籠の小鳥が囀る歌は? 3
『しかしまったくメンドクセェ。バトルなんざ郵便屋の本筋じゃねェだろ』
『戦う郵便屋さんを自称しておったのはどの口じゃ』
痛む脇腹を押さえながら、シノギはぼやく。
傷のほうは痛いが大したことはない。もとより
『
『渋々やってんだよ、送り届けるだけで済むなら誰も喧嘩なんざするかよ』
『そうかの。ともあれ、障害は除いた。さてでは本筋じゃな。
――というところで、そろそろ伝心と共有を切るぞ。撤退の準備に、リオトのほうも気になるでの』
『なんでい、見てかねェのか』
『おぬしの仕事に手伝いはすれども、線引きは明確にと、リオトとふたりで決めておるでな。極力、荷物を手渡すところは遠慮するわい』
『そうかい、気を遣わせたな』
『なんの。じゃが、できるだけ急げよ、早くおぬしの傷の手当をせんとどうにも落ち着かん――月下で待っておるでな』
『おう、すぐ行く』
その言葉を聞き届けて、ベルは繋がりを切断。同時に左目もまた、シノギひとりのものと戻る。
静寂に微かな寂寥の念を覚えるが、振り切ってシノギは仕事に戻る。
倒れ伏すノーマンを蹴りどけて、シノギはもはや守る者なき扉を押して開く。
鍵はつけられていなかった。あっさりとドアは開き、その部屋は姿を現す。
なにもない――というのがまず思いつく言葉だった。
ガランドウのような部屋、家具は奥にあるダブルベッドのみ。他にはなにもなく、誰もいない。大きめの窓があるが、鉄格子が堅牢に内外を区分けしている。
シノギが侵入した経路を除いて出入り口がないことから、どうにも監禁じみた風情を思わせる。
部屋の物々しさに眉を顰めていると、もぞりもぞりとベッドの上でなにかがうごめく。
ドアの開閉音に反応したのか、シーツをどけてむくりとひとりの女性が顔をだす。
――瞬間、なにか奇妙に鼻につく香りがふわりと舞い込む。
現れたのはふわふわとした金色の髪が眩い、どこかあどけなさを残しつつも艶めいた雰囲気をしたたれ目の美女だった。
下民の身の上ながら上民をもかどわかす美貌が、立場を問わず人を誑し込む妖しさが、確かに彼女にはあった。
まず間違いなく、件の花嫁。
咄嗟にシノギは害意のなさをアピールするため、まずは悲惨なほどの目つきの悪さを隠すサングラスを装着。それと念のため握り続けていた『
そしてできる限り恭しくも丁寧に、まずは挨拶から。
「あー、おやすみのところ失礼。おはようございます、ユーティリア・ハッシュ様とお見受けしますが?」
ぱちくりと女性――ユーティリアはたれ目を瞬かせる。
実に不思議そうに小首を傾げて、ついで、はふぅと柔らかに欠伸をもらす。眠そうに両手で目をこする。マイペースにもこちらを待たせることに特段、悪びれもしていない様子。
してからようやくその小さな唇を動かす。
「えっと、どちら様ですか?」
「クールにスマイル、いつもあなたの郵便屋さんです」
「郵便屋さん?」
なにそれ、とばかりに思案顔になって、うーんと唸り声があがって、一分。
ぱちんと両手を叩く。なにか思い至ったらしい。
「うん、わたしはユーティリア。郵便屋さんって、おてがみ、届けてくれるひとですよね」
「はい」
「もしかしてわたしにおてがみ、あるの?」
「はい。こちらに」
ジャケットの懐から、シノギは何の変哲もない封筒を取り出す。
それに封入されているのはただの紙切れで、だが思いの詰まった手紙だ。
ようやく、それをユーティリアへと手渡すことが叶う。これにて仕事は完了だ。
ユーティリアは夢見心地の様子で手紙を受け取り、差出人を確認する。すると、たれていた目が、ふと鋭利に細まる。
「デイス……そう、彼の」
「……」
シノギは瞑目し、言葉を挟まない。静かに開封を促す。
ユーティリアは素直に頷く。封筒を雑に破り、手紙を開く。その内容に目を通す。
