誰にも読めない碑文



 文字というのは言うなれば記号であり、紋様であり、規則ある点線の集合体だ。

 それがそうと知らねば、文字と認識できはしない。

 ならば、そこに刻まれた落書きのような意味不明な点と線の塊も、もしかしたら何かの規則をもった文字なのかもしれない。

 そういう意味では文字というのは、この世に溢れかえっている。読み解けない、誰にも読めない文章というのはきっと溢れかえっているのだろう。

 まさか君、君の知り学んだ文字だけが、この世の全てを語るなどとは思い上がっていまい?

 ――まあ、とはいえ。

 読めぬ文字が語る内容が、果たして世の真理を謳うのかと問われれば、やはりわかりはしない。

 なにせ読めないのだからな。


               ――言語学者フーラン・ド・カバニエの呟き




「ちょっと寄り道していこうぜ」


 と、シノギにしては珍しい発言が事の発端であった。

 彼は郵便屋であり、その性格とは裏腹に職務に忠実な男であるのは自明のことだ。命をかけて、呪いを飲んで、職を全うする。


 だからか、彼は寄り道というのをあまり好まない傾向にあると、ベルもリオトも思っていた。

 彼の仕事は物を誰かに届けること。ならば目的地は決まり切っており、選ぶ道も常に最短。余計な揉め事はなるだけかわし、通過するだけの村で二日以上滞在することも珍しい。


 慌ただしくて、即決で、割と計画的。

 そんなイメージを持っていたのだから、先の発言には首を傾げたものだ。

 するとシノギは取り立てて感情を示すこともなく、肩を竦める。


「べつに。そんな真面目ってわけでもないつもりだがな。おれ、見たことないもんは見に行きたいし」

「つまり今まで巡った地は、全て行ったことのある場所だったのか?」

「だいたいな。郵便屋っても、そんなに多くは渡らない。けっこう同じトコに限定されるんだよな」

「なるほどの。はじめての場所でないなら、以前に観光は済ませたと」

「だいたいな。二度見たいトコもあるっちゃあるが、そこは仕事優先だわな」


 とすると、此度の寄り道はシノギにとってもはじめての、かつ興味あるなにかがある故か。

 ベルやリオトにとって、それは今までの未知となにも変わらないはずだ。シノギにとって既知でも、彼女らにとっては未知ばかりなのが現代だ。


 けれどどうしてか、いつもよりも強く興味が湧いて出る。

 奇縁の結ぶ魂が、三人共通して発生した好奇心を響き合わせて増幅させているのだろうか。

 ともあれ、ベルもリオトも、シノギの提案に嫌があろうはずもなく、同意して同行した。



    ◇



 ある遺跡に石碑が残っていた。

 小さな村の程近く、二百年ほど前に発見されたその遺跡をツイシベルという。


 寒村でしかなかった近隣の村に観光客を招いてくれた有難い遺跡であり、文句なく歴史的価値は高い。多くの学者や魔術師、冒険者たちが集まっては補修や見学、研究がなされてきた。


 とりわけ、遺跡の中でも注目され、謎となって鎮座する石碑があった。


 完全なる立方体。綺麗に綺麗に磨かれ艶がかった四角形。一辺の長さがリオトより頭三つ分ほど高い正方形を囲った正六面体。

 オリハルコンのように硬質で、ミスリルのように美しく、アダマンタイトのように輝かしいその石碑は、謎の詰まった箱であった。


 まず石の原料が不明だ。そしてカッティングの技術は現代のそれを上回り、刻まれた文字は誰にも読み解けない。

 歴史上、どこにも残されていない言語が、そこには使われていた。


 過去、魔術の礎となった古代文字でも、神々が使ったとされる神代文字でもなければ、無論この地方に特有の言語とも違う。

 誰にも読めない。誰も知らない。誰も見たことのない、文字。


 その碑文が語るはこの世の真理、神々の言葉、財宝の在り処を示した地図――不明言語で綴り残された碑文の内容は様々な憶測がなされ、多くの知恵者が解読に挑むも、誰一人解けた者はいないという。


