籠の小鳥が囀る歌は? 2
日は落ち空の青さが黒く染まっていく。太陽に代わり月が空の支配権を奪い、その淡い輝きを世に知らしめる。
働き手がようやくの休息に安堵し、生き物たちは順々に眠りにつく。魔術的な明かりが煌々と街並みを照らして、巡回兵は休みなく闊歩し続ける。
予定していた郵便の時刻だ。
今回の押し入り郵便は、シノギの提示した作戦に沿って動く。配置を決め、行動を定め、目的を達する。
まずは配置。
リオトが花嫁の囚われた屋敷の正面で待機し、シノギは近くの時計塔の屋根の上までよじ登る。最後にベルは少し離れた空間において浮遊していた。
ベルは魔術の担い手、それも熟練にして上等の達人だ。浮遊の術くらいは容易く、同時に三人の声をそれぞれリアルタイム交信し続ける伝心の魔術を敷いていた。離れた三人の声は、よって間近のごとくに通じ合える。
次に行動。
リオトが正面から屋敷に踏み込み、できるだけ派手に暴れる。囮だ。
シノギは頃合を見て時計塔から屋敷に飛び移り、事前にベルによって探索してもらった花嫁の部屋に侵入する。ベルはその両方のフォローとサポート、そして最も肝要な撤退の準備にあたる。
そして目的。
花嫁に手紙を渡して、あとはトンズラ。仕事終わり。
――と、簡単に言ってのけるが、実際はなかなかに難儀なミッションである。
まず囮のリオトには多くの警備兵が襲い来る。リオトは手練れの剣士で、単純な白兵戦において三人中最強。負けることは考えられないが、万が一はある。
シノギだって花嫁に直接あたる分、最も強力な護衛とかち合う公算が高い。周辺を守る雑魚とは違い、要人の護衛には確実に強者がいる。それが件のノーマン・イェスズであることは昼の下見で確定された。ある意味ではリオトよりも危険が大きい。
ベルだっていつ見つかるとも知れず、バレれば撃ち落とされてしまうかもしれない。入都の際に察知されたのなら、今回もまた発見されてしまうと考えるのは順当。先より念を入れて身を隠し気配を殺してはいるものの、フォローなどに力を割けば歪みが生じて露見は大いにありうる。
なにより、ベルが締めの最大難関を突破できるかが今回において一番の重大事。失敗すれば三人まとめてお陀仏となりかねない。
三人が三人とも綱渡り。下手をせずとも危うく、無謀な挑戦。
それでも、誰一人として悲壮感はなく、気負った風情もなければ恐れも見えない。
むしろ笑って、どうにも楽しげに、なにより誇らしげ――確信している、三人が揃って負けるわけがないのだと。
『じゃ、そろそろ行こうか。ちゃんとおれに繋げよ、しくじったら笑うからな』
『シノギこそ、名うてが相手だからと言い訳は許さないぞ、ちゃんと勝て』
『ふはは。ではでは、派手に行こうかの。わしの術が合図じゃ、愉快痛快な歌劇を魅せてくれ』
そして、屋敷を揺るがす紅蓮の爆撃が巻き起こる。
◇
その爆破は引き絞られ、制御され、そしてなにより隠されていた。
外部には閃光も爆音も届かず、爆炎の赤も見えやしない条理外の隠蔽爆撃。
しかし内部は別で、その威力は本物。
対魔コーティングの施された塀を穿ち、堅牢に作られた屋敷の外壁を砕く。門前から玄関の真横にかけて焼け焦げた新たな通路が出来上がる。
その焦土道を、悠然と歩くカソック姿の男がひとり。
哨戒していた兵たちが急ぎ集結し、参集していく中庭を、リオトはまるで動じずゆっくりと突き進む。
当然、囲まれる。
三十はくだらない武装集団がリオトを中心に陣形を敷き、今もまだどんどん兵が集まってくる。
