境界線上にて揺蕩うものは 1
ふらふら、ふらふら。
ふらふら、ふらふら。
人は誰でも、善悪を踊る始末に負えない泥酔者。
善人だって悪行を、悪人だって善行を。
時と場合であっちにふらふら、こっちにふらふら。
境界線を行ったり来たり、右往左往で落ち着きゃしない。
片側だけに居座ろうったって千鳥足じゃ定まらない。
素面でなんてやってけないさ。
へべれけ、へべれけ、酔って踊って好き勝手。
ふらふら、ふらふら。
ふらふら、ふらふら。
――酒好き吟遊詩人の即興唄
――なにもかもに飽きてしまったのだ。
ダスモントはそれこそ飽きるくらいに繰り返し繰り返し、そんなことを思う。
そもそも強くなろうと思い立った理由は、はてなんであったか。
男児として恥ずかしくない立ち居振る舞いをするためであったか。女子供を守ってやることで得意げな風情を存分に味わいたいがためであったか。
どうにも、思い出せない。
まあ思い出したからとて、それに執着するような感情はとうに失っているのだからあまり意味はない。
今は感情もなくただ食いつなぐために働いている。戦働きをしている。
ダスモント・モンドレアは門番だった。
小さな小さな村の入口の橋に、ただじっとり佇むだけの職業だ。
暑い日も寒い日も、雨の日も風の日も、もう三十年、彼は門ともいえない粗末なそこに突っ立っている。
結界もないその村には、だから魔物がひっきりなしにやってくる。
沢山沢山、魔物を屠った。無数多数、血を浴びた。怪我も数えきれないほど負った。死にかけたようなことは一度もなかった。
彼が門番を務めたその日から今日まで、村の敷地内に魔物が踏み込んだことは一度もない。
ダスモントは村の英雄と、みなに慕われていた。
けれどもまあ、それは彼の心持ちとは特段に関係のない称賛である。
村人たちの評価に反して、彼のここ最近物思いにふけっている内容はこうだ。
あぁなんか、もう飽きちまったなぁ。
彼は娯楽というものを知らぬ。
酒も煙草も女も知らぬ。
なにせずっと門にいて、日がな一日鍛錬に明け暮れているだけ。
あとは時折襲う魔物を打破するか、訪れる来客を矯めつ眇めつ眺める程度。ごくごく稀に流し見できないような来客には忠告紛いに一言二言だけ伝えおき、ともすれば急襲してくるそいつを打倒する。
それだけ。
門番の役割におけるなすべきことなど、それ以上も以下もない。
そして、ダスモント・モンドレアの世界から門番という項目を除外すると、ではなにをすればよいのか皆目見当つかないのであった。彼は生粋の門番であった。
暇だ。
呟けども暇は潰せない。魔物どものように一捻りとはいかない。
たとえばなにかしようにも、それを思いつくだけの想像力もない。少し頭を悩ませて精々、いつもの通り鍛錬をと惰性にはじめるだけである。
とはいえ鍛錬ももう繰り返しすぎて単調、飽き飽きして心が奮い立たない。三十年間の習性、数少ない行動をルーチンしてはいるが、心は乾いていく一方だった。
暇だ、暇だ。つまらない。
はじめての戦いに感じた高揚感も、はじめて魔物を殺した時の万能感も、はじめて人を屠った時の興奮も、今や慣れきって冷めきっている。
ならばなにか「はじめて」のことをしてみようと思った。
何事も、慣れてしまうから刺激でなくなる。飽きてしまうからつまらなくなる。
新鮮な体験ならば、きっと楽しいはずだ。かつての高揚感も万能感も、あの興奮さえ、再び感じられるのかもしれない。
では、なにをすればいいのだろう。
なにか、楽しくなりそうな初体験はないか。
――繰り返すが、彼は生粋の門番である。
幼いころからなにかに憑りつかれたように強さを追い求め、村の外周で遊んでいた奇特な子を、当時の門番の男が引き取って育てた。ダスモントは親を魔物に奪われた孤児であった。
それから、親代わりとなった男が魔物に殺される日まで、彼は門の下で育てられた。
門は彼の家だった。
だから、ダスモントの矮小な思考回路は門という存在を中心として、門番という己を軸として回っている。
それを思いついたのは、ならば必然だったのだろう。
そうだ、魔物を素通りさせてみよう。
今日の食事はスープとパンにしようと思いついたかのような、なんてことのない思いつき。
要はいつもやっていることの、反対をしてみようという短絡な発想であった。
けれどそれは門番として最悪の行為。
門番とは門の向こう側とこっち側とを分断する境界線。こっち側の戦えない者たちを背に守って立つ守護の勇士。
積極的に戦いに赴くことはなく、英雄として褒め称えられることもない。知られざる英雄というある種不遇の
だからこそ、守るものに強い思い入れがあったり、守ることに深い意義を見出していたり、守護の意味をよく知る戦士が多いものである。
