水底の静寂に溺れる 2
「はぁん。なんか、おれの知らんところで色々と話が進んでんじゃねェか」
とりあえず湖の呪詛のことを話し、笑い続けるベルに解呪を頼んだ。
それから事の次第を三人からきっちり聞き取り、ようやく殺気立っていた理由を把握する。
とりあえず、まず話べきは、ジゥか。
「ぅぅ、ごめんなさい、お兄さん……」
「いや、謝ることはねェけど。でもなんていうかな、うん、なんか」
言葉を選ぶのは難しい。
彼女を悲しませたくはないが、事実本音はジゥの要望に沿うものではない。どう言葉を繕ったとしても、悲しませてしまうことだろう。
シノギはだから、いっそ率直に真っすぐに言った。
「悪ィけど、おれァ、ここに留まることはできねェ」
「っ。そう、だよ……ね」
酷く悲し気に、けれどその表情を必死に隠すようにして、ジゥは無理矢理に納得しようとする。
その悲壮さに、シノギは焦って否を繰り返す。
「いやいや、違う違う。ジゥがここから離れられないのと似て、おれァ一つ所に留まってたら死ぬんだわ」
「えっ、そうなの!」
「まあ、そういう呪いだな」
大雑把に言うが嘘ではない。
郵便屋の呪いは、郵便屋である限り彼を一所には収めてはおかない。
「それにな、ジゥ」
「うっ、うん」
まさか命にかかわることとは露も思わず、ひとつ間違えていればシノギを殺していたと知り、ジゥは酷く怯えていた。
そんな彼女にシノギは一切の非難もなく、ただ純粋に気遣ってひとつ勘違いを訂正する。
「ジゥはおれが優しくしてくれたって言うけど、別におれなんか優しくねェよ。このくらい、普通だ。ジゥが今まで会って来た奴らのほうが恩知らずのダメ野郎どもだったんだ」
「そんなこと……」
「ある。
ジゥは狭い視野でおれをほめてくれてるだけだ。それはおれにとって光栄だけど、実際は騙くらかしてるみたいなもんで。もっと広い世界を、もっと沢山の他人を、知ったほうがいい。そしたら、おれなんかどうでもいいくらいのダメ野郎だってのがわかるさ」
「……でも」
シノギはそう言うけれど、実際問題として。
「でもジゥは、ここから離れられないから……せかいは、この湖だけだから」
「いんや、ジゥ。ジゥがここから離れられない理由はもうわかった。ここから
「え」
目を丸くするジゥは可愛らしいが、ここでは一端置いておく。
すぐに横の銀髪の方の童女に目を向ける。
「で、ベル」
「なんじゃ」
「ジゥは、『
「うむ、まず間違いなかろ」
「? あんへるってなぁに?」
問いに、シノギは頭の中の知識を整理してから返答する。
シノギだって、まさか『
「ああ、えっとな。まずな、神遺物ってのは強大な力をもってる」
「うん」
「んで、その強さ故に稀に、ごくごく稀に、なんらかの要因でもって意志を得ることがあるらしい。魂を、得る事例がある、らしい」
らしい、らしいと繰り返すのは半信半疑であるがため。
そういう文面を書物で読みはしたけど、信じられないと――今まではそう思っていた。
「そんで、その中でも『
無論、稀の稀の稀の上に、偶然が重なり合ってようやっとありうる、まずありえないと断じるべき異常事態である。
存在そのものが奇跡的、不可能と紙一重の神がかり的な、神ならぬ小さな神。半神ならぬ――付喪神。
「わしもはじめて見たわい」
「俺も初見だな」
「ていうか、おれは本の上で読んだだけで、伝説上の存在とかおとぎ話だと思ってたわ」
世界中を旅して回る郵便屋でさえ伝説上と思われ、勇者や魔王といった上位者ですら噂にも聞かない。おそらく神々でさえも、ほとんどの者が理論上の可能性でしか知らない。