前後左右、隙間なく囲われて、まるで籠の中の小鳥――しかし、人でできた籠の中に住まうのは小鳥などではなく、修羅だ。
指揮官と思しき男が代表して叫ぶ。敵意と殺意のむき出しな、荒々しい
「何者だ貴様! ここがどこだか弁えた上での蛮行か!」
「カソックを見てわからないかな、通りすがりの神父だ。まあ、俺が誰かなんてどうでもいいだろう」
暗に込められた武装解除の恫喝を丸きり無視し、しかも歩行すら緩めず、リオトは腰に据えた長剣を引き抜く。
見えるよう武器を手にすることで、反抗と敵意を先に伝える。一瞬も立ち止まらないことで、制圧と不退転を予め教える。
その上で、一声かけてやるのは優しさか甘さか。
「俺が誰でも、剣を執った以上はやることはひとつだろう? ならばこそ、痛い目に遭いたくない奴は立ち去るといいぞ」
「ほざいたな、エセ神父。貴様の身元、目的は捕えたあとにでも聞かせてもらおう。そして無論、壁の修理費は貴様の首だ」
それが号令だった。
詠唱していた術師の部隊がまずは魔術の集中砲火。烈火が走り、雷撃が踊り、暴風がのたうつ。
だが撃ち込まれた地点に神父の姿は既になく。
魔術の嵐を背に、リオトは素早く間合いを詰めている。臆すこともなく兵の群れに踏み込んで、その腹中に飛び込む。
疾走とともに刃は銀線を描く。通り抜けるついでに進行方向上の兵を無力化していく。
しかしそれはついで。
本命には真っ直ぐ最短で向かっている。それは魔術師。搦め手で来る術師の排除が乱戦における第一と弁えていた。
――それに、後のことを考えれば絶対に一人も残してはおけない。
位置も数も最初の術撃で把握していた。迷うことはない。
電光石火の攻勢、刹那も留まらぬリオトの移動速度に誰もが混乱し、うろたえている。敵の正確な認識は戦闘における前提であり基本だ。兵の狭間に隠れ、移動し続けるリオトを見つけられないでは戦いにもならない。
個々の兵たちは相対時にその面立ちを拝むが――ここに敵在りと叫ぶ間もなくやられている。そのせいで群体として敵を認めることができない。戦闘に持ち込めない。
軍勢で単独を叩きのめすというのは存外に難しい。
味方の多さで敵が見つからない。無意識に同士討ちを避けて技が小さくなる。攻撃するにもタイミングが噛み合わずに足の引っ張り合いになる。
それは訓練を経て、経験を持ってなしうること。内部で弱い者イジメくらいしか武を振るわぬこんな檻の中の軍では、どうしたって空回る。
そういう難易度を差し引いても、
「ばかげてる……」
あの神父服の強さは常軌を逸している。
着実に兵力を減らし、堅実に攻撃を避け、ただただ一方的に攻め立て続ける。
蹂躙劇のようでいて、それは真正面からの暗殺染みたやり口。
なんとも恐るべき戦闘力、驚嘆すべき戦闘巧者。
気づけばリオトの目的は達成。部隊の魔術師六名、あっさりと蹴散らされて戦闘不能。
もはや残るは直線的な武力戦力のみ。武骨で華のない白兵戦。ならば。
「もう負ける可能性は潰し終えた」
「くっ」
「まだやるのか?」
声はすれども姿は見せず。
敗北を勧告しておきながら、戦闘行為をやめる気配は一切ない。
リオトは油断しない。慢心しない。甘く見ない。
決して立ち止まらず、敵の腹中に潜む。しなやかな風のように掴ませない。そのくせ風のほうからはカマイタチの如く斬撃が乱れ飛ぶ。
本当に、一方的に暴風は軍を蹴散らしていく。
「きっ、きさま――」
なんだ、なんなのだ、これは。この男は。
その挙動は百戦錬磨の経験を思わせ、剣技のキレは一騎当千の実力を嫌になるほど見せつける。そして集団戦闘に手慣れた恐るべき腕前は一体どうしたものか。