――たっぷりと時間をかけて、ユーティリアは手紙を読み終える。二つ折りにして、手紙を封筒に仕舞い、そしてシノギに差し出す。押し返す。
「……どういう意味です」
「お返しします。いりませんので」
「いらない、ですか。いや、その場合はおれじゃなくてご自分で捨ててください」
「あ、そっか。そうですね、ゴミをお渡しするのも失礼ですよね」
「ゴミですか」
いちおう、シノギはそのゴミをお届けするために命からがら屋敷に侵入して、名付きの傭兵と戦ったのだが。
言うまい。
プロは無言で行動し、結果で示してこそ。決して届け物を粗末に扱われたからと逆上したりしない。
しないったらしない。
「まあ、ゴミはそっちで捨てておいてもらうとして――どうします」
「なにがです?」
「亡命を勧める文言があったはずですが?」
さらりと、シノギは割ととんでもないことを口にする。
ユーティリアもまた大して気にした風もなく、素っ気なく返す。
「あぁ、うん、書いてあった。郵便屋さんは連れてこいって言われたんですか?」
「いや? たぶんそうだろうと思っただけです」
そういう物騒な内容が記載されていたからこそ、ノーマン・イェスズが雇われるほどに警備体制が強化されたのだろう。
手紙は一度、相手方の手に渡っているのだ、そのように推測するのは自然の成り行きと言える。
全く、余計なことしかしない依頼人だ。そしてまた、届け人の彼女もまた一筋縄ではいかない。
「郵便屋さんは亡命行為の手助けまで業務内なのかな。知らなかった」
「いや? けど、人物の運送も、一応はやってる」
おそらく預かった手紙にはシノギへ自身の運送を依頼するようにという一文が綴られているだろう。
届け人がそれをその場でシノギに依頼すれば、亡命の手助けをせざるをえないのだ。
「ま、本来は人物の護送は護衛の仕事だしやりたくはねェんだが」
「なんですか」
「さすがに都市の情勢とか聞いといて逃げたいって面と向かって言われたら断れる気がしねェ」
「まあ、お人がよろしいのですね」
くすくすと笑いながら言われた言葉を、否定はすまい。
そういう良心まで想定にいれたのだとしたら、今回の依頼人は意外にもしたたかな奴である。
ともあれ、シノギは確認をこめて、問う。
「で、亡命、します?」
「お断りします」
「へえ? そりゃまさかこの結婚は本当に愛のあるそれだって?」
「それこそまさかでしょう。違いますよ」
愛だなんて、そんな。冗談でも寒気がしてしまう。
ユーティリアはおぞましい毒虫でも直視したかの如き嫌悪を表す。
柔らかな空気感を残したままに厭う顔つきをできるのはどうした妙か。女性は不思議で一杯だ。
その返答にも、シノギは腑に落ちない。客ではなくなって敬語の必要性が失せたことで、シノギの舌は滑らか。
「じゃ、理由を聞いていいかい」
「――鳥かごから逃げ出して、また別の鳥かごに囚われるだなんて、いかにも愚かしいでしょう?」
「……。そりゃごもっとも」
半瞬、息を飲んで、すぐに吹き出しそうになった。
湧きあがるような笑みはノドで押しとどめたが、シノギは口角が吊り上がるのを止められなかった。
本当に、本当に、本当に。
まさにその通りだ。まさしくその通りだ。
なんとも小気味よい返しがシノギのツボに入った。場所が場所でなかったならば腹を抱えて笑い倒したかった。
このたれ目の麗人、外見仕草に反して存外、油断ならないらしい。
「あぁでも、うぅん。こんなところまでわざわざお越しいただいた郵便屋さんに一言告げるだけで帰ってくださいは、ちょっと不親切かな。
すこし、お話に付き合ってくれませんか?」
「そりゃまた」
なかなかに愉快な申し出だこと。
シノギはユーティリアの申し出に二つ返事で首肯する。興味深そうな調子で話を促す。
「気になるね。一体どんなお話で?」
「ううんと、あなたは外から来たひとですよね」
「郵便屋は一所にゃ留まらんぜ」
「じゃあ、この都市で上民が下民を妻にする割合なんて、ご存知ありませんよね」
