高い塔に夢見た景色 3
それは過酷な旅だった。
それは死に物狂いの登山だった。
どんな道程よりも長く厳しく、どんな山より高く険しい地獄巡りのような歩み。
心休まることはない。いついつだとて魔物が襲う恐怖に怯えている。安眠熟睡など夢のまた夢。死ばかりを夢に見ては気が狂いそうになる。
階段を一段昇るだけで心がすり減り、この身が天に近づいていくことが苦痛だった。
斜面がおぞましくて仕方ない。段差が恐ろしくて泣きたくなる。
けれど、久しい平面の空間は敵に満ち満ちた修羅の巷。
命の限りを振り絞り、魔力を枯れるほど練り上げ、肉体を千切れるほどに繰り戦う。
ここ九十階層の魔物は強力で、殺傷力も高い。地上にいた頃には噂話でしか聞いたことがないような高レベルの魔物ばかり。
蜘蛛の如き鋼の凶刃、首の長い飢狼、小型の竜に等しき怪物。他にもどんどん、魔物は産出される。次々、延々、終わりなどない。
必死に血まみれの剣を振るい、首を刈る。ボロボロの鎧で攻撃を往なし、命を繋ぐ。
――あぁ、そろそろこの装備も使い物にならないな。
他人事のようにそう思いつつ、雑な術式で雷撃を放つ。
流石に九十も同じ戦場で戦い続ければ、戦闘にパターンができていく。より確実に、より正確に敵戦力を減らしつつ、己が身を前進させるための必勝方策。
魔物が生み出される瞬間の硬直に乗じて突っ込み、危険性の高い魔物から首を刈る。
続けて雷撃の術で薙ぎ払いつつ、雷光で視界と聴覚を奪う。当の彼は知覚選択の術を身に付しているため、そのどちらも感じずに済む。
無論、魔物は他の感覚器で知覚するものだって多いので、そこは油断しない。しないが、それでも多くは怯む。
その隙を突いてできるだけ階段に近づき、叶うなら飛び込んでしまう。三十階層以上にもなると、ここで階段に到着は難しくなり、距離を縮めるのが精々。
だが位置取りが階段近くなれば、魔物どもは少し動きが鈍ると経験則ながら発見した。
おそらく下へ下へと降っていく性質が産み落とされた時に与えられ、ゆえに昇り階段にはあまり近寄れないのだろうと推測した。
あとはこの塔で学んだ――学ばざるを得なかった後退しながら剣を振るう戦技を用いて、防衛主体で、なんとか段差をひとつ昇ることができれば、それで魔物どもは追撃しない。見えない壁でもあるように、絶対に階を昇ることはない。
厳然たるこのルールがなければ、きっと彼はここまで辿り着けなかっただろう。
それでも、そのルールがあって、パターンを構築して、なお確実とはならない。
何度も何度も同じ階層に挑むこともあった。敗走した回数など数えきれない。死にかけるなんて日に一度はあった。
このままでは先に進めない、ホールでは勝てないと判じた場合は、降り階段に逃げ込む。無論、魔物は追いかけてくるが、それは狙い通り。
一本道であるため、罠に嵌めるのは簡単だった。
もはや逃げ帰ることは予定調和。そのため通る階段に魔術を念入りに設置しておくことが癖になっていた。
彼が階段を六段降りた段階で、追走の魔物どもが一歩階段に踏み込む。
瞬間、雷鳴が轟いた。
床から天井に一閃。壁から壁へと一閃。十字を描いて雷撃が交錯し、さらに網のように広がって行く手を閉鎖する。
無論に追撃に猛進する魔物どもは急には止まれず――ばちりと火花が走ったかと思えば、黒焦げになる。
一匹が感電死しても、二匹目は止まれない。三匹四匹、次々と雷の網のトラップに自ら飛び込んでいく。
数時間かけて術式には充分に魔力を練りこんである。途絶えることもなく雷は魔物を食らい続け、全てを討ち滅ぼしてなお煌々と稲光を残す。
「……はァ」
ため息とともに、術式を停止させる。電撃は嘘のように溶け消え、階段は静寂を取り戻す。
また、突破できなかった。
また、ここに戻ってきてしまった。