不遇に嘆き、守るべきものを逆恨みするなど、まずありえない。それに、裏切りの門番など余所に移り住んでも白眼視される。
しかしダスモントはなにも知らない。
思い入れも、意義も、守護の意味さえ、知らない。
不遇も、逆恨みも、裏切りすらも、知らない。
――そもそも村人を守っているということさえ、彼は知らない。
ただ強くなって戦うことを目的として生きて、それならここに留まり続ければいいと育ての親に教えられた。だから、門の下に立っている。そして襲い来る魔物を気ままに蹂躙して、いつの間にやら門番として扱われ、称えられていた。
せめてもの救いは、魔物以外であっても不審な輩ならば通さないでおくと育ての親に教育されたことか。それがなければ、きっと彼は門番としてここまで長くやってはこれなかったはずだ。
もっと早くに、この破綻が来たはずだ。
とはいえ遅かれ早かれ、こうして破綻は到来した。
破綻であるからこそに「はじめて」であり、抗いがたいほど真新しい鮮烈であろう。
村の人間への恩も恨みもなにもない。
ただ、その門番ならざる行為にこそ、尽きぬ興味が溢れていた。そしてその衝動を止める術すら、彼は知らないのであった。
哀れこの結界さえ張れない小さき集落は、早ければ今夜にでも魔物の群に蹂躙されるさだめとなった。
――いや、ならなかった。
運命というやつはどうして悪戯好きで皮肉屋で、なにより好き嫌いの激しいタチであるようだ。
なにせダスモントが閃いて実行に移すその日に、とある馬鹿を三人その地に寄越すのだから。
奇妙な運命に放り込まれることを愛されると言うべきか忌み嫌われていると評すべきか、そこは判断に迷うところではあろうけれど。
◇
「しかしふむ、こんな辺境で結界もなく、よくぞ村が健在であるものじゃな」
そこは辺境の小さな寒村だった。
土地は狭く、見受けられる建物は粗末。おそらく人口は百人にも満たないだろう。『
ベルが開口一番にそんなことを口ずさむのもむべなるかな。
宿屋もなく、適当に広めの民家をあたって屋根を借りれないか交渉しようと腹積もりしていたシノギは、ベルに向く。
「種はふたつ、地形と門番だな」
この村は、谷間の真ん中に存在する。
ぐるりと周囲が谷という堀によって分断され、まるで孤島の有り様。
奈落のような底の見えない谷底の上を古びれながらも堅牢なる橋が渡し、それ以外に侵入経路が存在しない。
谷の内にひとつ奇妙な丘があり、その上に村を作ったというのが順序だろう。
こういう地形は魔物除けにもってこいで、かつてなんとか橋を作り移り住んだと予測できる。
「ふむ、まあ地形は見ればわかるが、門番とは?」
「強ェんだよ、単純に。
地形上、一本道の橋を渡る他に入村はできない。けど、逆に言えば人の気配を嗅ぎつけてきた魔物どもは全てのその橋に集まってくる。そこを遮る門番――それとも橋番って言ったほうがいいのか? まあ、通った時に見ただろ、あいつだよ」
「ふむ、あの陰気な
つい先ほど、橋上を渡る三人を無遠慮にじろじろと観察してきた
長身のリオトと並んでも子供と大人のように見えるほどの巨体に、引き絞られてなお膨れ上がった筋肉は巌の如し。肌は赤褐色で、額には骨が鋭く突起した小さな角が二本と、スタンダードな大鬼の姿だった。
けれど纏う雰囲気が、少々異質であった。
一般的な
「確かに、強そうではあったな」
ふとリオトが思い返すように言うものだから、シノギは興味をそそられる。
彼の基準でいう強いというのは、はて。
「どんくらいだと思う?」
「……おそらく、今の俺がやりあって競り負けるかもしれないくらい、だと思う」
「へぇ! そりゃ強ェな」
不落の門番、村を三十年間ひとりで守り続けた
けれどリオトの証言に嘘があろうはずもなく、ならばよほどに
「なるほどのぉ、この地形とリオトの賞賛するほどの強さがあれば、確かに結界もなく存続は可能じゃな。生きる術は様々、まちまちか」
話していると、村の中心部と思われる広間に歩きつく。
思われる、というのはいかにも貧相で、ただ少し道行く人が見受けられただけだからだ。
見渡して五人程度しか、人はいない。
その内から誰ぞ人のよさそうな気質の者でも探そうかとシノギが視線を巡らそうとして、ふと先に声がかかる。
野良着を着たキツネ目の中年男だった。
「おや、あんたら旅人かい」
異装の三人組、余所者というのは一目瞭然。
どういう意図で話しかけられたか不明のため、シノギはやや警戒しながら相槌を。
「ん、おう、そうだぜ。なにか用かい」
「いや、旅人さんなら宿が必要だろう? この村に宿屋はないからね。どうだい、うちに来るかい。一泊くらいなら構わないよ」
「へぇ……そりゃ気前がいいな。でも、余所者だぜ、怪しくないかよ」
「ダスモントが通したんなら、悪い奴らじゃないだろうさ。まあ、金は頂くけどね、イヒヒ」
「願ったりだよ。じゃあ、邪魔するぜ」
