水底の静寂に溺れる 1
わたしがこの湖に身を投げれば、あなたは満足してくださるのでしょうか。
わたしがあなたに添い遂げれば、あなたは静かに眠ってくださるでしょうか。
言葉も通じぬわたしとあなた。
交わりひとつになったとしても、きっと理解し合うことさえできないでしょう。
けれどせめて、わたしが生きた証をください。
どうか嵐よ、鎮まり給え。
――生け贄となった少女の祈り
静寂に埋め尽くされていた。
音はなく、風はなく、ただ光だけが弱々しく差し込んでいる。
そこには誰もいない。いのちの痕跡すら見当たらない。虚無的なほどに、なにもない。
岩と砂と、そして水だけの不毛すぎる地。
深い水底であった
長い川の行き着く先のひとつ。激しかった流れが終わり、全て停滞した終着点。
隙間なく大量の水で満ちているというのに、そこは枯れ果てたような荒涼たるあり様だ。
寂しく、うらぶれ、もはや死んだ土地。
――そこに、ひとり。
「…………!」
ごぽりと苦しげに泡を吐き出す男が溺れている。
静寂の理を乱す騒がしき
◇
三馬鹿一行がある橋を渡っている最中、シノギは溺れる少年を見つけてしまった。
流れの早い川だった。今にも力尽きて沈んでいきそうな少年だった。
躊躇いは、なかったと思う。
同時に飛び出そうとしたリオトを制し、シノギは川へと飛び込んだ。
魔刀『
けれど想定外。
川の激流は並のものではなかった。
溺れる少年をなんとか岸にまで放り投げて、そのさいに岩に脚をぶつけたのも最悪だった。
なんとか沈まないように脱力しながら流されるので精一杯。
シノギは魔刀『縁』を使う余地もなくどこへともなく運ばれていってしまったのだった。
そしてたどり着いたのは凪いだ水底。行き止まりのように終わった沈黙の湖。
先ほどぶつけた脚が思いのほか悪く、また激流の洗礼は大きく体力を奪っていた。
身動きが、ほとんどとれない。
もがくように身をよじっても、浮かび上がることはない。なぜか、満ちる水は纏わりつくように重く、シノギを離そうとしない。
呼吸も苦しく、正常な判断さえ覚束ない。
なによりも、なにか奇妙な倦怠感が全身を浸食して蝕んでいる。
死んでたまるかと魂は屈せず燃えるも、体のほうはいうことをきかず諦観してしまったようにさえ感じられた。
ごぽり、ごぽりと。
口内から空気が逃げていく。命を繋ぐ見えない大切なものがこぼれ落ちていく。
常ならば欲さずとも溢れかえった空気さえ、この静寂の世界には存在しない。おぞましいほど、
世界そのものが総動員でシノギを否定していた。
ごぽり、ごぽりと。
命は削れて、掴めるものはなにもなくて。
徐々に、シノギの悶えるようなもがく仕草も勢いをなくす。この静寂に包まれて、シノギまでも静かになっていく。静止していく。
必死に水面に伸ばしていた手も、やがてその力を失って。肘が曲がる。指が折れる。
瞳が、閉ざされる。
遂には彼の死に悲しむ誰からの顔が瞼の裏によぎって、
「……」
ごぽりと――謝罪のように最後の気体を手放してしまう。
瞳を閉じかける刹那――蒼く美しいなにかを垣間見た気がしたが。
すぐに意識を失ってなにもわからなくなった。
◇
目が開く。
そんな当たり前の事実に、シノギは驚天動地と驚いた。
さすがに、今回ばかりは駄目かと思った。
ありありと死というものを実感した。迫真なほど命の終わりを体感した。消えゆく意識の狭間に走馬灯染みたものさえ垣間見たというのに。
目覚めた。生きている。どういうことか。
とりあえず起き上がろうとして、できない。
「あっ、おきた!」
シノギの仰向けの腹に、ちょこんと幼女が座っていた。
蒼い幼女だった。
さらさらと流れるような艶髪も、くりくりと大きな瞳も、着用するフード帽つきの衣服も、すべて蒼い。