そこは九十階層手前の階段――ここまで来るのに、実に四か月を要した。ここで立ち止まって六か月になる。
食糧、排便、安眠。あらゆるものを魔道具によって誤魔化して、強行軍で無理ばかり繰り返し、生と死の狭間で踊り続けた。
何度も致命に近い傷を負い、激痛を忍んで階段へと転がり込んでは治癒魔術で強制的に修復する。
彼は治癒魔術が得意な戦士だった。
一撃必殺の魔術など知らぬ、剣技も一流には及ばず、高価な魔道具を所持しているわけでもない。ただ回復にかけて才能があって、数々の傷を癒して前に進めた。
誤魔化すように傷を癒し、その場しのぎに骨を繋げる。
ただ今現在、倒れないことだけを優先して、次の安全地帯までなんとか身体を引きずる。
そして無理やり治癒で活性化し、命を辛うじて長らえさせる。
けれどそれはつまり、それだけ痛みを浴び続け、苦しみの沼に浸かり続けたということ。
もはやどれだけ骨が折れてしまったか、どれだけの量の血を流したのか、どころか四肢がもげた回数さえも、覚えていない。
そんな艱難辛苦の嵐に住まい続けて十か月、もはや自分が正気なのかもわからない。心は折れて、魂は砕けて、それでもなお前進する己は、本当は狂ってしまっているのではないのか。
幾ら治療術が卓越していて、どんな瀕死からも立ち直れる男でも――苦痛は消せない。軋みいく心の崩壊は止められない。
少しずつ少しずつ、綻んで、ひび割れて、もはや二度と元には戻らない。
どんな治癒術師でも、それは癒すことのできない致命傷。
それでも歩みを止めることがないのは、ただただ愛すべき家族の存在による。
麓に残した妻の顔を思い起こす。村に残した息子の顔を思い出す。
――辿り着くはずの高い塔の夢見る景色を想像する。ふたりに見せたい、黒い塔のない村の景色を胸に宿す。
あぁそれだけで、彼は諦められぬと奮い立つ。正気も狂気も超越して、踏破せねばと折れ砕けた心魂が燃え立つのだ。
彼の名はジグラト・コラプス――ボナンノピサの英雄である。
ジグラトはいつも通りの手順として、まず一度の起動で失われたトラップの魔術式を構築し直す。
丁寧に法陣を描き、魔力を込め、時間をかけて完成させる。
設置が終われば、続いて傷ついた身を魔術で癒す。苦痛は伴うが急速に癒す類の術を好んで選び、極力時間をかけずに再生を完了させる。
問題なく完治すれば、後は消費した魔力と体力を回復するためにこれから数時間ほどの休憩に入る。腰を下ろし目を閉じ、眠れるのなら寝てしまいたいが、張りつめた緊張感がそれを許さないだろう。
その休憩が終われば、再び階段を昇り、ジグラトは九十階層に挑む。
それが、ここ六か月間、途絶えることも変更することもなく続けてきた彼のルーチンワークだった。
さて困った。
ジグラトは身を休めながらも、もはや空っぽな心の裡でそうぼやいた。
彼は死人のように悄然としていた。虚空を見つめる目に光はなく、あらゆる動作は酷く億劫で、機微に生は感じられない。
能面のような顔つきで、内面もまた削ぎ落ちてしまって、生き残ることだけに特化した無感の境地に陥っている。
だからこそこの死地においても、何度死にかけても諦めず――諦めることができず、彼は無謀に立ち向かう。
六か月も同じ階層を突破できずにいても、なんらの感想もない。悔しさも諦観も恐怖もなく、淡々とどうすればよいか、次のやり方を模索し続ける。
試行錯誤は飽きるほどして、この身を犠牲にどんな軽い思い付きも本気で検証した。そして全てが失敗して、けれど不屈にもう一度と唱え続ける。
実際、今こうして生存していることこそが奇跡的で、発狂して自刃していないことが信じられない偉業とさえ言える。
それは壁に向かって突き進んでいるような無益、星を掴もうとする愚挙、神に挑みかかるような不遜である。
彼も本当は理解していた。もはや自分ひとりではこれ以上の上階には決して昇りえないと。