「ツイシベルの石碑という奴か」

「なんでい、リオトは知ってたか」

「一応、噂で聞いたことがある。これを発見したのは俺の生きた時代だからな」

「そりゃ奇遇だ」


 シノギの寄り道とはそのツイシベルの遺跡であった。

 ちょうど近くにあると思い出し、距離を考え、目的地までの猶予時間を計算して、観光くらいは可能と判じたのだ。


 意外にもきちんと舗装され、崩れぬようにと修繕された遺跡は、けれど思ったよりも殺風景だった。

 柱が幾つか立ち並び、折れていたり倒れていたりする。石の床がブロック状に敷き詰められて、罅割れて穴あきに残る。

 それだけ。


 周囲に視線を巡らせても、特になにがあるでもない。

 山間の崖下、日の遠いそこにかつて人の暮らしたとされる微かな残滓。それがこの遺跡であり、ほとんどは土に埋もれて風化してしまっている。


 階段だけは整然と整備され、なんとか降りては来たものの、あまり面白みはなさそうだ。

 有名な遺跡だということで心躍らせていたのだが、実物は落胆と哀愁を誘うだけだった。

 遺跡という終末の後の遺物、滅びを感じさせる奇妙な物悲しさが、ここではあまり見受けられない。


 周辺を見渡しても、他に観光客もなし。静けさが一層に際立って、それでも諸行無常の念が去来することもなく、ただつまらないという感想が残る。

 期待は裏切られるもの。そこにシノギは怒りはない。それも含めて観光と旅の醍醐味、とまでは悟れないが、向かうまでのわくわくだけでも充分に元はとれると思っていた。


 ――ただひとつ、感嘆に値し、期待通りに目を剥くものがそこにはある。


 遺跡に残った最大の目玉、謎の詰まった石碑。

 ツイシベルの石碑は、なるほど確かに興味深かった。

 こうまで綺麗な岩塊を見たことがない。こんなにも美しい立方体を構築できることが驚きで、規則正しく並ぶ文字列はミステリアスでいて不気味な印象を与える。


 まるで雄大な山を眺めている心地でありながら、不可思議で奇妙なオブジェを鑑賞している気分でもある。

 ただ文字が綴られているだけ。言うなれば書物を開けばいつでもあり触れた光景であるのに、断じてそれとは次元を逸している。

 読解できない文字だからか。巨大な石碑に刻まれているからか。それともこれが遠き過去のメッセージであるためか。


 わからない。

 理屈で説明できない感覚を、心はよく生み出す。


 だがしかし。

 どうしてだろう。

 どうしても、この石碑からは神秘性や冒しがたい神聖神威が感じられない。感嘆はすれども敬意は湧かない。不明に対する奇妙は思っても、圧倒はされない。


 それは三人共通の感想であった。

 彼ら三人が破格に神遺物アーティファクトという神の持ち物と接する機会が多いからだろうか。この遺跡が人類の遺した軌跡だと知っているからだろうか。

 神々の威光残りしこの時代、人類の遺産では神秘を思えないのかもしれない。神と人の交わりし時代ゆえの観念と言えた。


「で、どうよベル、あんたならなんか読めそうだよな」

「あまり買い被られても困るがな……ふむ」


 顔を寄せ、眉根を寄せ、しげしげと石碑を注視する。

 しばらくじっとその態勢で固まり、じっくりと目を通す。


 シノギとしては一切合切読めず、こんがらがって絡み合う糸のようにしか見えない。文字と言われても信じられず、まだしも絵だと言ってほしい。絵として見ても、よくわからない抽象画であり、シノギにはやはり意味不明でしかないのだが。