ピッチリ身に纏うタイプのノースリーブワンピースは丈が短く、代わりにソックスが太ももまで長くて、靴は履いていない。手の平を丸ごと覆い隠すほど長い袖は、袂が広くワンピースとは別に装着している
女子のお洒落というのは、どうにも面倒で困難である。だからこそ愛らしいとも言えるのだから、男の身として文句などないのだが。
ともあれ、お洒落な蒼い幼女である。
幼女は笑う。まばゆい太陽のように。
「お兄さん、大丈夫?」
「あっ、ああ。生きてるが……あんたは誰だ」
とりあえず
不躾で性急な問いかけにも幼女はやっぱり嬉しそうにしている。言葉を交わすことだけでも、無性に楽しそうだった。
「ジゥ! ジゥはね、ジゥっていうの!」
「ジゥ。おれはサカガキ・シノギってんだが……」
「シノギだね、覚えたよお兄さん」
覚えても呼び方はお兄さんのままなのか。
突っ込みが湧き上がるも、それよりも聞きたいことは別に山ほどある。
「おれは、なんで生きてるんだ。あんたが助けてくれたのか?」
意識を失う刹那に、確かにこんな美しい蒼を見た覚えがないでもない。まさかそれがこの幼女だったのだろうか。
けれどぷいっと、ジゥは顔を背ける。
「ジゥ」
「は?」
「ジゥ、ジゥ!」
「あっ、ああ。すまん。助けてくれたのはジゥなのか?」
「うん!」
名を呼べば、ジゥは元気いっぱいでうなずいた。
たまに名で呼ばれないと答えない偏屈な輩はいるが、ジゥの幼さからすれば別段に不快感もない。苦笑して付き合うくらいの度量はシノギにもある。
「そりゃ助かった。ありがとな」
「いいよ! 人助けは当たり前だもん」
衒いなくストレートにそれを言えるのは、紛れもない幼女の善性の証か。
シノギはそういう真っすぐな善人が少し苦手ではあったが、相手が子供となればそうでもない。ただ微笑ましいと思うだけだ。
快い回答に調子を得て、シノギは続けて問いを並べる。
「それで、じゃあここはどこでい」
「
「
思い出す。
この辺りを行くに備えて得ていた情報に、そんな名称があった。
そこははじめ、ただの盆地だった。
窪地の底にある小さな村だった。
だがある時、『
とはいえ、その海逆天柱の神竜はとっくの昔に村の勇士や旅の武芸者たちによって討ち滅ぼされたという。
悪しき竜は勇気ある人々によって打倒されましたとさ、めでたしめでたし。
問題は――その竜が残した呪詛である。
死した竜の骸より、その魔力が土地全域へと汚染していき雨を降らしたという。それも沈んだ竜の亡骸から降り続く雨。地から天へと降りしきる豪雨である。
『
その湖に満ちる水分全ては呪いによって生物を拒む。魚一匹住まうことはできず、浸かった者から命を奪うとさえ言われている。
挙句、満ちた呪いの湖はさらに悪影響を広げ、周辺地域には常に嵐が吹き荒れた。接触するだけで命を奪うそれをまき散らすような豪雨を伴ってだ。
竜の死に際の呪詛と
では今の凪いだ湖はどうしたわけか。
実はある時、全く因果不明に災いが終息したという。
呪いが沈静化したか、誰かがなにかをしたのか、
本当に、誰にも知れぬ内に、気づけば嵐はやんでいた。
とはいえ湖に浸透する呪毒性は衰えてはおらず、浸かった誰もを呪い殺すのだが。
「って、おい、じゃあおれやべェじゃん!」
「うん。ジゥが浄化しなかったら、お兄さん死んでたねー」
くすくすとジゥは軽く言うが、だいぶ甚大な被害である。
というか現在、指を動かすのも億劫でしんどいのはその呪いの水に浸かったせいか。
ジゥが腹に乗っかかってるせいで動けないのではなく、呪いの後遺症で身動きができないようだ。
「いや、それはともかくジゥさん、どいてくれよ」
「えー」
「なにがえーだよ、重い――わけでもないけど」むしろ軽すぎる。「淑女のするおこないじゃないぞ」
「うーん、そっか。じゃあどくね」