そんなこんなであっさりと、今日の宿は決まってラッキー。
あとは寝て起きて出立で、この村とはオサラバだ。何事もなく
――とはならないのが、彼ら三馬鹿。
愛されているのか忌み嫌われているのかはわからないが、奇妙なことだけは確かな、彼ら三馬鹿の運命である。
◇
「シノギ! ティベルシア!」
最初に気が付いたのは、やはりというか勇者リオトであった。
気配を察し、睡眠から飛び起きて、すぐに傍らのふたりを揺すって起こす。
キツネ目の男の家はさほど大きくもなかったが、間借りできた部屋の隅で三人は川の字になって横になった。隙間風や飛来する小虫、狭っ苦しさはあれど、それは野宿に比すれば大分マシで、野宿慣れした三人はあっさり眠りに就くことができた。
どこでも眠ることができる分、寝床が悪かろうとも眠りは深い。自ら目覚めねばその覚醒は鈍い。
揺すり起こされた二人は酷く寝ぼけた風情で覚束ない。
「ったく、なんだよ、なんなんだよ、何時だと思ってんだ……」
「…………」
シノギは欠伸を噛み殺しながら瞼の重さに耐え忍ぶのに一苦労。
ベルに至っては一度身を起こしはしてもすぐに二度寝に入って、また床に身を預ける。
気にせず、リオトはひとり切迫の語調で伝える。
「魔物の気配がする! おそらく、村に入り込んだ! それも群でだ!」
「なんでわかる――って聞くまでもねェか。あの
「わからない。わかるのは魔物が来たことだけだ」
「ち、なんでこうハプニングに見舞われるかね。ともあれまあ、寝床を壊されるわけにもいかねェ。仕方ねェ、打って出るかよ――おい、ベル」
ぱしん、と頭をスっ叩いて、乱暴に二度寝姫を目覚めさせる。
文字通り叩き起こされたベルは瞼をこすりならがやけに低いドスのきいた声で唸る。
「我が眠りを妨げるとはなんたる愚挙なるか、ブチ殺すぞ蒙昧どもが」
「なんで寝起きが一番、魔王っぽいんだあんたは」
「万死に値する……万死に値するぞ、芥どもがぁ」
「はいはい、あんたを目覚めさせたのは外の魔物ですよ、ゴミのように散らしてやってくれや」
船を漕ぐベルを担いで背に負い、シノギとリオトは外へ。
夜がとっぷりと更け、空の月と星との淡い照明だけが地上を照らす。外灯などあるはずもなく、魔術による燐光もない。辺境の村々は当たり前に空の色合いと生活様式を共にする。
シノギはすぐに暗視のグラスを装着し、遠きを見通すべく目を凝らす。
「ん、確かに、いやがるな」
狼のような魔物が、十。
くすんだ白い毛皮は汚らわしく、やけに硬質で針のよう。前足だけが奇怪に発達し、野太く、なにより大きい。歩むだけで大地を蹴砕き、足裏のなにもかもを踏み殺す。
異形の白狼は遠吠えもなく低く唸る。見たところ、まだ警戒しながら進んでいる。
夜のため外出する者などいないし、屋内に侵入もしていないよう。犠牲も被害もない。間に合った。
「よし、とっとと仕留めるか」
ともかく眠い。とっとと寝たい。
シノギは魔刀を引き抜き、臨戦態勢へ。
だがリオトは少し悩むような素振りを見せてから、少し想定外のことを言った。
「俺は門に行く。ふたりは侵入してしまった分の魔物だけ頼む」
「なんで門だよ」
「門番の彼が心配だ」
そこまで懸念できることに、シノギはやや瞠目する。
確かに魔物の侵入とは、つまり門番が門を守れなかったことを意味する。端的に言えば、門番は通常そこで命を落としているであろうということ。
それでもまだ生きているかもしれない。またもしかして襲撃の手数が多く漏れをだしたが、未だに門前で魔物を食い止めているのかもしれない。
どうにせ、村を守り続けてくれた彼を見殺しにしたくはない。急いで状況を把握したいところ。
魔物どもを一掃してから向かうよりも、任せて先に走りたい。シノギとベルのふたりなら、あの程度の魔物はなにも問題なく掃討できると信ずるが故に。
リオトの心情を正確に読み取り、シノギは肩を竦める。これだから正義マンは困るってもんだ。
「……そーか、わかった、行ってこい。こっちは大丈夫だから、気をつけろな」
「すまない」
「なに、こっちにゃ寝起きの魔王サマがいるんだ、楽なもんだ。なァおい?」
「我が眠りを妨げる愚昧どもよ、滅びの抱擁を手向けてくれようぞ。悶え苦しんで果てるがいい」
「そっ、そのようだな」
いつになく燃え上がるような暗い殺気をまき散らすベルである。
シノギに背負われていなければさぞ恐ろしかったのだろうが、現状では駄々を喚く童にしか見えないのだけれど。
「それより、無茶すんなよ。すぐに蹴散らして追いつくからよ」
「ああ!」
そしてリオトは橋へと向かって疾走を開始する。
この状況に微かに見え隠れする違和感を振り切るように。
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