 無言、無反応。

 瞳の湖も凪いで少しも波立たない。

 しばらくは当たり障りのない問いかけを繰り返すも、やはりなんの成果も得られない。


 仕方なし――ずっと避けていた問いを、さりげなく放り込む。


「村のことは、覚えているかな」

「っ!」


 瞬間、その反応は劇的だった。

 全身は震え、表情は苦悶と憎悪で塗りつぶされ、その眼球は燃え上がったように憤怒に染まる。


 明確な感情発露は意図した通りで、また予期できた少女の激発が悲しく、それをさせた己の不甲斐なさに落ち込みそうになる。

 なによりも。


「そうか。覚えているか」


 ほんのわずかだけ、やるせない気分になった。

 どうせなら、全部忘れ去ってしまっていればよかったのに。悲劇なんか忘却して、ただ未来に生きてくれれば、それはそれで幸福だっただろうに。

 そういう希望も、あったのではないかと思っていた。


 だが覚えているのなら立ち向かわねばならない。過去を抱えて前進せねばならない。

 リオトは、もう一度問う。


「君の名前は?」

「クラーテ……ナウロス」

「クラーテ! いい名だね」


 どうやら怒りとはいえ腹の内にわだかまっていたものを吐き出したことで、他の感情もまたある程度の復帰を見たらしい。先ほどよりもよほど生気の通った顔立ちで、囁くようにとはいえ返答をくれた。

 それどころか、黄金の少女のほうから質問が飛んできた。耳を澄まし、意を凝らさねば聞き逃してしまうほどか細い声で。


「あなたは、神父さま?」

「うん、そうだよ」

「あなたは、ボクを助けてくれたの?」

「俺と、あと今はいないけど、仲間とね」

「そう」


 その仲間ふたりは少女クラーテの目覚めを察した時点で部屋を辞している。

 シノギの強面ては情緒不安定な少女に直視させるのは厳しいという判断である。


 その若干落ち込んだシノギを慰めるようにベルもまた同行した形だ。

 まあ、リオトひとりのほうが色々と都合よかろうという思惑もあったわけだが。


「…………」


 少しだけ空白のようにクラーテはまた口を閉ざし、リオトもあえてそこは倣って黙した。

 会話が少し成り立ったからと調子に乗って捲し立てても、それこそ敬遠されてしまいかねない。彼女から話しかけてくれたのだから、彼女のペースに合わせよう。


 なにより、今この場で考えたいことは、それこそ沢山沢山あるだろう。こっちの事情で思案を遮り矢継ぎ早に話しかけても迷惑である。まずは心の整理が必要のはず。

 沈黙は数分にも満たなかった。クラーテは顔をあげ、リオトの目を見て真っ直ぐに言った。


「神父さま、助けてくださりありがとうございます。お仲間さまたちにも、そのようにお伝えください」

「ああ、それは君の口から言ってあげると喜ぶと思うよ」

「いいえ、ボクはもう行かせてもらいます。お世話になりました」


 言い切って、クラーテはふらつく身体を持ち上げる。壁に手をつき、なんとか両足で支え、ドアに向かう。

 リオトは慌てることもなく静かに告げる。


「どこへ?」

「……」


 返答がないなら、こちらが言おう。容赦なく。


「魔王のところ、かな」

「っ」

「居所はわかるのかい。わかるとして、移動していない保証は? 見つけたとしてどうするのかな。敵討ちとか? 勝ち目はないよ。相手を喜ばせるだけ喜ばせて後はあっさり殺されてしまうよ」

「じゃあどうすればいいの!」


 わざと辛辣に言葉を並べれば、クラーテは案の定すぐに爆発した。

 無理に繕った平静さは跡形もなく、ただただ憤怒に身を焼かれて叫んでいた。叫ぶ度、傷つき痛むのは自分だというのに、構わず烈火を吐き出す。


「許せない! あんな奴! 許せるわけがない! 殺さないと、ボクが! ボクの手で殺す! そうじゃないと母さんは、父さんは! 村のひとたちの魂はどこに行けばいいの! 永遠にあの無慈悲な炎に焼かれ続けろというの!?」

「復讐に焼かれているのは君だ」

「そうだよ! そう! ボクはもう燃えてただれて死んでしまった! 今あるこの身は燻るだけの残り火で、きっとなんにもできない。朽ちて尽きて死を待つだけ! だからなんなの!? だったらあいつも道ずれだ!」