諭されればちゃんと人の話を聞いてくれる。素直でいい子だ。
シノギがなんとなくその顔を眺めていると、ジゥはぺかーと笑う。純真無垢な太陽のような笑みだと思った。
「なぁに、お兄さん」
「あぁ、いや」
見とれていたと、そんな風に返すのは酷く気恥ずかしい。
誤魔化すように他に問う。
「あんた――あぁ、ジゥは、どうしてここに?」
こんな呪われた湖の畔に幼女がひとりぽつねん。
シノギでなくとも疑念を抱くだろう。どうした理由があってこんなところを訪れ、湖に溺れる間抜けを発見したという。
ジゥは明るく楽しく元気良く。
「住んでるから!」
「は? 呪われた湖に? 誰と?」
「ひとりで!」
いや待て。
こんな幼い子供がひとりで呪いの湖の傍で暮らすなど不可能であろう。
確かに呪いの影響で魔物は近寄らないかもしれないが、食事はどうする。その他諸々に生存のためのあらゆるものをどうする。
そもそも、こんなところにどうして住まうという。
「なんでかな、気づいたらここにいたんだよ。それでね、あんまり湖から離れられないの。離れると寝ちゃうんだ」
「……ここにいる前の記憶とかは」
「ないよ!」
「えぇ……」
なにそれ怖い。
考えられる可能性としては、捨て子かなにかか。
なにか特殊な事情で捨てられたのかもしれない。食い扶持を減らすためとか、単なる育児放棄とか――恐ろしい異能を備えて生まれてしまったとか。
そして捨てた後に追走できぬように、なんらかの移動制限の魔術を施した、とか。
いや、考えるだに胸糞悪い。
「? えへへ」
思考しながら見つめていると、ジゥはまたぺかー、と笑った。
悲劇的な境遇においてなお、悲壮感のない明朗な笑顔だった。まるで、水底から見上げてさえ美しく輝く太陽のような、そんな暖かさ。
こんなに愛らしい子を捨てる親がいるはずがない。シノギはそう信じたかった。
なにかどうしようもない理由があったに違いない。なにか少女の救いとなる結末が待っているに決まっている。
そうでなければならない。そうでなければ、シノギがこそ、ジゥになにかをしてやりたいと思う。
命の、恩人なのだから。
「まあ、それ以前におれが生き残らねェとな。ジゥ、おれの呪いってのは、どうでい。すぐにも解けそうか?」
「んー。命にかかわる部分はもう大丈夫だけど、動くのはもうちょっとかかるね。ぐたいてきには三日くらい」
三! とジゥは腕を突き出す。
おそらく指を三本立てているのだろうが、袖がかぶってしまってよくわからない。
ともあれ三日である。
シノギはすこし困った顔になる。
「そんなにか」
「ごめんね、ジゥ、術の制御はまだニガテなの」
「いや、謝ることじゃねェさ」
「手早くやろうとしたらお兄さんの血液ぜんぶ真水にしちゃうかも……」
「よし! 丁寧にお願いします!」
それは確実に死ねるだろう。
拙速よりも安全のほうが大事である。
「しっかし、しばらく身動きもできねェのか……どうすっかな」
食事やら排泄やら。
考えることは幾つかある。
というかあのふたりはまだ来てねェのか。はよ発見してくれや。
リオトなら必死になって探し出そうとしてくれるはず。
ベルさえ到着してくれれば、呪いなんぞあっさり解いてくれるはず。
そう考えれば、三日もかからない気もする。一日くらいなら、寝っ転がってても問題ないかな。
シノギは期待を前提に、なんだか脱力する。深刻にならなくてもいいのではと気楽に考え出す。
それに、指先は、動くな。
よし。
「ジゥ、ちょい、おれの魔刀くれ」
「?」
「腰元に刀あんだろ、それ、おれの手に握らせてくれぃ」
「あぁ、うん、いいよー」
当たり前の話ではあるが、基本的に魔道具は担い手のみが行使できるもの。その担い手としての条件は単純で、その魔道具の特定部位に触れていることである。
魔刀で言えば、それは柄。