このカソック姿の神父は、一体全体――。
「何者だっ!?」
「通りすがりの神父だよ」
涼し気な声で繰り返し、リオトは小うるさい指揮官の意識を刈り取った。
◇
「おっかねェおっかねェ」
摩天楼は時計塔の屋根の上。
眼下で繰り広げられる戦とも言えぬ戦に、シノギは苦笑が隠せないでいた。
リオトの鬼神のごとき強さはよく知っている。その卓越した修羅っぷりも理解している。あのくらいは当然、やってのける。
わかった上で陽動を任せたのだが、実際に無双されると笑みがこみ上げてくるほどに清々しい。
屋敷中の手勢が順々にエントランスに集結していく様が外からでも瞭然だ。おそらくリオトならこのままこの屋敷内の敵を残らず蹴散らすこともできるだろう。
だが、それには時間がかかる。
あまり手間取っていると外部の
それに要人護衛の強者は下が騒がしかろうと持ち場を離れることはない。幾ら待とうとシノギが楽にはならない。
ならば頃合いか。
『ベル、視界共有はバッチリか?』
『うむ、よく見えるぞ。おぬしの左目はわしのものじゃ』
視界共有の魔術により、シノギの左目を通して、その視界に映るものをベルもまた見えていた。無論、それでシノギが視界を減らすというような下術ではない。ベルの魔術師の腕はそのような代償を要さずに共有を可能とする。
『んじゃ、行くぜ。サポート頼ま』
『任せよ。と言いたいが、術を幾つも並行で起動して、そのうえ下準備に余力を割いておるゆえな、あまり期待はするでない』
『期待するさ』
『むっ』
困ったように唸るベルをスルーして、シノギは腰元に据えた刀――二本の魔刀からひとつを引き抜く。
それは夜闇に染まる天にあっても月の柔らかな光を受けて銀に輝く美しき刃。月光を得て妖しく鋭い魔刀である。
シノギは郵便屋だが、ただ物を運ぶだけの安穏なるそれではなかった。
危険地帯すら突っ切って、地獄の底さえ郵便のためならば巡る『
今回、引き抜いた魔刀は脇差。小太刀。
シノギはその魔刀の峰に左手を添え、静かに告げる。
「我が六の魔刀が一刀――『
瞬間、魔力が散った。
時計塔から屋敷まで一直線に、小さな魔力の塊が散布され、固定される。目には見えないなにかが幾つも幾つも空中に発生した。
いや――見えた。
少なくとも、担い手たるシノギと、そして。
『ふむ、やはり何度見ても、透明な板っ切れじゃのぅ』
担い手のみが視認可能な無色透明の薄い段板を空中に創成、固定する。それが『
段板は盾にするには少々頼りないが、床として踏みしめるには上等。そして幾多も創成できる、ゆえに
『下はリオトの奮戦で大わらわ。お月様を見上げる風流なんざ誰もしやしねェ』
言って、シノギは足を踏み出す。見えない階の踏面に足を預ける。
敷く段板は一段ごとに下がり、高低差を埋めていく。降り階段をおりるその姿は、外から見れば空中を歩むという神秘にして驚倒の光景か。
地上の騒乱をまるきり素通りし、シノギは優雅に空中散歩で目当ての屋敷にまで辿り着く。
屋敷三階の窓を蹴り割り、内部に踏み入る。侵入する。
足の裏から伝わる上等な感触のカーペット。視線を回せば高い天井に広い廊下、華美な装飾品の数々。大広間のごとき広々とした廊下というただの通路。手の込んだ金のかかった屋敷であると、その一部だけで判断できる。
ここまで広いなら、小太刀を選ぶ必要もなかったかもしれない。廊下という狭所に長刀は不向きと考え『
シノギは小刀『
計画通りとほくそ笑み、グラスを外す。急ぎ脳裏に花嫁の部屋へのルートを浮かべる。
足音を殺して、かつ迅速に移動。目的地はそう遠くない。