そんなの当然、知る由もない。
けれど、違和感を思い出させる問いかけではある。想像が走り、まさかという思いが芽生えだす。
口にはせず、続くユーティリアの言葉を待つ。
「年に平均して、だいたい五人にも満たないらしいですよ。
――今年は五十人です」
「十倍……」
それは偶然では済まない急上昇だ。誰か何かの介入なく起こり得ない跳ねあがり方だ。
では誰が? 決まっている、結婚する花嫁たち以外にいない。
ユーティリアは目じりから口端まで完璧な笑みをたたえたまま微動だにしない。まるで笑顔の仮面のように、表情が固定されている。
「これは静かな革命、だそうです。下民がこの都市を覆すには、結局、力を得るしかないと叫んだ方がいまして」
「権力者に取り入って、血族に入り込む」
「そして主人には眠ってもらいます」
要は殺すつもりらしい。まるで
確かに権力者の夫が死ねば、その妻に様々なものが転がり込んでくる。
それが全て下民の妻で、計画された相続で、この鳥籠を破るための小鳥の謀り。
そりゃあ、亡命なんて受け入れるはずもなし。
既に彼女らの計画は大分、進んでいるようだし。ともすれば年明けを待たずにこの都市はひっくり返っているかもしれない。
八重歯が向き出るほどに引き攣った笑みを、シノギは抑えることができなかった。
「……籠の小鳥が不幸とは限らない。籠の小鳥がか弱いとは限らない」
「いえいえ、不幸ですし、か弱いですよ? だから幸せを奪います、強さを貪ります。知っていますか? 鳥は死肉を食むのですよ」
にこりとユーティリアは儚げで可憐な、それでいて蠱惑的で情念深い笑みをかたどった。
――ああ、これだから旅というのはわからない。面白い。
行ってみて、この目と耳で見て聞いてみて、そうでないとなにもかもが未確定。わかったつもりでなにもわかったものではない。
外で聞いた噂話も、書物で学んだ歴史も、全て表面的な上辺の情報でしかない。
この籠の中の都市の真実だって、愛らしくもしたたかな小鳥の少女にこそ集約されているのではないか。いや、それすらも見聞きの不足でもっともっと深いなにぞかが隠れているのかもしれない。
人と人と人と。
沢山が集まってできる村や町や都市というのは、それだけ混沌怪奇で不可思議となるのだろう。
だからこそ、そんな奇妙を垣間見る旅というのは面白い。心の欠片を文字と綴った手紙を届ける郵便屋の仕事はやめられない。
けど。
「どうしてそれをおれに話すんだ? 漏れたらだいぶまずいことだろ」
「ノーマン・イェスズを倒してくださったでしょう?」
この部屋の護衛の男だ、こうしてシノギが室内に踏み込めたということは、彼がやられた他にない。
それが、ユーティリアにとって大層な
「彼、なにかと邪魔でしたので、退けてくれたのは非常に助かるんですよ。下の騒ぎもありましたし、それで兵士をひとりでも多く減らしてくださっていたならやはり感謝なのです」
「サービスしすぎたかね」
「だからこちらもお礼をしているじゃないですか――と言ってもそんなの建前で、本当はただ話したかっただけなんですけどね」
「は?」
薄く開いた瞳には、なにやら稚気が満ちていながら扇情的な輝きが宿る。
子供のようで、娼婦のようで、相合わさったまさしく女の貌で、ユーティリアは睦言を囁くように語る。
「秘密って、ばらしたくなりませんか? 隠していることは暴きたくなる、秘めたものは晒したくなる。そういう、ええと、露出願望っていうと、変質的ですか?」
「若干な。共感もできる範囲だがな」
「もちろん誰彼構わずではないですよ? 話しても支障ないと判断したから話したの。あなたはこんなお話、どうでもいいでしょう?」
「そりゃ、べつにこの都市がどうなろうが知ったこっちゃねェし、すぐにも出てくがよ」
革命が起ころうが、失敗しようが、異邦人であるシノギには関係ない。知らんから勝手にやってくれ。