刀身などでは斬りつけた際に敵が逆利用できてしまう。担い手たるが握るは柄であろうから。
ジゥは言われた通りに、いそいそとシノギの魔刀を引き抜き、ちょっとその刀身の眩さに感心してから、シノギに渡す。
「うし、ありがとよ」
振るえはしないが、握りしめるくらいはできる。そして、それだけできれば魔刀の魔刀たる効力は扱える。
基本的にシノギが帯刀している一刀は。
「我が六の魔刀が一刀――『
ゆらりと、魔刀からなにかが落ちた。仕舞われていたものが、掴まれ外に放り現れた。
それは、貯蔵していた非常食である。ビスケットである。
シノギの荷物は全てこの『
となると逆に、リオトとベルの食料がないことになるのだが、まあそこは早く見つけてくれということで。
ジゥはシノギの腹に落ちたビスケットを不思議そうに見遣って、指先でつつく。
「? なぁに、これ?」
なんとなし予想はしていたが。やはり知らない。世情に疎いとか、そういうレベルではない。
どうにもなにかキナ臭い。
が、そんな懸念はおくびにもださず、シノギは笑って答えてやる。
「ビスケットっつう食いもん。食べるか?」
「あ、うん!」
言われて嬉しそうに、紙に包まれたそれを一枚とりだす。やっぱり、その手は袖に覆われているけど、器用につまむ。
じっくりとその蒼い大きな瞳で観察し、匂いをかぎ、
すると。
「ふわぁ」
ジゥは実に嬉しそうな、そんな声を上げた。
そしてすぐに残った分のビスケットを口に放り込み、もぐもぐと心地よさそうに食してしまう。
「うまいか?」
「うん!」
「そりゃよかった。まだあるから食っていいぞ。ああ、でも、一枚くらいはおれにもくれ」
「あ、うん。だいじょうぶ、ちゃんと半分こしようね」
にこにこしながら、ジゥは両手でまた一枚ずつつまむ。
一枚をシノギの口に持っていく。礼を言って口で受け取る。それを見届けてから、ジゥはもう片方のビスケットを食べる。
おいしそうに味わうジゥは、ふと、そこで奇妙な独り言を漏らす。
「たべもの、はしめて食べたけど、おいしいね」
「は?」
はじめて。
食べるのが、はじめて。
それは――比喩ではなく? 嘘でもなく? どういうことか。
「ジゥ……」
「ん、なぁに?」
既に三枚目を口にしているところ。
「ああ、口にものをいれながら喋っちゃいけません」
「そうなの? わかった」
ジゥは言われれば素直。すぐにかみ砕いてのみ込む。
それから、あーと口を開いて見せる。
「ごめんね、食べたよ。ほらほら」
「あー、うん、わかったから見せんでいい」
なぜだろう、少女の口腔内を覗くというのは非常に危うい気がする。
禁断なる艶やかさを覚える。健康で健全なのに、不健全で不道徳に感じるのはなにが故なのだろうか。
シノギは顔を背くこともできないので、目線だけをそらす。いやそこは目を閉じろよと、リオトが居たのならツッコミをいれただろうか。
ジゥは不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
「あー、いや。なんだ。ジゥはものを食ったこと、ないのか?」
「ないよ!」
隠し立てもせずあっけらかんと肯定する。
この子は、本当に、何も知らないのだろう。
いや、ならば、どうして食事をした際に感じるものが、「おいしい」という感覚がわかるのだ。食べたことがないのなら、味覚というものを知る機会はないはず。
なにか――チグハグ。
知識だけはあるということか。記憶喪失のような、経験だけがすっぽり抜けてはいるとか。それにしても、食さずに暮らしていけているのがまず生命としてズレている。
この幼女は、一体本当に何者なんだろうか。
「?」
だからと、恐れるわけではない。
不明に不思議はあっても、恐怖には至らない。ジゥを、嫌いになるなどありえない。
なぜ?
