異世界での目覚め

『――×○*+#%$を適応します』


 まず感じたのは、自分の体を優しく包み込んでくれている、羽毛布団の様な物の感触だった。

 それはとても柔らかくて、フカフカしていて、それに体全身を包まれていた俺は、もう一度このまま寝てしまいたい衝動に駆られる。だが、そこで瞼を閉じたままの視界に眩い光が差し込んできて、体を蝕んでいた眠気が一気に吹き飛ばされた。

 急速に頭が覚醒する。浮上する意識に釣られるように、瞼を開く。


「……眩しっ」


 ずっと眠っていたからか、光に慣れていないらしい視界が数秒間明滅した後、俺は自分が見知らぬ部屋の、見知らぬベッドの上に寝かされている事に気が付いた。


「どこだ……ここ」


 少々古臭い雰囲気のする個室だった。

 四方六メートルほどのこじんまりとした間取り。そこに置かれているのは、今の今まで俺が寝ていた染み一つない真っ白なベッドに、ピアノに似た、たった十の鍵盤だけが並んでいる楽器。そして直径で60センチも無いだろうという小さな木製の丸いテーブルに、それと対を成しているのであろう、これまた木で出来た小さなイス。

 ベッドのすぐ傍の壁にはガラス窓が取り付けられていて、明るい陽の光が部屋の中に注ぎ込んできている。そして、その窓の対角線上に一つだけドアが付いている。

 そんな部屋の壁や天井、床は全て同一の茶色の木材で出来ていた。壁には絵の一枚も飾られていないし、天井には照明器具の一つも無い。辛うじてテーブルの上には三輪の赤い花が生けられた花瓶が置かれているが、それだけではいささか部屋全体がいろどりに欠ける気がした。


(なんか寂しい部屋だな……生活感が無いっていうか……ここが異世界、なのか?)


 はっきりとした記憶がある。自分が死んで、神に出会って、異世界に転生できると知って、両親に別れを告げた――そんな、記憶が。

 その記憶に基づいて考えるならば、俺はもう異世界にいると考えるべきだろう。

 しかし、この部屋の内装は元いた世界のそれとそこまで大差ないようにも見える。だからか、今自分が違う世界にいるのだという実感があまり湧いてこない。


 それどころか、実は俺はまだ地球にいるのではないかという気さえしてくる。だが、それはきっと勘違いだろう。自分の着ている服を見れば一目瞭然だ。今の俺は、元いた場所――日本では日常的に着る事は無いであろう格好をしているのだから。

 下は、スウェットにも似たピチリと肌に張り付くような生地で出来た黒の長ズボン。そして、上はどこぞのファンタジーに出てきそうな、ジャケットのようなデザインの茶色の皮鎧。その下には、少し重量感を感じさせる、ぶ厚い黒い肌着――。

 それはファンタジーゲームの主人公さながらのコーディネート。もし、日本の街中でこんな格好をしていれば、周りから白い目で見られる事は間違いない。俺だって、好き好んでこの格好で外に出たいとは思わないし、自主的に着る事はないと思う。多分。


(……って事は、やっぱりここは異世界……なんだろうな)


 何故、異世界に来た途端、着用している衣服が変わったのか――とか、俺の頭の中に服装に関する疑問がいくつか思い浮かぶ。だが、俺はそれを一旦思考の端に追いやった。


 そして、ベッドの上に腰かけたまま、すぐ傍の窓から外を見る。

 視界を深緑色が占領した。窓のすぐ外には、何もない開けた場所を挟んで、深い森が広がっていた。

 森の中は鬱蒼と茂る枝葉のせいで太陽の光が届いていないのか、やけに薄暗い。

 何も見通せない薄暗い世界がそこには広がっていて、そんな森の中に木が一切生えていない、それなりに広い円状の土地があり、そこの中心にぽつんと俺がいる建物が建っている、というのが現在の状況のようである。