「できないよ、君では、かすり傷ひとつもつけられない」


 冷徹なほど事実を突き付け、リオトは少女の絶叫を阻む。

 言いよどむ内にその華奢な身体を抱き上げて、抵抗を無視して再びベッドへと寝かしつける。優しく毛布をかけてやり、笑いかける。


「まずは落ち着こう。そして安静にしていなさい。君は自分のことを残り火だと言ったけど、君はまだ生きられる。傷は深いが、うちの魔術師は治癒に優れている。時間をかければ完治できるとお墨付きだ」

「うそ……あんな重傷、なおせるわけない」


 それが普通の判断だ。

 おそらくクラーテの大怪我を癒すには、大きな都市の一等の治癒術師が秘薬を用いてなんとか、といったレベルであった。こんな片田舎の辺境では、まず致命傷といって間違いない。


 けれどまあ、そこはそれ、三馬鹿の魔術師はティベルシアという規格外であるがために。


「生きるよ、君は。だから自暴自棄にならず、怒りはわかるが今は堪えて」

「わかるわけ――!」

「ああ、ごめん。不用意なことを言ったね。謝るから、どうかできるだけ無理に声を張り上げたり、感情を昂ぶらせないで。傷に障るから」

「っ……」


 どこまでもどこまでも、なにを言っても怒鳴っても、彼はクラーテの心配だけを優先させる。その声音が、態度が、優しい目つきが、痛いくらいに伝えてくるのだ。

 ――君が心配だと。


 振り上げた拳の落としどころが見当たらない。そんな面持ちで、クラーテは顔を背けた。


「え」


 ふと、手にぬくもりを覚える。

 驚いて見遣れば、リオトがその手を握っていた。優しく労わるように、慈しむように。


 そういえば、目覚めた時にも左手だけがなぜか暖かかった。あれは、この彼の暖かさだったのだろうか。

 振り払うこともできず、やめてほしいとも思えず、クラーテは無言のままその手の暖かさを感じ続けるのだった。


    ◇


 と、どれだけか静かな時間が過ぎ去って、不意にノックがやってくる。


「おーい、もうそろそろいいかよ」


 ガラの悪そうな声だ、とクラーテは思った。一方でリオトはなんだか苦笑している。


「ああ、もう彼女も落ち着いた。入ってきてくれ。ただしグラスはつけておけよ」

「……わかってらァ」

「これこれ、もう落ち込むのはやめよ、面倒な」


 ドアを開いて入室してきたのは、なぜか屋内でグラスをかけたスーツの男とドレスの幼女だった。リオトの言っていた、仲間のふたりという奴か。


 しかしそれにしては奇妙、アンバランス。整合性が感じ得ない。なんだこの三人組とクラーテは疑問符で一杯になる。

 している内にふたりはベッドの傍にまで歩み寄り、それぞれ口を開く。


「まずは名乗るぜ。おれはサカガキ・シノギ、郵便屋だ」

「わしはティベルシアという。フルネームは長いので省略するぞ」

「くっ、クラーテ。クラーテ・ナウロス……」


 かろうじて名乗り返す。

 リオトと違い、シノギはあまり待たない。ぐいぐいと進行させる。リオトに顔を向ける。


「んで、どこまで話したんだ」 

「怪我が治るまで安静にしておいてくれと。あと、記憶はある」

「ん、まあ想定通りか。じゃあこれからどうするかを聞くかね」

「これから?」


 得体のしれないものを突き付けられたような、口にし慣れないものをどうにか言語化してみたような、なんともたどたどしいオウム返し。

 リオトは頷く。ものを知らない子供に教えるように丁寧に、辛抱強く言葉を手渡す。


「君はどうしたい。どこか行きたい、頼れる所があるのなら、送ってあげるよ」

「ボクは」


 視線を三人から天井へと移し、その木目を静かに眺める。

 瞑目する。低頭するように。


「ボクは、あいつを許せない――復讐したいよ」

「……そうか」


 そうだよな、とリオトは思ったよりもずっとあっさりと、そう受け止めた。

 驚いたようにクラーテが目を広げていると、苦笑で返される。

 