すこし話しただけ。まだ出会って間もない。およそ想像もつかぬなにか不穏を隠し持っているのはまず間違いない。
けれど、そんなことは関係がない。
命の恩人とか、幼げで寂しげな子だとか、素直で純粋でいい奴だとか、そういうこともあるけれど。
もっと単純。
シノギはこの少女のことが気に入った――それだけで理由としては事足りる。
信じる理由は、それで充分だ。
「ジゥ、すこし、話そうか」
「おはなし! しようしよう!」
◇
お兄さんは、とても優しい。
夜――空も湖も黒く染まり、星々の輝きだけが天地で瞬く。
ジゥは、夜が嫌いだった。
暗いせいで世界が見えなくなってつまらないし、寒いせいで寄り添うものがないと気づかされて心細くなる。
星の明かりや月の光が精一杯照らし出そうとするのにできない様が、なんだか悲しくなってしまうから。
だから、夜は嫌いだ。
そして今日また、夜が嫌いになった。
「お兄さん、寝ちゃった……」
ひとは夜には寝ないといけないらしい。それは、以前のひとたちもそうだった。夜が来たから、お兄さんも寝てしまった。それがすこし残念だった。
はじめてだったのだ。
こんなに沢山沢山、お話してくれて、笑いあってくれて――怖がらないでいてくれるひとというのは。
なぜだかわからないが、ジゥがお話していると、すぐに他のひとたちは怖がってしまうのだった。
こうしてこの湖に落っこちてしまうひとというのは稀にいて、ジゥはその全員を助け出すのだけど、いつも上手くいかない。
最初は感謝してくれるのに、徐々に恐れて、最後には逃げ出してしまう。
その度に、ジゥはまた悲しくなってしまうけれど、元気になってよかったと見送った。
けれど、お兄さんは違った。
いつまで経っても恐れることもなく、ただ笑って傍にいてくれた。
出会ってからほんの束の間の時間だ。他愛ないことしか語り合っていないし、お互いに知らないことはまだまだきっと沢山ある。
それでも、ジゥは酷く、彼に惹かれていた。
それは寂しがり屋の錯覚だろうか。ただひとこいしいで、近くにいたから誰でもいいとすり寄っただけなのか。
彼はそんな風に戸惑うジゥに言った。
「縁ってのは、あると思うぜ」
「縁って、なぁに?」
「つながりのことさ。目に見えないけど、きっとそこにある。おれとジゥをつないで巡り合わせてくれたもの。離れてたって切れやしない、死ぬまで断てないかかわり合い。そういうもん」
「つながり。切れない、つながり……」
「長い付き合い、深い付き合い。そういうのも大事だけど、一発で意気投合して一緒に旅することだってあるんだしよ。要は、おれとジゥはまだ会ってから間もないけど、それでも話して楽しいって気持ちは嘘じゃねェし、気に入ってるって気持ちも、やっぱり嘘なんかじゃねェはずさ」
そう言われて、ああとジゥは嘆息を零した。酷く腑に落ちて、妙にしっくりと来た。
自分は、ああ、彼だから惹かれたのだと。
彼の言う言葉に倣えば――きっと縁が結ばれていたのだ。
「お兄さんと出会うために、ずっとジゥは、ここで待ってたんだ……」
それはやっぱり思い込みかもしれないけれど。的外れの勘違いかもしれないけれど。
べつに、それでいいのだ。
今この時の気持ちが大事で、そう信じることが大切。
賢しげに気の迷いだなんだと冷めた考え方をしたって、そんなのただの予防線だ。違った時に、裏切られた時に、自分を慰めるだけの言い訳にすぎない。
ジゥは素直で素朴で、だからこそ愚直なまでに思うのだ。
もっとお話、したかったなぁ。
もっと一緒にいたいなぁ。
ずっと――離れたくないなぁ。
ひとりは、もういやだ、いやだよ、お兄さん……。