見回りの順路に兵はいない。使用人も見当たらない。無人のような廊下を足早に歩を進め、進め、進め。
ふと、ある曲がり角にさしかかったところで気配が跳ねた。
「……」
ようやく誰かがいるようだ。
頭の中の地図に照らし合わせれば、この曲がり角の向こうに部屋はひとつ。閉じ込めるような奥、仕舞い込むような底――目的の花嫁の部屋だ。
つまりが、この感じる気配というのは十中八九、護衛のそれ――ノーマン・イェスズか。
『ち、便所にでも行っててくれりゃ助かったがよ』
『わしは奇妙な
『へいへい』
そう、この障害を乗り越えねばその先に待つ届け先の花嫁にはたどり着けない。郵便屋としての務めを果たせない。
ならば打倒し、押し通るだけ。
意を決してシノギは角を曲がり、敵と相対する。
「ようこそ、侵入者。ここから先は通行止めだ」
厳かで大きな両開き扉――その前に、立ちふさがるのはただひとりの男。
初老の小男だった。こんな鉄火場でなければ見過ごしてしまいそうな、とりたてて特徴もない風貌。帯剣しているが、殺気立ってはいない。むしろ落ち着いていて、敵前とは思えぬほどに凪いでいる。
静かな自信は垣間見えるが、それにしても思ったよりも聞いたよりも――なんだか風格に欠ける男であった。
シノギもその面立ちは知識として知っている。こいつがノーマン・イェスズ。今回最大の難敵である。
ノーマンは矯めつ眇めつシノギを観察し、ぽつりとこぼす。
「……黒いスーツに魔刀を佩いた、神すら睨み殺す凶眼――噂に聞く郵便屋などと名乗る奇人か」
「へえ、よく知ってるじゃねぇの、『
「ふと耳にして、酔狂なやつだという印象が記憶の隅に残っていたようだ。なるほど聞きしに勝る恐るべき目つきの悪さだな。神すら睨み殺すというのも、あながち冗談とも思えんな」
「睨み殺されたくなけりゃ退いてくれねェか」
「それはできない相談だ」
「あぁそう」
開幕に鐘の音はいらない。
シノギは会話中から腰だめに構えており、言葉を吐き出すと同時に踏み込んだ。
ノーマンは顔色変えずに応対。腰元の剣を引き抜き、奇妙に構える。
側面を向きつつ鋭剣を片手で握り、腕は引いていながら切っ先は牽制のように突き出している。
『
『わかってらァ!』
あの熟達した構えからは刺突が矢のように来る。突っ込んでいくと手痛く串刺しが待っている。
かといってシノギの手札に接近戦以外はない。手にある刃は小太刀でリーチに劣る。疾駆の勢いを殺すのは惜しい。
ならば、反撃されずかつ近寄る手立てを選ぶだけだ。
「――魔刀『
「む」
ぼそりと呟き、握る『
敷かれる透明の段板。その数二枚。
そしてシノギはひたすら前へと走る。すぐ一歩で小さな段差を踏んで、同時に態勢を低くすることで一見して身が浮いていることを気づかせない。
そこで鋭剣の間合いに入り――。
「
瞬間、
突き刺す鋭刃が確かにシノギを捉え――
「なにっ」
二歩目で上方に身を逃す。
それはただ階段を上ったというだけ。特筆すべき事態ではない。
だがノーマンの目には階が見えない。魔力が走った気配は察し、なにか仕掛けたことも読んだ。だがそこまでだ。
――虚空を蹴って真正面から跳び越されるとは思いもよらない。
その勢いのままシノギは文字通り全体重を乗せた真上からの落下斬撃。飛び込むように斬りかか――
「『
「なっ……ぐっ!?」
シノギの脇腹に鋭剣が突き刺さる。
何故。
完璧に回避し、空打ちしたばかりなのに。なにもない空間に刺突剣は伸びているのに。
まるで二本目の刃が出現したような――それその通り。
『腕が、増えた?』