それほどまでに希少的で神秘的――神々の想像をも超えた、最も恐れた末路の象徴である。
「じゃあ、ジゥは、
今更自分が人間であろうなどとは考えていなかったが、その正体を知って驚愕しないではいられない。事実を突きつけられて衝撃を受けないではいられない。
シノギはジゥの呟きには返さず、ただ頭を撫でてやる。
驚いて顔を向ける蒼い童女に、無言のままに笑ってやる。
それだけだけど、ジゥはシノギの言いたいことを理解できたような気がした。安心して、話の続きを促すことができた。
「そんで、ここらへんに存在する神遺物っていうと、竜に飲まれ、湖に沈んだっていう雨乞いの神遺物『
「竜が死したことで、
「それがどういう経緯を経てか不明だが、彼女を生み出した――君はそこらへん、記憶はないのかい?」
「んーん、ないよ」
素直に首を横に振る。
シノギもそこは聞いていたこと、もう少し踏み込んで問い。
「じゃあよ、ジゥ、記憶があるのはいつからだ?」
「えっと……二年くらい、前かな?」
「よし、わかった。ベル」
「なんじゃ」
困った時の魔王サマ。シノギはあっさりと無理難題をベルへと頼み込む。
「あんた、確か記憶読み取る術あったよな、あれで二年前以前の記憶を見てみろよ」
「む。いや、あれは一応、禁術なのじゃが」
魔術師としてできるだけ使わないでいたいのだけど。
郵便屋さんは聞きゃしない。
「かたいこと言うなやい。前も使ってたじゃん。それとも後遺症とかあんのか? 魔王サマの術なのに?」
「たわけ、そんなわけがなかろう。ただちとプライベート完全無視するだけじゃ」
「いや、それも割とよろしくない」
賛成も反対もできないで沈黙していたリオトも思わず突っ込む。
「こんな時にそんな行儀いいこと言ってられるか。ジゥ、いいか?」
「? ジゥの覚えてないことを、読み取るの?」
「そうそう」
「すごい、そんなことできるんだぁ。いいよー」
ものすごく軽く返答する。
シノギの申し出であったから、というのもあろうが、彼女も彼女自身のことを知りたいのだ。
当人が了承するのならば、こちらでなんと言うのも筋違い。肩を落として観念する。
「仕方がないのぅ」
ちょいちょいと手招き。
ジゥを近寄らせ、とんとその綺麗な額に指をあてる。
「では――『
すると魔術法陣が展開。その閲覧範囲を指定して潜り込む。
ジゥすら覚えていないジゥの記憶にアクセスし、その内容を掌握して知覚して――
「……ち」
なぜか舌打ちが、ベルの淑やかな口元から漏れ出た。
「あん? どうしたよ」
「胸糞悪いものが見えただけじゃよ」
吐き捨てるように言って、ベルは術を終了。見届けるべき記憶の閲覧は終えた。
一息つけば三対の瞳が興味津々で見つめてくるのに気づく。ベルは焦らすように手で制し、そしてジゥだけ見遣る。覚悟を確認するように問いただす。
「して蒼娘よ、言うた通り、割と腹立つ記憶であったが……それでも聞くかの」
「きくよ!」
真っ直ぐ真摯な即答に、ベルはでは是非もなしと口を開く。
別段、あまりベルがジゥへと気遣う理由もないのだから。
「まず、おぬしの本当の名はジゥリルファという。ジゥリルファ・レインじゃ」
「ほんとうの?」
「そりゃどういう意味でい」
「む、本当の名というか、前身……いや前世かの?」
「前世ぇ?」
とんでもワードが飛び出してシノギはのけぞる。
先ほどからひっきりなしに信じられないワードが飛び交って、もうなんだか笑えてくる。