見立て通りの反応に、ユーティリアはにっこり笑う。本来の意味合いにある牙剥くような、そんな満面の笑みだった。
「じゃあ大丈夫ですね」
「怖ェな。女ってなァ心底怖ェよ」
シノギはそれだけ苦笑して、尻尾をまいて逃げ出した。
◇
「さてと、もうひと頑張りだな」
部屋を辞して、シノギはすぐに玄関、中庭側の大窓まで走る。
さほどもなく見つけ、窓を蹴破る。三階から見下ろせば、中庭は死屍累々。
死体のように倒れた男たちが数えきれないほどに無造作に転がっている。
その中心には輝ける金糸の髪を振り乱し、カソックをたなびかせる青年がひとり目立つ。誰あろうリオトだ。
未だにひとり戦い続け、撃墜記録を伸ばして戦場を支配し続ける修羅である。
シノギはそれを確認すると、もう一度、腰元の魔刀を引き抜く。その魔威を行使する。
「我が六の魔刀が一刀――『
シノギの魔力残量的に言って、本日最後となろう段板の形成。
不可視のそれを見える三人からすれば、それはひたすら天に向かって伸びる階段だ。この塀で囲われた籠から飛び立つには、塀の高さを超える他にないのだ。
「り――あー、いや。ふたりとも! ズラかるぜェ!」
念のために名を叫ぶのは避けて、合図に声を張る。
すぐに気取り、待ってましたと地上と上天から即応の返事が来たる。
「「了解!」」
地上――リオトは最後に勢いよく剣を振るう。間合い届く範囲の兵を鎧袖一触、吹き飛ばす。
斬撃ではなく剣腹による打撃。打ち据えるのではなく打ち放つ。間合い内にいた六人は放り飛ばされた鞠の如くに投げ出される。
投げ出された彼らは人型の砲弾と化してさらに周囲の者たちにも被害を与える。混乱を増幅させる。
指揮もおらず、困惑ばかりでは立て直しがきかない。
反応の遅れたところでリオトは翻る。見えないけど見える階段に向かう。儚げなそれに恐れず、段板を蹴って空へと踏み出す。
天を駆け上る姿は聖人の歩みか。
地を這う誰もが目を剥き、呆けている間に空中疾走、三階からの地点で待つシノギに追いつく。
まずは確認、シノギから。
「術師は?」
「予定通り全員討った。狙い撃ちはされない」
「よし」
続いて短く、リオトから。
「手紙は?」
「お届け完了。あとはズラかるだけってな」
「よし」
頷き合えば、行動はひとつ。
『
走って走って月が傾く方角の塀の付近、そこで自前の浮遊魔術で待ちくたびれた童女がひとり。
そこは既に都市の塀のすぐ近く。あとは塀の上を『
だからこそ合流したふたりは最後のひとり、ベルへと問いを。
「首尾は?」
「上々、問題ない。わしら三人を妨げえるものなぞ、天下にあろうものか」
高い塀で囲われた都市トピアリー。
だが無論、じゃあ上から飛んで逃げればいいとはならない。そんなザルな監獄も籠もありえない。
当たり前に塀と、その上空と、地下に至るまで球形に強力な結界が封鎖している。断絶している。この尋常ならざる結界こそが過去、監獄として機能していたころの最大にして本当の檻であり、現在の鳥たちを繋ぎ止める鳥籠という悪意そのもの。
監獄時代から都市となって
そう、今日この日までは。
ティベルシア・フォン・ルシフ・リンカネイトという魔術の王様がやって来るという空前絶後が起こるまでは。
ベルは浮遊の術を解き、段板に降り立つ。これで彼女は現在、一切の魔術を行使していないフリーの状態。次の大魔術に際しての余裕を得る。
童のように好奇心旺盛な少女は、少しだけ不思議な足場に興味を惹かれたが、まあ考えるのは後にしよう。
今は、この目の前の障害を打ち砕くことからはじめよう。
「では幕引きといこうかの――魔術の小唄をここにひとつ」
今回の仕事において、ベルはなにもサボっていたわけではない。
表沙汰から隠れ、姿を現さずに隠密し続けたのは確かだ。囮役から外れ、ノーマン撃破に口出しだけしかせず、では彼女はなにをやっていたのか?