ノーマンの肩口から、もう一本の右手が伸びていた。その手は鋭剣を握り、シノギを突き刺している。
シノギは驚愕を殺してなんとか段板をもう一枚形成。縦向き正面に。
それを蹴り飛ばし、蹴った勢いを利用して後方に退避する。刃が離れる際に苦痛が走るも、それはやせ我慢。顔色ひとつ変えてやるものか。
ノーマンは追わず、再び待ちに徹する構えをとる。右腕は一本に戻っていた。
彼我の距離十歩分ほどで、再び相対することとなる。
すぐにベルが大慌てで叫ぶ。
『しっ、シノギ! シノギ、血! 血がでておるぞ、大丈夫か!』
『この程度、問題ねェよ』
『じゃが、痛かろうが。おぬしは毎度毎度どうしてこう危なっかしい戦い方をしよる! ああもう、わしもそっちに――!』
『いいから。それよりおい、ベル、おれの目はイカレたか?』
『…………』
じっくりと不満に彩られた合間を置いてから、ベルは渋々ながら返す。既に左目を通して見た光景から、
『……否、わしも見たぞ。奴の腕が増えた――いや、あれは腕だけでなく奴自身が重なって増えた? 多重身やもしれん』
「分身の術ってか、東洋の神秘かよ」
「ほう、一合でそこまで見抜くか。その目つきの鋭さは伊達ではないか」
不動の構え、待ちの姿勢のまま、ノーマンは感嘆を口にする
彼は無理に攻めない、下手に動かない。護衛であり、扉の通せん坊ができればそれでいい。必ずしもシノギを打倒する必要はない。
外の騒ぎは気になるが――それはノーマンに課せられたタスクではないのだ。
それを見て取り、シノギは外見上は警戒心を薄めることなく、だが内面では即行をとりやめる。もう少し、ベルの所感と推察が聞きたい。
シノギは実際に戦う役柄だが、左目を通して見ていたベルは観察を役割と分担してある。そのための視界共有なのだ。
『けど、重なって見えたってのはどういうことでい』
今度は声にださず、ベルにだけ向けて問いを述べる。
そのベルはどうも立腹気味。たしなめを含めて説明を加える。
『こら、気を緩めるでないぞ。いいか、一瞬、奴の姿がブレて見えた。見間違いかとも思うたが、違う。おそらく攻撃し、そして分身はそのまま生み落とされたのじゃ。視界内にはおらんが、どこかに潜んでおるぞ』
『ち。じゃあ待ちの姿勢は囮かよ』
ああして待機していることを見せつけつつ、陰で分身をけしかけるつもりか。
セコイ奴だ。
シノギは目を細め、警戒範囲をノーマンから広げる。危うく騙されて奇襲を受けるところだった。
とはいえ、先のシノギの発言への反応からして、ノーマンはこちらが分身に気づいていると思ったはず。そう短絡的には攻めてはこないだろう。
ためしに言葉を投げてみる。
「『
「その通り。重なりし矛盾、私は一にして全、全にして一である。分身などではない、生みだすのは私自身だ」
『うわ、意気揚々と語り出しおった! よほどに己の力――否、
「もしくは馬鹿だな。はん、通り名まで神遺物のそれとか、あんた本当に道具に使われてんな。そんなザマじゃあ三流だぜ、ボケ」
「なんだとっ」
おや、適当な悪口だったのだが、どうやら図星か。
あぁそういえば、彼について聞いた噂が
そして当人もそれを気にしていて――ノーマンの身が僅かに震え、微かに構えが揺れた。つけこめるほどの隙ではないにしても、気は乱れた。攻め時かもしれない。
『時間は限られておる。それに奴がさらに分身体を増やすやもしれん――行くかや?』
『そうだな、テキトーに威力偵察でもしとくから、あんたはもうちょい、相手の神遺物について探ってくれ』