 一見した感嘆は薄れ、要は退屈で、五分も経てば痺れを切らす。


「んで、ベル?」

「うむ……うむ……ちと、待て……読み解けるやもしれん」

「マジか。財宝の在り処とかだったら嬉しいんだが」


 実に欲望まっしぐらな意見である。

 金欠気味なシノギの熱い本音である。


「どんくらいかかる?」

「ん。数時間、くれ。たぶんあれがこうで……これが、うむむ」

「数時間で解けるのか。凄まじいな……」


 これ二百年前から誰も解けずにいた文書なのだが。

 シノギは上機嫌ながら手持ち無沙汰。石碑にかじりつくベルは置いて、リオトに相談を持ち掛ける。


「そりゃ同意だが、待ってるおれらは暇だな」

「手合わせでもするか?」

「んー、まぁ、そうだなぁ。ぼっとしてるよかマシか。指導頼むわぁ」


 言って、ふたりはそれぞれ抜刀した。





「夜空」

「ライラック」

「く……く……雲」

「紅葉」

「じ? じ、ゅ……十三夜月!」

「十三夜月はもう言った」

「え! こんなマイナーなの言ったっけ……ええいじゃあ……じ、じ、ジルグブッカ!」

「なんだ、それ」

「おれの行ったことのある町の名前」

「それズルくないか」

「知識の差をズルと言うのかよ、勇者も意外に小せぇな」

「む」


 シノギとリオトは手合わせ鍛錬もそこそこに、今や何故だかしりとりをしていた。

 いや、本当に何故なのだろう。本人たちにもわからなかった。


 流石に三時間も剣を交えては体力が削れ、集中力も途切れ、振るう刃に自制が緩くなってきたためだ。休憩の合間の暇つぶしである。

 その暇つぶしで一時間使っているのだから、ふたりも暇人極まっている。というか、しりとりを一時間できる辺り、仲がいいのだかなんだか。


 していると、ついにベルから声がかかる。というか怒声が迸る。


「おいコラ、たわけた暇人ども遊んどんじゃないわい! 幼女ひとりに働かせていいご身分じゃなぁ! しかも遊びがわしの時代からあるクソつまらん言葉遊びとか! わしの生きた頃にもガキすら飽き飽きしとった記憶があるぞ、なに楽しんどんじゃ!」

「いや、だってほら、暇だったし」

「集中を邪魔しちゃいけないと思って」

「「ごめんごめん」」

「許すか、このドたわけぇぇええ!!」


 ぺちん、ぺちんとベルの怒りの鉄拳がふたりの腹に突き刺さる。

 全力と怒りを込めに込めた幼女の拳は、しかし男どもにはノーダメージ。全然痛くない。鍛え上げた戦士と幼女の腕力の差はいかんともしがたいのである。


 せめて避けも止めもすまい。殴り続けるベルに、気が済むまでやれとシノギとリオトは生優しい視線で受け入れ続けた。娘を見守る父性愛に満ちた視線であった。

 十も拳を振るい続ければ、ベルの体力のほうが底をつく。

 疲労にへたり込み顔を俯かせるベルに、シノギは優しく問いかける。


「気ィ済んだか?」

「済まん。が、もうよい。どうもでいい」

「じゃ、話戻すか。解けたのか?」


 ベルは物凄くなにか言いたげなジト目であったが、すぐに諦めてため息で切り替える。

 切り替えて――それはそれで、また別にため息を吐きだしたくなる。堪えて、少し不機嫌な風情で吐き捨てるように言う。


「……残念ながら、解けた」

「そうか残念かよ、そりゃ残念……て、解けたのかよ」

「解けたのなら残念じゃないのでは」

「残念、じゃよ。不明というのは不明なままにしておくべきなのじゃな。解き明かした謎というのは、かくも残念至極である」


 物憂げな言葉の意味がわからず、シノギは首を傾げる。

 不明が明けたのならそれでいいのではないか。わからなかったしこりがとれて、心が晴れやかになるのではないか。

 ベルの憂鬱を共感するためには、不明を自明と明かす必要があろう。リオトが直言してそれを問う。

 