 まるで外界から拒絶されているように深い森の中に佇むこの建物だが……どうも様子がおかしい。

 人の気配が無いのだ。物音一つもしない。


「すいません! 誰かいませんか?」


 俺は声を張り上げ、誰かいないのかと周りに呼びかけた。しかし、俺の呼びかけに返ってくる声は無く、辺りには静寂が広がっていく。


「本当に誰もいないのか……?」


 そう呟きながら、それはあり得ないと、俺は内心で自分の言葉を否定した。


 俺がそう考える根拠は二つ。

 まず第一に、ベッドがやたらと綺麗である事。

 次に、この部屋の中に目立って埃が積もっている場所が無い事。

 これらの事実は、この部屋が今も誰かの手によって管理されている事を明確に示している。つまるところ、この部屋を管理している『誰か』がいるという事だ。

 そうだ。誰かがいる……ここには、誰かがいるはずなんだ。


 その『誰か』がどんな人なのかは分からないが、この状況下では俺にはその人物にとりあえず会ってみる、という選択肢しか残されていない気がする。

 それに、ここからどうすればいいかなんて今の俺には分からないし、『こっちの世界』がどんな所なのか、そしてここが『どこ』なのか――探ってみたい疑問も幾つかある。そういった面で見ても、ここを管理しているらしい『誰か』を探すというのは悪くない選択肢であるように感じられた。


「……行くか」


 自分だけが聞こえるほどの小さな声で気合いを入れ、ベッドを降りる。

 勿論着替えなどは持っていない。俺は着の身着のまま部屋を後にした。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 部屋を出た後、俺は30分ほどの時間をかけて建物の中を探索した。


 何故、建物一つを見て回るのにこれだけ多くの時間を要してしまったのか……理由は単純明快。この建物が俺が当初想像していたモノよりもはるかに大きく、広く、全ての場所を見て回るのに多くの時間を要してしまったのだ。

 その規模たるや、壁を木材にしたトスカーナスタイルに酷似した内装の様式も相まって、正しく『屋敷』あるいは『豪邸』と呼ぶにふさわしい程のものだったと思う。

 屋敷には一階と二階、そして地下の3つの階層があり、俺は二階から下に降りるようにして順番に、全ての部屋を虱潰しにしながら屋敷の中を探し回った。

『誰か、いないですか』と――そう辺りに呼びかけながら。


 しかし、中々ここの住人は見つからなかった。それどころか、この屋敷には、ここ最近誰かが『いた』という形跡さえ残っていなかった。


 ……確かに、俺が目覚めた部屋は綺麗過ぎる程綺麗に整頓され、清潔に保たれていた。それは屋敷全体にも言えることであり、数えるのも億劫になるほど数が多い客室(俺が目覚めたのも数ある客室の一室らしい)だけでなく、各階に一つずつ配備されている浴場や、これまた各階に3つずつある便所、更には各部屋を繋ぐ長く薄暗い廊下に至るまで。この屋敷の中の全ての場所で、俺はゴミ一つどころか塵一つも見つける事が出来ず、浴場や便所においては水滴や水垢の一つも見受けられなかった。

 そう。人の出入りがあるのであれば、見つかって然るべきのありとあらゆる痕跡が、この屋敷の中には何一つ残っていなかったのである。


 そんな屋敷の内部を垣間見ていく内に、始めは『綺麗に掃除されているな』というぐらいにしか感じていなかった俺も、次第に違和感を覚えていった。

 おかしい。何かがおかしい。この屋敷は、何かが決定的にずれている。

 ……人がいないなら、ここはもっと荒廃しているべきじゃないのか。

 荒廃していないのなら、少なからずこの屋敷には人の出入りがあって、誰かがこの屋敷を管理しているという事になるはずだ。だが、そのように人の出入りがある場所がこんなにも『綺麗過ぎる』なんてことはあり得るのか――。


 徐々に肥大化していく疑問。それを胸中に抱きながら屋敷の中を探索していた俺は、最後の最後に訪れた部屋――地下にあった一室で、ようやく一人、ここの住人らしき人物を見つけた。


 それは、椅子に座って眠り続ける、メイド服を着たうら若き女性だった。

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