構わず続ける。
「随分と昔、この湖は呪いによって常に荒れ狂っておったそうじゃ」
竜の怒りによって遺された強力な呪詛、それが
この湖にあるような触れるだけで命にかかわる水が、雨となって降り注いだ。嵐が居座って吹き荒れ、無数の落雷が辺りを焼いた。
しかも、その災害範囲は年々広がって――幾つかの村々が滅びの危機に陥ってしまったらしい。
「ああ、あったな、そんな話も。でもなんか、しばらく前に不意に止まったって聞いたが……そういやどうして止まったんだ?」
「生け贄じゃよ」
「なっ」
事も無げにあっさりと、その残酷を告げる。
リオトはその容認しがたい現実に顔色を歪め、しかしもはや終わったこと。そして、結果として嵐が止んだということは、多くが救われたことでもあり、一概に否定はしがたい。
「ある村の巫女――ジゥリルファ・レインが湖に身を投げ、底に眠る
「停止を要求って……そんなことできんのか」
「もはや担い手のない
不可能ではない。
竜の死に際の強烈な遺念に、人間の魂で真っ向挑んで意志力の勝負で勝つ。その上、呪詛で満ちた湖に浸かって、苦痛に苛まされながら――そう、不可能ではない。ただ不可能に等しいだけだ。
だが成し遂げた。
「凄い、人だったんだな……」
「うむ、壮烈なる魂、凛然たる意志、掛け替えのない思いやり。それらがあった才女であったのじゃろうよ」
「んで、もしかして、そいつが停止は成功して……」
「ジゥは、死んでるの?」
誤魔化すこともできない。
ベルは首肯する。ジゥリルファという生け贄の少女は確かにその時、命を落としたと。
「死して、そしてその魂が一部、
「じゃあ、持ってる記憶はかつてのジゥリルファという少女のもの」
「であろうな。ゆえにこそ、自分の名を覚えておったのであろう、一部だけじゃがの」
ジゥリルファ――ジゥ。
シノギの感じたチグハグ、経験がないのに知識だけはあったのはそのためだ。名前と同じく、知識に関しても一部を欠損してしまっていたのだ。
ああ、とそれでシノギは思いつく。
ジゥのそのお洒落な異装にどこか既視感があると思ったが、それはいつか見た巫女装束に似ているのだ。
高潔なる巫女の少女――おそらくその外見や服装、性格に至るまで、かつて前世であった彼女のそれを受け継いでいるのだろう。
「いろいろと謎が解けたな。兎にも角にも、ジゥは『
「本体である
「ならば逆に、
そこまでの事実と推測を踏まえ、シノギは改めてジゥに向き直る。
真っ直ぐと目を見て、目線を合わせ、優しく語り掛ける。
「ジゥ。ジゥは、ここから出たいか? 広い世界を、見てみたいか?」
「うん、見たい……」
すぐに答えてから、なにか言葉に詰まって。
それでも無理矢理に言葉にしようと喉を震わせる。静寂に包まれていた、ジゥの思いの丈をぶつける。
「だってもう寂しいのはいやだよ。ひとりは、いやだ……」
「ああ。そうだよな。じゃあ、おれたちがここから出してやる」
言って、シノギは抜刀。
その魔刀は夜空の月明かりに照らされて妖しく輝く。
「んじゃ、ジゥ。ちょいこの魔刀の刀身に触れてくれ」
「えっと、こう?」
「ん、よし、もういいぞ。たぶんこれで――」
ジゥは
ならば、そのジゥに縁が結ばれるということは、同時に『
あとは『縁』が
シノギにしか感知できぬ見えぬ縁故。儚くも確かに実在するその糸を手繰って手繰って。
「見つけた。やっぱ水底か……。まあなんにせ、これでいつでも辿れるぜ」
「あとは呪われた水をどうするかか」
「当然そりゃベル、なんとかしてくれ」