それを心の底から理解してなお、諦められない。止まれない。
命令を受諾したゴーレムのように。停止を指示されない機械のように。決断した行動を、絶対に覆せないのだ。
そして数時間の後、ジグラトはなんの感情も感慨もなく立ち上がる。それこそ、定刻を迎えた魔術方陣のように、ただ時間が来たから動き出すだけ。
さあ、死地へと赴こう。
だが、彼が同じ行動を繰り返し、変化なく日々を過ごしても、世界のほうが付き合ってくれるとは限らない。
この世は誰かを中心に回っているわけではなく、ただ誰もが好き勝手に運命を走って、不規則に予想外が飛び出たりもする。
だからこうして、なんらの予兆もなく不意の一瞬で何もかもが瓦解することもある。
ジグラトは階段を一段一段ゆっくりと踏み締めて昇って、最後の段差に足を伸ばしたところで――驚愕を見る。
「な……に……っ」
まだジグラトが足を踏み入れていない。なのに――ひとつの魔術法陣が淡く輝き、その神威を発現していた。
定刻型ではない。まだこのフロアのそれが起動するのに数日の猶予があるはずだ。その周期を違える愚をして、ここまで昇り詰めることはできやしない。
ならば――突発型か。
この階層にもそれがあったのかと、ジグラトは浅くない驚きを覚える。六か月間、一度として突発型の起動はなかったからだ。この階層には存在しないと決めつけていた。
だが確かに目の前で煌々と、侵入者もなく定刻でもなく起動する法陣がある。
いや、そこは問題ではない。
今更一匹の魔物が産み落とされることに問題視などしない。
問題は――その一匹の、おぞましいほどに迸る威圧感。
まだこの世に存在を確立しておらず、あやふやの生産構築真っ最中、産み落とされる以前のいわば胎児に等しい状態で。
どうして。
どうしてここまでジグラトは恐怖しているのか。
擦り切れ、色褪せ、正気とも思えぬジグラト・コラプスの魂が、いま確かに怯えている。子供のように恐怖に震え、足は竦み、歯の根が噛み合わない。
嫌だ、嫌だ。やめてくれ。見たくない、こんなもの、こんな……ああ、あぁ……やめてくれ……!
知るか、ほざけ――ジグラトに答えたわけでもなかろうが、魔塔は嘲笑うかのようにここに新たな魔物を産み落とす。
巨体、高い天井に届くほどの図体をして、なお崩れることが想像できない野太く力強い両足が踏み締めている。
長い首の先には蛇のようにおぞましい凶相が世界を睥睨し、あらゆるを見下げ果てる。背には自身の巨体すら包み込めるほど幅広い翼を
速度と破壊と耐久性を兼ね備えた、全身これ戦う武具と言わんばかりの怪物。魔物においても嫌になるほど有名で、恐ろしく――強い。
「りっ……りゅう……竜だと!」
数多存在する魔物という小規模災害、その最上位にして最高峰。恐怖の象徴――
それはすなわち、ジグラトの死を意味していた。
「っ」
彼の知識をして曰く――竜とは絶望である。
もはや戦うことすら想定してはならず、逃げるにしてもまず不可能。出会ってはならない、出会ったのなら死を覚悟するしかない逸脱の魔物。
ジグラトは走馬灯のように駆け巡る竜に関する知識と、実際に遭遇してみて全く同じことを思う。
こんな、こんなもの、人の身でどうこうしようなどと考えることが間違っている。
その縦長の金の瞳孔に射竦められて、ジグラトは呼吸すら忘れた。見つめられただけで死にそうになっていた。
長きに渡り魔塔に齧りつき、抗い続けた男をして――欠片も動けない。
恐怖に震えて、逃げ出すことすら叶わず硬直してしまう。
それだけ吹きすさぶ暴力的な威圧が凄まじく、知悉する竜という災害の脅威の推定が破滅しか思い浮かばず、相対するだけで圧倒的な格の差を思い知らされる。
不意にフロア内の魔術法陣が一斉に起動をはじめる。
気づかぬ内に、ジグラトはその足をこの階層に侵入させてしまっていたらしい。