「それで、碑文の内容は?」

「…………」

「ベル?」


 拗ねたように口を噤み、不満そうに唇を尖らせる。

 とはいえ無言に不満を発散しても理解されるものではない。なにごとも、口にしてはじめて共有される。手紙は開いて読まねばただの紙切れ。

 ベルは実に嫌そうに、不服の感情を言葉に変換して、言った。


「……むつごと」

「え?」

「は?」

「じゃから! 睦言じゃ睦言! 乳繰り合い! ピロートーク! いちゃいちゃ!」


 羞恥に顔を朱に染めながら、ベルは勢い任せに叩き付ける。既にヤケクソだ。

 なんかもう、言ってるこっちが恥ずかしい。聞いてるふたりも恥ずかしい。

 なにが悲しゅうて他人様の耽った情事の内容を読み解かねばならんという。こんなふざけた侮辱はいつ久しく、ハラワタ煮えくりかえって仕方ない。


 その圧倒的憤怒に気圧され、男ふたりは弱弱しく確認する。嘘だろう、と冗談と期待しながらも、表情は絶望の混じった半笑いとなっていた。


「えっ……いや、その、つまり、なんだ、これは」

「ただの、男女の交友記録みたいなものか?」

「否、それですらない。おそらく、これは単なる創作じゃ」


 ゆえにこそ、最も腹立たしくて忌々しい。

 過去の人類が書き残した文章というのは、どんなものであれ様々な学問の分野において価値があるもので、このツイシベルの碑文にもそうした期待が寄せられていた。


 だがこの碑文は歴史を語ることもなく、なにか秘密を記したでもない。過去の時代に起きたの事実すらほとんど書かれず、それは単なる想像で、妄想でしかない。しかも、少し読めば妄言と一発で看破できる程度に完成度が低い。

 過去を知る手がかりとしてなにかしら価値を見出すことも不可能ではなかろうが――期待外れも甚だしい。


 シノギとしても価値あるものとの認識があり、至った結論には驚愕を隠せない。


「は? 創作? 作った文章、ってことか?」

「うむ。自分の夢と理想と欲望を書き綴っただけの戯言じゃろう」

「恋愛小説……いや、乳繰り合いなら官能小説か?」

「はん! わしは認めんぞ! こんなものがそんな高尚な名で呼ばれるなぞ、絶対に認めん。こんなものは落書きの走り書きじゃ! 言うて駄文か空言じゃな! なんなら怪文書でもミミズの交尾とでも呼んで差し支えないわ!」


 なんだかかつてないほどに激高していた。

 いつも飄々と笑うベルがこれほど怒りを露わにするのも珍しい。それほどまでに他人様の情事とやらがクソつまらんかったのか、それともこんなくだらん情事を読み解くためにかけた努力が徒労となって怒りの燃料となっているのか。

 一向鎮火の前触れすらなく、憤懣ふんまんやるかたない様子でベルは続ける。吠え猛る。


「また加えて腹が立つのは最初の一文じゃ。なんと書いてあると思う?」


 ――この文章はごく個人的な話であり、無関係な方は読まないで下さい。


「って、戯けか。阿呆か。大間抜けか!

 こんなにも堂々と人目に触れる場所に目立つように書きなぐっておきながら読むなじゃと? 舐めとんのか、だったらそもそも書き残しておくでないわ!」


 これを読み解けてから俄然やる気がでて全文解読してやったわ。ベルは黒い色を載せて哄笑した。


 文字に残すというのは、未来に情報を届けるということ。発した傍から消えていく声と違って、文字は大切にすれば長く留まり、そして書き写せば実質、永遠の時を巡る記録となる。

 だというに、それを自覚せずに恥知らずにも世に腹の内を晒すとか、ふざけているとしか言いようがない。


 いやまあ、読むなと言われてもそこにあるなら読むもの。その一文にさして意味はなかろうし、書くぶんだけはタダだろうとシノギなどは思うけれど、ベルとしては許せないらしい。


「あ」


 不意に。

 かける言葉を探し回っていたシノギが、なんぞ声を上げる。


「なんか、思い出した。その昔、風鈴みたいな名前の言語学者が碑文の解読に挑んだとか」

「それで?」


 ベルから目を逸らすように、リオトはシノギの話を促した。

 正直、男ふたり、怒り狂ってるベルをどう取り扱えばいいのか全くわからない。できれば少々放置してでも頭を冷やして欲しいところ。

 そのため、シノギは会話の主導権をとるべく思い出したそれを語る。


「最初は順調で、これなら読み解けると思うって自己申告してたんだけど、途中で急にやっぱ読めないって解読を諦めたらしい」

「それは……」

「絶対、読み解けて内容のくだらなさにどーでもよくなったのじゃろうな! わしと同じじゃ!」


 耐えきれずにベルが叫び散らす。放置しようにも突っかかってくるタイプの幼女である。土台無理な話だ。

 とはいえ、喚いた発言には一理ある。ベルの常ならぬ様子に、シノギもそうかもしれないとは思っていた。


 踏まえて考えると、嫌な想像が頭に閃くのことになる。

 なんだかげっそりとあらゆる力が抜け落ちたような風情で、シノギは額を押さえる。


「……もしかしたら、そういう奴、結構たくさんいたのかもな」


 誰にも読めない碑文――本当は誰も読みたがらない碑文だったのではないか?