水底に溺れてしまったように――ジゥの本音は静寂に飲まれて音にもならない。
なんでもっと早く出会えなかったのだろう。どうしてすぐに別れてしまうことになるのだろう。
ひとのぬくもりを知ってしまえば、寂しいという感情を思い出さざるをえない。
沢山話せば、それが終わった後の静寂が恐ろしくなってしまう。
ジゥは無意識に、その手をシノギのそれと重ねていた。袖の下で、手と指先が絡まって、その暖かさを感じる。
どれだけそうしていただろうか……。
「……」
ふと、ジゥは立ち上がる。
シノギと話していた時とはまるで違う、無表情なままで、とことこと歩き出す。
一度だけ振り返り、寝こけるシノギを見やって、口を開いて、閉じる。結局、沈黙のまま、ジゥは湖から離れて行く。
少し歩いて、立ち止まる。
なにがあるわけでもない。不毛な土地、暗闇の空間。
けれど、ジゥは立ち尽くす。なにかを――待っている。
「……」
すぐに、それは現れる。
足音が、ふたりぶん。話し声は、男と女のそれ。
「こっちか、ティベルシア」
「うむ、間違いない。もうすぐじゃ」
魔術の明かりを伴って訪れたのは、リオトとベル――シノギの同行者たちである。
察するに夜になるまで探し歩いて、ようやくその痕跡を見つけて辿って、もうすぐ巡り合う。
だが、その手前にて、ジゥが待つ。立ちふさがる。
「ん」
「む」
夜闇を裂いて月光が少女の姿を照らし出す。
リオトとベルは待ち構えるジゥの姿を認め、怪訝そうに足を止める。魔術光の範囲を広げ、暗闇を払拭する。
こんなところに、どうしてこんなにも幼い子がいるのだろうか。疑問はそのまま、言葉に出た。
「君は、誰だい」
「ジゥ」
簡潔な返答。
短く素っ気ない、無機質な声だった。
「どうしてこんな夜更けにこんなところに――」
「いや、リオト、べつにそれはどうでもよかろ」
「大事だろ」
「いまは、それよりも大事なことがあるじゃろ。おい、そこの小娘、ここらで目つきの悪い男を見かけなんだか?」
びくりと。
ジゥの全身が震える。
その心当たりありといった風情には、リオトも目を細める。先の疑問よりも、確かにそれは彼らにとって重大事。
「もしかして、見かけたのかい。お願いだ、教えてくれ、彼は――シノギはどこにいるんだ。無事だよな」
「無事だよ」
「ではどこじゃ。案内せい」
とりあえず安堵しつつ、ベルは急いて焦って問い詰める。
対するジゥは、ひどく、悲しそうな顔つきになる。
「いや」
「え」
「ごめんなさい、いやだ。いやだよ」
「なんじゃと」
最初は。
最初は言った通り、呪いにやられたシノギを浄化してあげて、それで終わりにするつもりだった。
いつもみたいに、どうせまた嫌われると思っていたから。
でも。
「ジゥは、悪い子です。ひとりでいることにも耐えられない弱い子です。ごめんなさい、ごめんなさい」
「君は……なにを」
でも、シノギがとても優しいから。
離れたくなくなるくらいに楽しいから。
「お兄さんは、わたさない」
迎えに来たこのふたりさえいなくなれば――お兄さんはずっと一緒にいてくれるだろうか。
「お兄さんはわたさない! 帰ってよ!」
それはきっと、ずっとずっと静寂に隠されていた少女の本音。
押し殺し続けてきた寂しがり屋の願い。
「……」
「……」
リオトとベルは絶句してしまう。
いきなり、これはどういうことか。自分たちの知らないところで、あの目つきの悪い郵便屋はなにをしていたのだろうか。こんなにも幼い子に、なにをしたというのか。
「……まあ、シノギは結構、好かれやすいしな」
「特に奇矯な輩にの」
「それは翻って自虐にもとれるぞ」
「おぬしもな」