「今すぐに、なんて馬鹿げたことを言うのなら全力で止めるけど、決意したのなら止めないよ。それが心の支えになって、君を生かすことにもなるだろうし」


 復讐はくだらない。

 リオトもそういう考え方はわかる。だがそれがくだらないというのは当人が気づいてこそ。誰かに言われても意味などない。


 もちろん、復讐の意義以前にやめてほしいという気持ちはある。

 なにせ、彼女の仇は魔王である。

 生半可な強さなど無意味であり、どれだけ覚悟しても届かない。文字通り隔絶した次元違いの半神。

 そんな存在を、つい先ほどまで村娘でしかなかったクラーテが打倒するなど不可能と言える。


 だから無意味な返り討ちにあう前に、どうか断念してくれないかと祈っている。自分にできるのはそれだけだと弁えている。

 そこでシノギの悪瞳がグラスの奥で訝るように細まる。


「……意外だな、リオト。あんたァ、止めねェのか」

「止めないさ、止めても意味なんてないさ。おれだって、焼き焦がれるほどの渇望は理解できる。赤の他人の俺が止めて立ち止まるものかよ」

「それでも無理でも必死になるかと、思ったけどな」


 消極的に自らの気づきで立ち止まってくれないか、なんて希望的観測だけして、それで終わりとは。リオトーデともあろう男が、お節介が足りないのではないか。

 常なら、シノギやベルの思うリオトなら、そんな無謀で無意味なことはよくないと懇々と少女を説得するのではないか。君の命が大事だからと、死んでほしくはないのだと。

 鬱陶しがられても余計なお世話をしてしまう。そういう勇者的な性質の男のはずで。


 なにか、いつもと、違う。

 シノギのその悪瞳に射抜かれて、リオトは薄く笑った。酷薄な、彼にはまるで似合わないゆがんだ笑み。


「言ったろ、理解できるのさ――復讐心ってやつは」


 復讐はくだらない。そう思う。それに嘘なんかない。

 だが同時にまた、復讐したいという思いもリオトはわかるのだ。痛いくらいに、理解できるのだ。


 彼もかつて復讐の炎に焼かれた人間であるがため。


 結局、リオトは仇を討ち果たして、その後になってからようやくそのくだらなさ、無意味さにたどり着いた。だからこそ復讐はくだらないと断ぜられる。

 そしてだからこそ、どうか彼女はそれよりも早くに気づくことができればいいと祈るしかないのだ。


「…………」


 それにはクラーテと、そしてシノギもベルも言葉をなくす。二の句が継げない。

 いつも善性にあって前向きな勇者が、かつて復讐に狂ったことがあるだなんて、想像だにしなかった。三位一体とはいえ、一蓮托生になっても、奇縁が結ばれているのに、まだ知らぬことはどこかに潜んでいる。


 ふっと、リオトは笑って流す。そんなつまらないことはどうでもいいと。


「今は俺のことよりクラーテのことだな。復讐をするなら、それがなせるようにと準備がいる」

「準備?」

「まずは強くなること。勝てないと、復讐は果たせないわけだからな」


 初手の時点で無理極まっている。

 だが、無理だから諦める、なんて道理の通った理屈で諦める復讐者はいない。


 だからリオトは折衷案。

 無理に挑むための準備をしろと言う。復讐には邁進しているが、結局死ぬまで復讐にたどり着くこともなかろうと思われる提案だ。

 子供騙しのようで、最も堅実な道とも言える。


「なんなら俺が剣を教えてもいいし――」

「ってこら戯け、なにを熱くなっておるか。そういうのは万全になってからじゃろうが、まずは心身を労わり休めることが先であろうに」


 勢いに飲まれて黙していたベルが、ようやくここでツッコミに回る。いつもと立場が変わってしまってどうにもしっくりこないと感じながら。


「あっ、ああ、それもそうだな。ではクラーテ、君は寝ていなさい」

「…………」


 横合いから飛んでくる険悪な悪瞳の視線には片手で応え、リオトはベッドの少女だけを見つめる。


 彼女のほうも、邪魔立てされずに済んだとみて、ならば確かに今は休むが正解かと頷き目を閉じる。どうにせよ、いまは酷く、眠い。

 そんな少女を、リオトはなにか物悲しげに、どこか懐かしげに、曰く泣きそうな顔で見つめる。優しく優しくその髪を撫ぜる。


「おやすみ、クラーテ。よい夢を」


 

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