『承知した。じゃが無理はするな、腹の傷も浅くはないのじゃぞ』
痛いの我慢してるんだ、あまり思い出させないでくれ。
とは言わず、シノギはまた『
ノーマンとの間の廊下に見えない段板を複数ばら撒く。
その魔力に気づき、ノーマンから発される戦気が膨れ上がる。
「……来るか」
「行くぜ」
シノギの言葉尻が空気を震わして、直後。
背後から殺意の塊がやってくる。
いつの間に、そこにはノーマン・イェスズが鋭剣を突き出していた。
無論、正面にも奴はいて、つまり分身だ。
凄絶な殺気が剣先に集約され、シノギの心の臓腑を背から穿たんとし。
「セコイ奴なのはもうわかってんぜ」
「っ」
――分身ノーマンの顔面は見えない板に勢いよくぶつかった。
突き刺す挙動は全身を前に押し出すようにして踏み込む。ならば所定位置の虚空に障害物を置いておけば、自ら壁にぶつかりに行ってくれる。
苦々しそうにノーマンは分析する。
「そうか、先から散らしていたのはこれか。貴様の魔刀、見えない足場にして障害物を形成するのだな」
「なんだ、まだ気づいてなかったのかよ」
挑発交えつつ、怯んだ分身ノーマンに刃を突き立てる。
斬り裂いた感触はそのまま人体のそれで、鮮血が飛び散る。
少し、シノギの表情に険が立つ。
「……マナで構成された魔力人形じゃねェ、か」
「言っただろう。生みだすのは私自身だとな。ゆえ、死ぬかこちらでそうせぬ限り消えない」
ぱちりとノーマン本体が指を鳴らすと、斬撃され絶命しかけた分身は消失する。
『ほう、消したか』
続いてそのまま左手が舞う。指揮者のように、右手の不動に反した自由な踊りはなにを意味するか。
シノギは魔力の動きが見えない――ベルには魔力の昂ぶりが視える。
『っ! まずいぞシノギ!』
「なにがっ!」
直後、ノーマンの姿が霞む。ブレる。残像が生じる。
残像などではない。質量を伴い、命を保持し、意志すら持った分身――己自身を複製して生み落とす。
その数、六人!
一斉に廊下を駆け出す。シノギの配置した『
「ちっ、虱潰しかよ!」
無論、設置された罠は確かにその威力を発揮する。一番目の分身の足をとり転倒させる。三番目の分身の腹を打ち据えて身もだえさせる。四番、五番もまた顔面強打で足が止まる。
だが二番目と六番目の分身は止まらない。トラップ設置の地帯を通り抜け、その鋭剣を引き絞る。一斉にシノギを串刺しにせんと飛び掛かる。
「――ハ」
分身ではなく己自身。確かに技量も殺意もオリジナルと何一つ変わらない。完全なるコピーであり、矛盾した重複の同一存在そのもの。
だが、ならばこそ。
「やっぱりものに使われてる詰めの甘さも同じだなァ」
シノギはそこで前に出た。
来たる鋭剣二連刺突に、怯えることもなく自ら突っ込んだ。
突きという所作は引いて伸ばすという動きである。
そして当然ながら、腕を伸ばし切ってこそその技の本領である。そのため間合いの調整が必須で、刀身の長さの把握が前提だ。
直撃すると使い手が判断して放たれたそれは、要は実は酷く繊細な一撃なのだ。
だから、突如シノギが前に出てきたとなれば、その狙い目は乱れる。技が歪んで威が削がれる。
その上でシノギだけは知っている。正面には一枚、
ちょうど切っ先が交錯する地点を盾が遮るようにと、前進の意味はそこにもあって。二つの刺突はまず不可視の板にぶちあたる。
段板の盾はそこまでの耐久性はない。脆く、レイピアの一突きで砕け散る。それでも威力はさらに減衰する。
「いっ」
『シノギっ!』
結局、シノギに二本の鋭剣が突き刺さるも、だが急所は外した。傷も浅い。
反撃できるほどに!