鬼気迫るほどの決意を漲らせるジゥにも、ふたりは割と気楽に話し込む。
なんというか、シノギのことだから、驚きはすれども意外とまでは思わないから。
言ったように、彼は奇妙な手合いを惹きつける。
「それで、おぬし、ああジゥというたかの――帰らんとわしらが言ったら、どうするのじゃ?」
「……帰ってもらうよ」
余裕気なベルの問いに、ジゥは静かに返す。実力行使を宣言する。
すっと、ジゥは袖に隠れた手を突き出す。
それだけで――雨が降り出す。
「なんっ」
「じゃと」
ざんざんと、土砂降りだ。
一瞬前まで晴れ晴れと月と星を眺めていられたはずなのに、もはや雨雲で覆われてしまって豪雨である。
それはとんでもない影響範囲、桁違いの魔術。
どれほど魔力を練り上げればこんな道理を無視した真似が叶うという。晴れた空模様を一瞬で雨にするだなんて、これは。
「ばかな……これは、天候操作の魔術か?」
寸刻以前まであったはずの余裕は、ふたりから剥ぎ取られている。
勇者と魔王をして、天候操作の魔術は驚異であり、それをああも容易くあっさり仕出かすのは背筋が凍る。
そもそも天候操作などと、それは魔術師としてできうる最上位に難関の魔術といえる。ひとりやふたりで為すような類ではなく、十人以上で合同で執行するような儀式魔術の一種である。
そんな大規模な魔術を一瞬で、しかも詠唱もなく集中した素振りもなくあっさりと行使するなど――ありえない。
それは、魔王や勇者といった理外の領域。半神に匹敵する魔術的な素質だ。
だが、魔術の王が戦慄するのはそんな些末なことではない。それよりも、今しがた少女の内々から発されて術となったエネルギーにこそ着目して驚愕してしまう。
「きっ、貴様……それは、まさか、
それは神のもつ魔力の一種。
より高純度にして高品質の魔力を超越した魔力である。
人もまた魔力を練り上げ、それを可能な限り純化して高度に作り上げるのだが――神威と呼ばれるほどの質にもなると人には絶対に作りえない。魔力感知のできぬ者ですら肌で感じてわかる、そういうレベルの差異がそこにはある。
故に、神威とはそのまま神の力の象徴と言える。人になしえぬ、神のみぞなしうる太源。
ならばこの少女は、神威をその身から練りあげて術と転ぜられるジゥは――。
「神だとでもいうのか! ふざけるな!」
珍しく――本当に珍しく、ベルの声音には焦燥と狼狽が明確に同居していた。
それはまるで、神という脅威を知っているかのような――。
「落ち着け、ティベルシア」
「じゃっ、じゃが……!」
「神はいない。神は死んだ」
「リオト……っ」
動揺は思ったよりも根深い。
考えうる可能性を残らず考慮すべし――そんなセオリーすらも失念してしまっている。
リオトは強めにベルに言い聞かせる。
「だから落ち着け、神威があっても、それが神とは限らないだろう」
その通り。
この世界で神を除いて、神威を発する存在はふたつある。
ひとつは勇者と魔王という半神存在である。
彼らは手に刻まれた印章によって自らの魔力を神威へと変換している。それもまた半神たるの力のひとつ。
ただし印章は変換器の役割をもっているだけで、たとえば魔力のない現在のリオトには神威は存在しない。
そしてもうひとつ。
神々の創造し、遺したマジックアイテムたるそれには当然、神威が宿る。神威が宿ったアイテムをこそ
そして目の前の少女とは相対しても印章の反応はない。魔王でも勇者でもない。
ならば消去法。
「そうか。こやつ、
「おそらくな、落ち着いたか?」
「あっ、うむ……すまぬ」
取り乱してしまったことが
ベルは取り繕うように指を鳴らす。魔術を構築する。
すると叩きつける雨を遮るようにふたりの頭上に透明の壁――傘が生み出される。