 読めたのに読めないと申告した者が、実はかつてから今日まで多くあったのではないか?


 内容を理解するのに手間が酷くかかり、だのに読解してみれば死ぬほどくだらない落書きで、妄想で、無価値に等しくどうでもいい。

 誰にも読めないとされる言語に挑戦するような輩だ、それなり以上にプライドが高く、真面目で、諦めの悪い賢人だったことだろう。


 だからこそ、読み解いたそれが最大級の侮辱であり、ベルのように怒り狂う。もしくは失望にあらゆるがどうでもよくなって投げ出す。

 そうして、ツイシベルの碑文は現在まで未解読文書として取り扱われているのではないか。


「だとしたら、なぜ誰もその事実を伝えない? 多くいたなら、ひとりくらいは事の真実を明るみにしそうなものだが」

「そりゃあれだろ、こんな阿呆の第一解読者になりたくないんじゃね? そんな理由で歴史に名を残すとか、末代までの恥ってもんだろ」

「……それは、嫌だろうけど」

「まあ、他にも理由はそれぞれあったじゃろうな。わしとしては目立つわけにもいかんし、公言はせん。いや普通に、単純明快に、ただこれを読んだという事実を触れ回りたくはない」


 ――えー、君の読書遍歴にそんなクソしょーもない読み物入ってるの、だっさー。


 とか、そんな嘲笑罵倒がどこからともなく降り注いできそうで怖いのである。

 よくわからない怯え方であるが、奇縁は確かにベルが心底恐怖していることを伝えている。

 いや、本当、よくわからないシノギとリオトである。


「まっ、まあなんだ……難しい文字で書いときゃ、あとは時間の経過が勝手に神秘として祀りあげてくれるってことだろ」


 もう面倒くさくなって、シノギは話を締めにかかる。いい感じに話を終わらせてもうとっとと帰りたかった。

 寄り道するなんて言わなければよかった。ベルに碑文を読めるかなどとそそのかさなければよかった。


 シノギは思いのほか真面目に後悔していた。

 すぐにリオトも意図を察し、アイコンタクトもなしに相槌と言う名の追い込みをかける。


「どんな低俗なものでも、古くから現代に残っているというのは凄いことだからな」

「そうそう。古代の神秘に免じて、今日のこの記憶は丁寧に仕舞っておこう。そう、これは紛うことなく誰にも読めない碑文だったのだ」


 のだ、とか殊更に断定を強調しつつ、シノギはちらとベルの様子を窺う。


「ふん、腹立たしい」


 いつまでもご立腹なベルであるが、なんだか消沈していくようにも見えた。

 このままでは碑文の件を忘れて仕舞い込んでも、今日という日があまり楽しくはなかったと記憶が残ってしまう。シノギも日記にそのように記録せねばならなくなってしまう。


 それはあまり、気が進まない。

 ベルには笑っていてほしいし、シノギの日記には楽しいことだけ残しておきたい。

 この馬鹿な妄言碑文と同じように、嘘を書き綴って誤魔化すだなんて恥知らずな真似はしたくない。


 なにせ――三位一体、一連托生、連理の奇縁。ベルが怒るのならば、シノギだって怒るのだ。


「あー、ベル。それならよ」

「なんじゃ、帰るか? そうじゃな、もうこんなところに用はなし。とっとと帰るかの」


 喧嘩腰のベルに、シノギは苦笑してしまう。

 ああ、わかるよ。一面では確かに苛立ってしまう結末だ。けれど、別の視点から見遣ればそうでもないのではないか。この無益な解読が、別に価値を持てば、少しは腹の虫も収まるのではないか。