次々と魔物たちが現れ、その殺意を剥き出しに吠えたてる。だが、これまで苦労して倒してきたそいつらが、ジグラトには木っ端な雑魚に見えて仕方がない。
それは残酷なほど正しく。
産まれたばかりの竜は、突如として湧きあがる邪魔臭く目ざわりな有象無象に苛立ったのか――ばさりと両翼を一度羽ばたかせた。
ただそれだけ。
それだけの動作に死の予感を覚え、ジグラトは咄嗟に身を投げ出した。階段に転がり落ちるようにして逃げ出した。
刹那、断末魔が多重に反響して鳴り渡る。
ジグラトの知識では細かく判別できなかったが――かの竜は風竜である。
風を支配し、嵐を引き連れ、まさに竜巻たる暴風の権化たる属性竜。
その巨翼の羽ばたきによる風が媒介となり、魔力を通わせ、死の斬風とすることなど造作もない。
ジグラトがなんとか身を這い出して九十階層の情景を視界に収めると、そこにはもはや風竜だけが咆哮していた。他の全ての魔物は輪切り、細切れ、死滅していた。
自身が六か月かかっても突破できなかった最悪の階層を、ただ翼の一振りで終わらせてしまう。なんて規格外。
どすん、と竜は一歩踏み込んだ。
未だ命残すただひとりの人間に向けて、その魔物の本能に従い殺意を燃やしてジグラトのほうへと向かってくる。
あぁ……死んだな。
驚くほど容易く諦観が全身を包み込んだ。
今までの不屈はどこへやら。機械のごとき冷徹もなにもかもが嘘のように溶け消えて、ジグラトは人として終わりを悟った。義務感も強迫観念も全部吹き飛ぶほどに、もはや絶望なのだ。
このまま竜に殺されて、それで全て終わり。
泣くこともない。猛ることもない。嘆くことすらない。
きっとこの人生はこういう終わり方が最初から予定されていただけで、自分は精一杯をやった。
あぁ……でも。
それでも、心残りはあって。
地上に残してきた家族に、せめてなにかを伝え遺してやりたかった……。
なにもかも飲み込むように目を閉じて、ジグラトはただこの最後の祈りだけを念じ続けた。
のだが。
「?」
どうしてだろう。
諦観に瞑目して既に一分は経過した。
なのに、一向こちらに竜が来ない。足音が途絶えた。停止している?
何故。
不思議に思い目を開くと、奇妙な光景が映る。
竜が全身を震わせていた。嫌がるように首をふり、堪えるように歯を食いしばっていた。それでも耐えきれなくなったのか痛々しく咆哮を発する。なにかを拒否するように。なにか嫌なものから逃れるように。
ジグラトは怪訝そうに顔を歪め――次の瞬間には理解する。
――――!!
頭が割れるほどの不協和音が大音響で響き渡る。
まるでそれは悪魔の金切り声、地獄からの怨念大合唱。この世あらゆる不快と嫌悪とを混ぜ合わせて音と変換したような破滅的音波であった。
聞き続けていれば死にたくなる。自ら頭蓋を割ったほうがまだしも気楽だ。
ジグラトは立て続けに巻き起こる不測の事態に頭がついていかず、もはやなにがどうしてこうなっているのかわからない。推測すらも立てられない。
状況は三転。
ジグラトの混乱を他所に、さらなる別勢力が登壇する。
「■■■■■■■■■■、■■■■・■■■■!」
それは奇妙な三人組。
スーツ姿の目つき悪い男に。
カソック姿の優し気な男に。
ドレス姿の愛らしくも凛々しい少女。……が負ぶられている。
こんなところに現れるのは酷く不自然で、なんともおかしな三人としか言いようがない。
特におかしいのは、この怪音の中でも平然と笑い、なにがしか言葉を交わしているということ。この不快音声が聞こえていないのか、まさか耐えて動じずあるとでも言うのか。
音波に掻き消されて彼らがなにを言っているのかわからない。だが、その表情からは苦痛も不快も見受けられない。
一体彼らは――何者なんだ?
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