「……」
ジゥはその手際に警戒心を強める。
大抵の人間には天候操作だけでも脅しとして有用で、逃げ出す者が多い。
なにせ雨を降らせることができるのなら、その雨粒を自在に操ることだって可能であるから。
たとえば、雨の一粒一粒を刃と為してあらゆるものを斬り刻むこともできる。
重量を加算し、一滴を鉄塊のように重くすることで撲殺だってできる。
降り注ぐ全てが凶器で、如何様にも殺し方を選べる。
恐れるなというほうが無理で、怯えず立ち向かえというのは難題でしかない。
だというのに、ベルもリオトもその気力を曲げない。抵抗の意志を示して立ち向かう。
――そこはさすが、お兄さんのお友達なんだね。
とはいえならば、実力行使も辞さない。こちらだって、本気なのだから。
「最後に、もういっかいだけ言うよ――帰って」
「できん相談じゃな」
「ああ、できないな、絶対に」
「そっか」
そう言うと思った。
ジゥは開いた手のひらを閉ざず。ぎゅっと、握りこぶしを作る。
瞬間、雨が止んだ。
豪雨の術を中断したのか。雲が去っていったのか。
否だ。
降り注ぐ雨粒、そのすべてがジゥの支配下に置かれ、指向性をもって統合される。形成されるのは雨水で編み上がった龍である。それも、三体。
ジゥの周囲に守護するように巻きつき、また命令ひとつで何をも食い破らんと
「加減はできないよ。でもできたら生き延びてね」
「っ」
ジゥの本気に、その強大な神威に、ふたりもまた臨戦態勢へと移る。
リオトは剣を抜く。ベルは魔力を高める。
此度の敵は恐ろしく強大だ。その上、三位一体の一角を欠く。勝ち目は薄いと言わざるを得ない。
だとて、それで諦めるというのは。
「シノギに悪いからな」
「小娘ごとき、軽く捻ってやろうとも」
「……」
ジゥはもはや無言。静寂とともに神威を発し、水龍を差配。一挙に突撃を――
来たる襲撃を察し、リオトは一瞬早く踏み込む。ベルは魔術を詠唱し――
その時。その瞬間。
一刀、刃が三人の間に飛来する。突き立つ。
まるで待ったの声をかけるように。
「っ!?」
「これはっ」
「シノギの魔刀かや!」
宣戦なされ、今今、勃発するというその寸でで割り込む。
それはまさに彼らしく、三人ともがなんとか踏みとどまる。殺意の応酬が始まる前に押しとどめられる。
そして続く声に歓喜する。
「おうこら、あんたらなにやってんでい!」
全員が弾むように振り返れば――
「……いや、シノギ、君のほうこそなにやってるの」
「くくっ、くははっ」
シノギはずるずると引きずられながらこちらにゆっくりと接近していた。
本当に、もう、ゴミのように地面に全身をつけ、ナメクジのようにずるずると身を這わせて進行する。
リオトは困惑し、ベルなんかはもう大笑い。
いや笑いごとではない。
ジゥは大慌てで龍を消し、雨雲を散らし、それからシノギに駆け寄る。
「お兄さん! どうして、どうやって動いてるの!」
「あぁ、おれの魔刀に飛来するのがあってな、『縁』ってんだが、それに引っ張られてだな」
ちなみに先ほど先に魔刀を飛ばしたのは『
言っている内に、シノギは縁の結んだ先――先ほど射出した魔刀に辿り着く。停止。『縁』の異能を止める。
そしてそのまま寝そべったままに、シノギは場を仕切るように言う。
「よし、とりあえず状況を説明しろ――あとベル、いい加減に笑いやめ、このボケ」
そこにあったはずの緊張感の全てを台無しにして、殺気立った気配を根こそぎ奪って。
サカガキ・シノギはニヤリと笑うのだった。
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