「――たっ、くねェ!」
腕を伸ばし切ったノーマンたちに、次撃はない。攻撃直後で回避も無理。
あっさりと、その喉を裂かれてふたつ命を散らす。
「っ……ァ」
死した分身ノーマンたちに苦鳴なく、断末魔の悲鳴もない。
代わりに――離れた位置で、攻撃に参加してすらいなかったはずのオリジナルのノーマンが微かに呻いたのを、シノギは聞き逃さなかった。
そして、ベルもまた見逃さなかった。
『カラクリが視えたぞ。分身は魔力を割いて造られておる。そして、死してはじめてその込めた分の魔力が散るという寸法であったのじゃ』
先ほど自主的に分身を消失させたのは魔力の回収の意図であったわけだ。
『そして分身一体に注がれた魔力は莫大。一体分損失しただけでも眩暈を引き起こすほどに!』
「そいつァいいやな」
シノギは死したふたりを振り払い、即座に転倒している一番目の
するとまた、オリジナルの表情が崩れる。ベルの目からは魔力がごっそり失する様がわかる。
「く――きさまっ」
『確定じゃな』
つまりこれ以上の分身はないと見ていい。
おそらく先ほどのシノギの挑発に全力を注いだのだろう。それで限界まで分身をだしてしまった。それが諸刃の刃と知っていながら。
――ベルの見立てでは、残る分身全てを打倒しえれば、本体は魔力欠乏をおこして意識を落とす。
神の遺物などという強大に過ぎるものを、人がそう易々と使いこなせるはずがない。
「だったらよォ、こっちも手札全部切るぜ!」
『
魔力量が底をつく、その限界手前で術理は完遂される。バレバレとなっても構わないその設置箇所は。
「なっ、……これは!?」
「呑気かまして立ち往生してるからだぜ、三流!」
新たに段板の形成されたのはノーマンの正面、両側面、背面、そして上面。取り囲むように、閉じ込めるように、透明の籠に封じ込める。
その、『
魔力消費が荒く、集中に数拍要する。ここでしくじれば後がない。だが、切り札は切り時に切ってこそ。
無論、残った分身たちも同様に段板は囲んで動きを束縛する。
それは力をこめて、魔力をこめて、破壊に専念すれば瓦解する拙い封鎖。だが、ガチガチに固めた不自由なんかは好みではなく、だから僅かの好機を得られればそれで充分。
「どうだよ、狭苦しいだろ。そりゃこの都市で生きる小鳥たちの本音かもな――知らねェけどよ!」
叫び、シノギは走る。
傷を負っても足は乱れず、痛みがうるさいけれど斬撃は揺るがない。
身動きできず、驚愕に飲まれた雑魚など相手にならない。小太刀は華麗に閃き、三人のコピーを斬り伏せる。
それだけで、この戦いは決着。
ノーマン・イェスズは最初の立ち位置から一歩も動くこともなく――倒れ伏して意識を失った。
それは魔力の枯渇による束の間の死にすら等しい昏睡だ。何が起こっても数時間は目覚めないであろうし、目覚めても場合によっては後遺症すら残るだろう。
ベルは侮蔑のように鼻で笑い飛ばす。
『魔力切れとは、なんとも呆気ない幕切れじゃな』
『ハ、道具に使われてるだけの三流にゃ似合いの不様ってもんよ』
ちなみに魔術師にとって魔力切れによる昏倒はこの上なき大恥であり、プライドの高い者なら自死すら選びかねない。
彼は傭兵だが――言ったように不様な負け姿なのは否定の余地もない。
『道具を己の力と過信し勘違いするのは確かに三流やもしれんな。ちなみに一流は?』
『使いこなしてようやく二流、そんで一流ってのは道具と対等。使い使われ臨機応変、適材適所ってな』
『なるほど』
そんな三流野郎であっても一流の傭兵と謳われる。神々の遺した魔道具とは、それだけ恐ろしくおぞましい。
人の手には余る小さき神そのものだ。
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