「また無茶ぶりじゃのぅ」
「ジゥがなんとかしようか?」
「え」
まったくわしを頼りすぎじゃろ、困ったなぁ。という体で、面倒そうにしながらもその実、頼られることを喜ぶベルの表情が硬直する。
ジゥは気づかず、太陽の笑顔であっさりと。
「水、どければいいんだよね」
「あっ、ああ。できるのか?」
「簡単だよー」
言うやいなや、ジゥは膝を折ってしゃがみ込む。
両手を伸ばし、ぐっと力を込めて――
「おりゃー」
ぐいっと膝を伸ばし、立ち上がり、両手を掲げる。まるで万歳のように。
それに伴い――
「! なんじゃこりゃ!」
唯一、ジゥの凄まじい能力を直視していなかったシノギだけが度肝を抜かれる。
――湖が浮かび上がっていた。
盆地であった土地を湖へと変えたその大質量の水全てが持ち上がり、ふわりふわりと水中の気泡のように一塊となって浮遊している。
それは実に馬鹿げた光景であり、戯画的なほど夢幻染みた風景だった。
水の容積は一体どれほどか。水量は重量は、どれほどなのだろうか。
そして、それを浮き上げた力は魔術的な念動力として、それに費やされた魔力――神威は一体どれほどになるのか。
それはもしかしたら、魔王や勇者と同等の力なのかもしれなかった。
「お兄さん、これでいい?」
無邪気に笑うジゥに、シノギは脱力する。
魔王や勇者と同等――だったら、ふん、いつも通りだ。
シノギは木っ端な郵便屋。
けれど、魔王と勇者と共に歩む同胞だ。今更、強さという概念に怯えるような尋常ではない。
そいつが、その個人が気に入っている。ならば強さなんてのは二の次で、強かろうが弱かろうが無関係に――手を繋ぐだけだ。
「おう、ありがとよ」
「うん!」
「じゃあちっとこのままでいてくれ。あとは――結べ『縁』」
『縁』は羅針盤。道行きを指示して連れて行ってくれる先行者。
結びつこうと飛来する『縁』の引力を制御し、シノギの歩調に合わせる。水を失った湖の底を歩いて渡る。
さすがに深く広い湖、歩いて進行するにしても結構な時間がかかる。東の空が徐々に白んできて――見つける。
それは古びれた壺だった。
けれど神威を存分に放ち、呪詛をもまき散らす呪われた
「これが、ジゥなの?」
「まあジゥそのものってより、その太源。いや、電源とかそんな感じか?」
既に意志――魂はジゥの形で離脱しており、別個に形成されている。
けれど三馬鹿を繋げる奇縁のようにして、そのエネルギーを供給する生命線のようなものが繋がっている。だからこそ、本体と離れすぎると供給が絶たれて意識を失う。
「あれ? もしかしてジゥって、神遺物を持っててこそ本領なのか? 湖もちあげるのも余力でやってる感じか?」
まさに小さな神――
言っている間に観察を終えたベルが眉を曇らせる。
「しかし思ったよりも呪詛が酷いようじゃな」
「
「なんでい、問題あんのか」
「うむ、ちと待て」
ベルがその
「やはり、予想はしておったが強力じゃな。水に溶け、皮膚接触だけで人の命を奪うレベルであったからのぅ」
「そういや、そうか。なんでい、本体が呪われてるとなんか支障でるのか」
「わからん。前例がなさすぎて、どうなるかなぞ推測もつかん」
まず『
呪われた
「呪いに浸食されてジゥまで、なんてことはねェよな?」
「可能な限りは浄化するが……」
「……」
話し合っている横合いで、、無言のジゥがなにやら誘われるようにとことこと
すぐに気取ってシノギが名を呼ぶ。
「ジゥ?」
「あっ、その……なんだかよばれてる気がして……」
「呼ばれるじゃと?