 悪戯のようにシノギは具申する。


「おれたちもひとつ残しておこうぜ」

「む?」

「ただの落書きがいつかは謎の文字とか持て囃されることもある。なら、おれたちが残したって、もしかしたら云千年後にゃ世紀の大発見になってるかもしれねぇ。なあ、おい、そう思うと楽しくねぇか?」

「それは……うむ、すこしたのしそうじゃぁ」


 ふふ、とベルは愉快な未来図に思わず笑みを零していた。

 今日久しい、雪解けのような笑みだった。


 リオトはそのことに横で酷く安堵し、シノギもまた口端を歪める。

 楽しいことは、見出そうと思えばどこからだって現れいでる。


「では、ひとつ」


 ぴっと、ベルは指先に魔力を集め、くるりと回す。

 すると、音もなく碑石の空白スペースに文字が浮かび上がってくる。石の硬度を無視して意味と規則をもった点と線の塊が刻まれていく。

 一文、書き仕上げればベルの指から魔力が散り、振り返る。

 終わったと見て取り、リオトはしげしげとベルの書いた文章に目を通す。しかし。


「? 読めないが……これ、碑文と同じ文字か?」

「うむ、どうせならな。むかっ腹は立つが、この文字なかなか出来はよい。使いまわすに些かの抵抗はあれど、これもまた悪戯ゆえ」

「ん、ああ、なるほど。同じ文字で新たに文書が追加されたら――誰にも読めないはずの碑文を読み解いた者がいると喧伝できるな。それは驚く」


 感心するリオトとは別に、シノギはそこらへんは興味がない。

 ただ、ベルの不満の鬱積した結論として刻まれた言葉が気になる。変なこと書いたという予感があった。


「で、なんて書いたんだ」

「――『三馬鹿、参上』」

「え?」

「は?」


 即答するベルは、どこにも非のない完璧な笑顔であった。先刻以前の憤怒の姿など想像できそうもない、花や月にも劣らぬ可憐綺麗な満面の笑み。

 歌うようにしてその心を説く。


「じゃから、『三馬鹿、参上』じゃ。わしらが来たことを残しておこうと思うてな」

「なんでおれたち括って三馬鹿だよ。馬鹿ってなんだ馬鹿って」

「いやでも、はは、ちょっと似合うかもな」


 シノギは不満そうだが、リオトはむしろ楽し気だ。実に実に、まさにではないかと思うのだ。

 これ以上なく、以下もなし。まさに丁度ぴったりこれだ。


「えー、馬鹿が似合うのかよ。馬鹿呼ばわりかよー。てか、魔王参上でよかったじゃねぇかよ」

「たわけ、わしら三人というのが重要じゃろうが」


 ふんす、と胸を張る。

 今はひとりの魔王ではなく、三馬鹿のティベルシアでしかないのだと。

 だから刻み残すのは一ではなくて三なのだ。

 そう返されては肩を竦める他にない。否定がだせない。ならば――三人は三馬鹿であって間違いない。


「……そういやそうだな。ならじゃ、もういいか三馬鹿で」

「うむ!」


 至極満足そうにベルは頷いた。

 ならばもうこの遺跡に用もなし。全部終わった、さて帰ろう。


「よし、この落書きが未来の世界で愉快な誤解を生むと信じて、今日のところは飯でも食いに行こうぜ」

「そうしよう。未来を肴に食事というのも乙だろう」

「ふはは、確かに。愉快な未来は想像するだけでご飯三杯はいけるわ。

 では――カッコウ鳥」

「あ?」

「え?」


 唐突にベルが場にそぐわず、意味もわからない単語を呟いた。

 ふたりして困惑していると、それこそ困惑だと言わんばかりにベルは不服に顔を染める。仲間外れはやめてくれと言わんばかりに。


「しりとりじゃろ。先刻、“か”で終わったはずじゃ、聞いておったぞ」

「……」

「……」


 シノギとリオトは一瞬、酷くびっくりしたような顔つきで視線を交わし、そしてともに腹から笑うのだった。

 ――今日の夕食は、きっと美味い。




 ――誰にも読めない碑文 了



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