手紙を届けても、三人が五体満足でも、上手く屋敷から脱出できても――それでもまだ最大の壁が残っている。結界の断絶をどうにかせねば都市から飛び立つことはできない。
それが明白で、ゆえにそれを突破するための準備に専念してもらっていたのだ。
未だかつて誰も破ったことのない大結界、当時の技術の粋を集めて構築した大規模術式。
それを――真っ向からぶっ壊す。
「“物事のはじまりは終わりからなる”」
深い夜闇に
純白の輝きは童女の歌に踊り跳ねる。軌跡を残して円を舞う。
光の舞踏はやがて複雑怪奇な絵図を形作る。理を伴った文字紋様、意味を含む文書図形――それは魔術法陣と呼ばれる魔術の図案にして設計図。
「“壊れた故に再生し、悲劇が故に覆す”」
男ふたりがあくせく戦っている間に時間をかけて練りこんでいた魔力を開放する。仕込んで編み上げておいた術式に動力を流し込む。
軽妙におどけて、愉快に笑顔で、魔術をここに執行する。
「“終始の円環を超え、悲劇の輪廻を喜劇へ導け――『
瞬間――都市が震えた。
都市中を覆う断絶結界、それが悲鳴を上げてのたうつ。固定が維持できずもがくよう波打って、堅牢がゆるやかにほつれていく。
ベルの打ち込んだ楔は硬質なものを崩壊させるような術ではない。この結界は本当に素晴らしく、金剛石より屈強で山の如くに頑健だ。力技では今のベルでは突破は不可能であろう
だから狙ったのは術式という
力技ではなく技巧、搦め手。それが術師の本道だろうと。
故に彼女の行使したそれは魔力の結び目をほどき、式の綻びを突いて、本来の術意を捩じ曲げ書き換える魔術。ソースコードの改竄であり、プログラムのクラッキングである。
事前にしっかりと結界の術式を観察する時間があったればこその超絶技巧。細部まで逃さず完全にこの結界魔術を理解した上で成り立つ神業。
魔術の王――魔王であるベルにだからこそ成し遂げた神遺物に近い奇跡であった。
なにもかも御破算にして悲劇を別つベルの魔術は、やがて結界の機能を狂わせて強制終了させる。
檻はその意味を失い、鳥籠は完膚なきまで崩壊したのだ。
それを誇るでもなく、ただ面倒ごとを終わらせたといった面持ちでベルはひとつ頷く。こんな些事に手間取るよりも、彼女は一刻も早くやりたいことがあるのだ。
「よし、仕舞いじゃな。ではとっとと」
「ズラかるか」
「その前におぬしの治療じゃ、戯け」
それが現在における最重要事項であろうがと吼え猛る。
当のシノギはどうでもよさそうに肩を竦める。急ぎ足を進める。
「あぁん? んな暇ねェだろ、状況考えろや」
「暇とか状況とか、そういう問題ではなくじゃな、先も言うたがおぬしの傷を治さんと気が収まらんのじゃ。まったく相も変わらず見る者を不安にさせる戦い方をしよってからに」
「あんたの気分なんざ知らんわ。今は早く逃げねェとやべェだろうが」
「なにおう!」
「なんだよ!」
「……撤退しながら治癒すればいいだろう」
はぁ、とリオトは言い合いになりそうな気配を察して先手を打っておく。
このふたりは意地っ張りで負けず嫌いのケが強すぎる。それは長所だけれど、時たま短所ともなるから困りもの。
などとため息をつくリオトだって負けず劣らずではあるが、当人だけは自覚もなくて。
どうにも三人似たり寄ったり、どっこいどっこい。類は友を呼ぶ。
それでも、いやそれゆえにこそ、彼ら三人が仲たがいしたら、仲裁できるのはやはり三人の誰かだけ。