「うん。この子が、ジゥを……」
言いながら、その袖で覆われた手のひらが伸びて、
「あっ」
「どっ、どうしたよ、大丈夫かよ」
「……」
答えず、ジゥはぼうっとしたまま。
すこし不安に襲われて、シノギが手を伸ばすと――肩に触れる前に、ジゥは再起動を果たす。
ぽつり、何事か呟いた。
「あぁ、そうか。そうだったね。うん……大丈夫だよ」
そこで、いやに断定的にジゥが言った。
不思議なほど
「大丈夫、わかるよ。この子も苦しんでる。ワタシが癒してあげないと」
「……ジゥ、それは」
「お兄さん、ありがとう」
笑顔で頭を下げる。
ベルとリオトにも、同じく。
「お兄さんのお友達のふたりも、ありがとう。あと、さっきはごめんなさい」
「おっ、おい、ジゥ!」
なにか。
なにか途轍もなく嫌な予感がする。
これ以上ジゥに言葉を続けさせたら、取り返しのつかなくなるような気がして仕方がない。
けれど、ジゥは待ってくれない。
「大丈夫。ちょっとだけ眠るだけだよ。この子にかけられた呪いをワタシが浄化しつくすまでのちょっとの間だけ」
それはつまり、
分離していた意志を
確かにその方法ならばおそらく呪詛は完全に排除できる。奇縁で繋がる魔術の王がそう認めている。
けれど、それは――
「ジゥ、待て。待ってくれ。ほか、他に方法はねェのか?」
それはすなわち、ジゥが目覚めぬ眠りに就くのとなにほど違うという?
自我を溶かして
シノギの深刻なほど震えた声音での制止に、ジゥはやっぱり笑みを浮かべる。太陽みたいだと、何度でもシノギが思うその笑みを。
「うん。ワタシが自由になるには、この子が必要なのはわかった。けど、この子は今、苦しんでるから、それをワタシがなんとかしてあげないと動けないの――なによりも、それが、ワタシの使命だから」
「使命って、なんだよ、わかんねェよ」
「……おぬし、まさか」
そこでベルが察する。
どこか変わった雰囲気、なにか生じた違和感。それは気のせいなどではなく。
ジゥは頷く、儚げな風に。
「うん、ちょっとだけね、入ってきたの」
「? どういう意味でい」
こういう説明事は本人よりもベルに。
ちらと見遣ればつらつらと。
「おそらくじゃが、
「記憶が? じゃあ……」
「んーん、ワタシはワタシだよ、ジゥだよ」
そこは譲らない。そこは揺るがない。
断固たる口調に、シノギは口を噤む。
だから続く言葉を持つのはジゥだけで。
「でも、思い出したの。
それは、きっと見えない縁故が繋がる
魂の欠片を継承した彼女にしか、わからないこと。
「心配しないで。ほんとうに、ちょっと眠るだけだから」
「っ」
――失った記憶を取り戻すと、人はちょうど記憶を失った時の行動をとろうとするという。
これは、それの一種なのかもしなかった。
シノギは所詮は部外者で、そこになんと言うのも意味がない。
それでも未練がましく舌を回してしまうのは、シノギの往生際の悪さ。
「でも、でもよォ。おれァ、ジゥをここから出してやるって言って……それの結果がこれじゃあ、あんまりじゃねェか」
「そんなことないよ」
ゆっくりと、ジゥは首を横に振る。
そんなことないと繰り返す。
「お兄さんが、ワタシをこの子と再会させてくれた。思い出す切っ掛けをくれた。だから、ワタシはやらなきゃいけないことがわかったんだよ」
「おれはジゥを助けてェんだ、その神遺物にゃ興味もねェ」
「ワタシを助けるってことは、この子を助けるってことだよ。だって、ワタシとこの子には、お兄さんが言ってた、縁っていうのが結ばれてるの」
「っ」
――縁ってのは、あると思うぜ。
それは、シノギが教えた言葉。
「目に見えないけど、ワタシとこの子はずっとつながってた。ワタシを助けてくれてた。だったら、今度はワタシの番。お兄さんだって、そのお友達が助けてって言ったら、助けるでしょ?」
「そりゃ……」背に感じるふたりの視線を背負って「そうだがよ」
「じゃあ、おんなじだよ」
そんなことを笑顔で言われてしまうと、もう言葉もない。
無力に歯噛みして、その笑顔を網膜に焼き付けるしか、できやしない。
何もできない。何もできない。
ああ、無力感は魂を締め付けて涙が零れそうなくらいに、痛い。
俯くシノギに、そっとジゥの手が触れた。袖はめくれて、その小さな手で、シノギのそれを包み込む。
「お兄さん、泣かないで。笑ってよ」
泣いてなんかいない。
決して、泣いてなんかいないとも。
事実、涙は零れていないけれど、ジゥにとっては同じこと。そんな悲し気なシノギは見ていられない。
だから、こんなことを言う。
「お兄さんが一粒涙を零すたびに、ワタシの目覚めが少し遅くなっちゃうよ。
お兄さんがにっこり笑ってくれるたびに、ワタシの目覚めが少し縮まるよ」
「そりゃ……」
嘘であろうと、断ずることはできなかった。
そもそも、ジゥが嘘をつくとも、思えない。
ならばそれは、きっと彼女の誓いなのだろう。そうしてみせると自身に課した、ジゥだけの誓い。
シノギは少女の手のひらから命の熱を感じながら、必死になって震える舌を動かす。
「あぁ、そうだな、わかったよジゥ。ジゥが早く目覚めるために、おれァ沢山沢山笑って過ごすよ」
「うん、お兄さんは笑ってたほうが絶対カッコいいもん!」
断言しつつも、シノギはやっぱり顔を持ち上げられないでいる。
このまま面を上げては、思わず泣いてしまうかもしれないと思ったからだ。かといって、ここでグラスをつけて誤魔化すこともできなくて、なんとか笑おうと四苦八苦している内に。
ぎゅっと、握るジゥの手に力がこもる。
「ね、お兄さん」
「あぁ……」
しゃがれた声で、シノギは応える。
「次に目が覚めたら、今度はワタシがお兄さんに会いにいくね」
「あぁ、待ってるよ」
「そしたら。うん。またいっぱいお話しようね。一緒に旅とかも、したいし」
「あぁ、なんでも言ってくれ。全部、できるだけ、やるからよ」
「ほんとに? うれしいなぁ。約束だよ?」
「あぁ、約束だ。だから、ジゥも絶対負けんなよ。寝過ごしたら、おれが叩き起こすからな?」
絶対に、絶対に、絶対に。
うわ言のように繰り返す都度、三度。
シノギは、そこでぐっと顔を持ち上げる。ジゥの顔を、その目を見つめる。
いつものように強がって、精一杯の見栄を張り、意地にもかけて笑ってみせる。
「じゃあな、ジゥ。おやすみ、いい夢見ろよ」
「うん、おやすみ、お兄さん。また夢の後にね」
そして。
ぱしゃりとあっけなく、ジゥの姿は泡となって溶け消えた。
後には一陣の風が頬を撫ぜるのみで、水を失った湖にはもう静寂しか残っていない。
切ないほどの静けさは無情。暖かな陽だまりはどこにもなくて、喪失感だけが鮮明に魂に刻み込まれる。
それでも懸命にその笑みだけは崩さずに、シノギは堪えるように夜明けの空を仰ぐのだった。
――ああ青天の美しさと輝く朝日は、少女の蒼さによく似ている。
――水底の静寂に溺れる 了
「――って、あ! やっべ! 空から湖が降ってくるぅ!」
「走れ! 中央から落ちるのが幸いだが、急がないと飲まれるぞ!」
「シノギ、わしを背負えー!」
「うおー! ジゥ起きてー! 助けてー!」
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