リオトの言になるほどと折衷し、ふたりは言い合いをやめて治療と撤退を並行することにする。喧嘩するほどなんとやら、噛み合った時の息の合い方は流石で、特に言葉もアイコンタクトもなく歩幅を合わせて『
結界を気にすることもなく塀を超えていると、ふと治療中のベルが声をあげる。
「む?」
なにやら不審そうな顔つきになり、立ち止まる。つられてシノギも足を止めると、ずいとベルが顔を近づけてくる。可憐な相貌が接近し、さらさらと流れるまつ毛さえ間近で観察できるほどの近距離。
思わずシノギが一歩退こうとすれば、胸元を掴まれて引き戻される。なにすんだと叫ぼうとすれば、くんくんと端正な鼻が動いていることに気づく。
「……なにやってんでい、あんた」
「おぬし、わしが見とらん間になにがあった。薄気味悪い悪臭がかすかに残っておるぞ」
「は? 悪臭? 汗臭いか、おれ」
同じくふたりを待って止まるリオトに目線を向けても、肩を竦められるだけ。わからないようだ。
ではベルだけ感じ取った臭さとなる。女の勘? まさか。術師の嗅覚だ。
「これは、おそらく弱いが魅了の術じゃな。嗅覚から感応させる傾城の呪術に近い。おぬし、わずかに酔っておったぞ」
「あー、あぁそう、なるほど」
急激に増えた下民の花嫁の真相はこれか。
妖しく思い、油断ならぬと決めておきながら、仄かに心惹かれかけたカラクリはそれか。
得心顔のシノギが気に入らないのか、ベルはばしりとその緩みかけの頬を張る。
「ぁ痛っ、なにすんでい」
「残り香ていどであったが、
「おっ、おぉ……」
文句は尻すぼみ。今のベルに言い返してはならないと天啓が下った。ここは黙しておこう。
そこを上手く避けて、シノギは建設的に言う。
「んで、治療は終わったかよ。いい加減走りたいんだが」
結界は通り抜けたが、だからと余裕に散歩なんてかましている間抜けはできやしない。
都市の要たる大結界を無力化したのだ、それに気づいた者たちはおそらく大パニックになっている。
後追い、追撃部隊が編成されるかもしれない。
死にはしない程度の怪我の治療より、ここでモタモタしているほうがよほど死に近づく。
けれど、ベルはそれをわかっていながら首肯しない。
「戯け。もう少しじゃ、辛抱せい」
「……わかったよ」
彼女の心配には裏がない。他意も邪念もなにもない。
魂が繋がり、命が同一。そんな同胞ゆえ、シノギが死ねば自分も死ぬ。
だというのに。
だというのに心配はシノギだけに向いているのだ。
自分の死など考慮になくて、ただただシノギを慮り、労り、その痛みを共感して己の至らなさを嘆くばかり。
だから無理に突っ張るとかはできなくて、やり込められているのをわかっていても強くでられない。
あぁやはり、やっぱり。
「女ってなァ怖ェなァ」
「む、なんぞ言うたかや」
「いいや、なんも」
シノギはニッと快活に笑い、ともあれ童女の気の済むまでやらせておくことにする。
ふと空を仰げば淡い銀色の月が綺麗。塀のない広い空に君臨する彼女は、まるでうちの魔王サマの如くに気まま傲慢に輝き続けている。それ故にこそあれほどまでに美しいのだ。
ならば結局のところ。
月も女も鳥籠なんぞに飼い殺しにできるようなものではない。
――籠の小鳥が囀る歌は? 了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます