とある神話と日常の終結

「さぁ、そろそろ時間だ」


 体感で数十分ほどの時間が経った頃、神はタイムリミットを告げてきた。

 閉眼し、思考の海に身を投じていた俺は奴の声に反応して目を開ける。


「気持ちの整理は……付いたみたいだね。それにその目……覚悟も決まったみたいだ」


 奴の言葉に俺は頷いた。


「俺の命は両親から貰った物だ。もし、それがまだ存命する可能性があるなら、俺はそれに縋りたい」


「それが例え、これまでの世界の常識は通用せず、これまでとは比べ物にならない程の苦難にまみれていたとしても、かい?」


「勿論……って、待て。ちょっと待て」


 ――俺、そんなヤバい世界に送られちゃうのかよ。

 そう思って内心尻込みしていると、神はクスクス笑いだした。


「冗談冗談。冗談だよ。そりゃ、君の世界と違う所は幾らかあるけどね」


「はぁ……慌てて損した」


 胸を撫で下ろす俺に、神はニコリと笑いかけてくる。そして奴は手を一つ叩くと、


「さぁ、ともかく君は異世界で生きていく道を選んだ訳だ。そんな君には早速、異世界に行ってもらいたいんだよね」


「早速って……」


 何とも急な話だな。


「まぁ、僕もそう思うよ。けど、そう悠長にできない理由があってね……っと、そう言ってる内に、もうか」


 さっきまでの何処かぼんやりとした微笑みを浮かべた表情から一転、唐突に鋭い視線を宿した神の双眼が、真っ白い世界のとある一点を見つめ始める。そして奴はどこか忌々しそうな声色でそう宣った。


 神の視線に釣られ、俺も奴が見つめる方へと視線を向ける。

 すると、そこには何かが存在していた。

 三百六十度、何処を見ても真っ白で、俺と目前の『神』以外如何なる物も存在しなかったここにおいて、およそ初めて見る『異物』。

 最初視界にとらえた時はあまりにも小さすぎて、『それ』が何なのかよく分からなかった。だが、よく目を凝らしてみると、『それ』が定まった実体のない、黒い影のような物であるという事が見て取れる。

 その黒い影は徐々に大きくなっていて、その様は周りの白い空間を喰らって黒い影が成長しているかのようにも見えた。


「――何だよ、あれ……」


 俺はその黒い影から何か嫌な感覚を覚えて、思わず顔を顰めた。不気味、かつ未知。禍々しく、どこか近寄りがたい黒い影。それから発せられている『気配』は凶悪その物であり、気を抜くと所かまわず発狂してしまいそうな、危うい気分にさせられる。


「うーん、これはマズいね」


 顎に手を当てながら、神は唸った。


「思ったよりも活性化の時期が早すぎる。もう、あんなに力を取り戻してるなんて、思っても見なかったなぁ……」


 奴の態度は言葉とは裏腹にどこか余裕を感じられる。鋭い視線が失せ、再び丸みを取り戻した奴自身の表情も余裕を感じさせるのに一役買っているのかもしれない。


 対して、俺には余裕なんてものはこれっぽっちもなかった。

 黒い影を視界にとらえてから体の震えが止まらないし、体中から冷や汗が噴き出してくる。独りでに過呼吸になりそうな自分を落ち着けさせるのでもう精いっぱいだ。

 スゥハァ、と一つ深呼吸。少し、体の震えが落ち着いたような気がする。


「この様子じゃあ、あまり時間は無さそうだ」


 黒い影を見据え、ポツリとつぶやいた神はこちらに視線を戻した。


に見つかった以上、もう僕らに悠長に話している暇は無い。今すぐ、君には異世界に飛んでもらわなくちゃいけない」


『あれ』って、黒い影の事か。


「……あれは一体何なんだ?」


 俺が問い返すと、奴は少し困ったような表情を見せた。


「あれは……そうだな。僕とは真逆に位置する存在、と言うべきなのかな。あれにおおよそ正式な呼称は存在しない。ともかく君も感じているだろうけど、あれは唯々、邪悪なものなのさ」


 要領の得ない返事を返してきた神は、次いで俺から視線を外し、先ほど出現した扉を見た。


「さぁ、問答はここまでだ。君はあの扉をくぐると良い。あそこが異世界への入り口だ」


「俺はあそこを潜るとして……お前は、お前はどうするんだ?」


 あの黒い影は段々と大きくなっている。徐々に、徐々にその体積を増やしている黒い影の末端は、確実にこちらに近づいてきているのだ。しかもその成長速度及び、侵攻速度が中々に速い。少なくとも、俺にはあの黒い影から逃げきれる自信は無い。そして、あの黒い影に捕まればどうなるか……よく分からないが、何か良くない事が己の身に降りかかる事は確実だろう。あれはそれを確信できる程の禍々しさを秘めている。


 しかし、そんな恐ろしい存在を前にしても尚、神は笑って見せた。


「僕は神だ。君に心配される程、弱い存在じゃないさ」


 言って、奴は俺の背中を押した。咄嗟の事で俺はそれに抵抗できず、前につんのめってしまい、いつの間にやら扉の前へ。

 俺はそのぞんざいな扱いに思わず文句を言おうと振り返る。だが、神は既に俺の方では無く、黒い影の方を見ていた。奴は相変わらずの笑みを浮かべているが、その双眸は思わずゾクリとしてしまうほど細く絞られていた。それはまるで、長年の宿敵を前にしているかのようにも見える。


「あぁ、そうだ。一つ言い忘れていたことがある」


 と、黒い影からは視線を逸らすことなく、奴はが唐突に語り掛けてきた。


「このまま誰に言うでも無く一人で見知らぬ土地に往くのは心細いかと思ってね。一つ君にサプライズを用意しておいた」


「サプライズ?」


「うん。それが何か……それは、あの扉を潜ってみればすぐに分かるよ。……だけど、気をつけてくれ。『そこ』は少しばかり不安定な世界だ。あまり多くの時間、君をそこに留めておくことは出来ない」


 奴の説明は先のと同じように要領を得ないもので、俺は再び質問をぶつけようかと思い至る。だが、そこで黒い影の巨大化が爆発的に加速し始めた為に、それは断念せざるおえなかった。


 その内部で爆弾が爆発しているかのように、黒い影の表面があちこちボコボコと隆起する。そして、次の瞬間にはまた別の場所が隆起するという繰り返し。自然、黒い影は加速度的に膨張していく。その体積は瞬き一つの僅かな時間で、二倍にも三倍にもなっているかのようにさえ思えた。

 しかも、変化は見た目だけじゃない。黒い影の肥大化に比例するかのように、奴から感じる『気配』も大きく、強くなっていく。その『気配』に当てられた俺は、思わず両手を固く握り、歯を食い縛った。そうしなければ、自分は本当に発狂してしまうのではないかと訝しんだから。


 ――それほどまでに、あの黒い影が放つ『気配』は禍々しかった。


 しかし、奴は――神である奴は、その気配を前にしても、どこか飄々とした態度を崩しはしなかった。


「――さぁ、行け」


 大きな動きを見せる黒い影を見据え、神は厳かに言い放つ。


「その扉を通って早く行くんだ、戸上裕翔。あいつは、今の君とっては余りにも荷が重すぎる」


 奴の言う事は正しい。本能的に分かる。理解させられる。

 俺はどう足掻いたところで、『あれ』には太刀打ちできないのだと。何と言えばいいのだろうか。とにかく、格が違う。生物としての格が。あるいは、存在そのものとしての格が。俺と『あれ』とでは、その格にあまりにも大きな差がある。


 つまるところ、結局、俺には奴の言葉に従うしか道は残されていなかった。


「……分かった」


 ――正直、何がどうなってるのか、全てを完全に理解できているわけでは無いけれど。もう、迷っている暇は無い。賽は投げられた……と言うべきか。ともかく、後に引くことが出来ない所まで来てしまっている事だけは確かだった。


 扉の方へと振り返り、ドアノブに手を掛ける。

 俺は、そこで一瞬躊躇した。『本当に『神』は大丈夫なのだろうか』とか、その他諸々の不安が頭の中に過ぎる。だが、すぐにそれらを否定し、ドアノブを捻った。

 ガチャッと軽い音を立てて扉が開け放たれる。その先に続くのは、光の世界。眩いばかりの光、その瞬きが、俺を向こう側の世界へと誘っているように思えた。


「願わくば、君の行く末に光を。そして、その光が次世代へと受け継がれんことを」


 背後から聞こえる神からの激励。それに背中を押されるようにして俺は扉を潜る。

 刹那、光が視界を埋め尽くし――やがて何も見えなくなった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「――行っちゃったか」


 今しがた一人の少年が潜り抜けていった扉を見ながら、『神』は小さく言葉を漏らした。次いで溜め息を一つ吐き、彼は今も膨張を続ける黒い影と相対する。

 その右手には、いつの間にか刃渡り70センチにもなろうかという、少し長めの剣が握られていた。

 鋭くとがった純銀色の刃が己の存在を主張するかのように輝き、シンプルなデザインで彩られたこれまた純銀色の柄が、得も言えぬような神秘性を剣に付加している。


「これを扱うのは何百年……いや、何千年振りかな。……僕みたいな老体にこの剣の力は刺激が強すぎるんだけどな」


 ぼやきながらも、神は黒い影へと一歩近づいた。

 その瞬間、黒い影が動きを見せる。グチュグチュと生理的嫌悪を催すような不気味な音を立て、これまでは何だったんだと思わせるような速度で肥大化。体積が一瞬の内にそれまでの二乗、三乗……それ以上の大きさと成り、あっという間に白一色だった世界を真っ黒に塗りつぶしていく。

 もはや、彼の前に有るのは、『黒い影』という陳腐な存在では無い。――『黒い世界』。そう呼ぶにふさわしい程の大きさを誇った、不気味なナニカであった。

 そして、その巨大な存在が目前に存在する小さき『神』を見逃すはずも無く。


『ガアァァァァァアアア!』


 どこから出しているかも分からない鳴き声のような音を立てながら、『黒い世界』は自身の体表から幾つもの真っ黒い触手を伸ばした。間髪入れず、それらを『神』へと突っ込ませる。その数、数十では終わらない。何百、何千――常人では到底目で追えない程の数の暴力が『神』へと迫っていく。


 しかし、


「へぇ……こりゃ、先に彼を逃がしておいて正解だったかな――っと!」


 ――剣を、たった一凪ぎ。剣を一度、横に振るっただけ。


 たったそれだけの事で、彼は辺りに強力な大気の渦を巻き起こし、自身に迫っていた無数の黒い触手のことごとくを殲滅した。


『ギィイイイイ―――!』


 自身の攻撃を呆気なく躱された事に腹を立てたのか、『黒い世界』は自身の体表を大きく波立たせた。すると、その挙動だけであたりの空間が振動し――パキパキ、と、嫌な音を立てながら空間の一角が割れ始める。その勢いは留まるところを知らず、終いには空に大きな穴が開いた。


 真っ白な世界に開いた、大きな穴。その内部は深淵の如き黒い世界が広がっていて、そこから幾本か真っ黒い腕が飛び出してきた。

 腕の数はそこまで多く無い。

 だが、その一本一本が『黒い世界』とは比べ物にならない程の途轍もない禍々しさを秘めている事に気が付いて、『神』は急いでそれらを迎撃する。


「――――――――ッ!」


 無言の気合いと共に刃を一閃。再び大きな渦を巻き起こし、こちらへと向かってくる腕を殲滅しようと試みる。

 だが、それでは力不足だと言わんばかりに腕は渦を突き破り、尚も『神』へと向かって突き進んでいく。

 そんな様子を見て『神』は小さく呟いた。


「これは……出し惜しみしている場合じゃなくなったかな?」


 次いで、彼は自身の右腕に収まる剣を見た。


「……『これ』を使っちゃうと、また数年『眠る』ことになっちゃうから……出来れば使いたくなかったんだけどな……まぁ、贅沢は言ってられないか」


『神』はまるで他人事のようにそう言い、剣を自分の頭上で構えた。

 途端、彼の周りに光球が発生する。無数の光球。――数えきれないほどの『光』。

 それらは突然世界に顕現し、彼の周囲を取り巻いた。


「――【遠き過去より来たる異人の聖者らに請う】」


 幾重も重なって形成される光の渦の中で、『神』は調べを謳う。


「【我は愚者なり、我はただの人なり】」


『神』が謳うたびに、彼の周りを周回していた光球が彼の掲げる剣へと吸い込まれていく。光を吸収した剣は輝きを放ちはじめ、見る物すべてをひれ伏させる様な神々しさをも纏い始めた。


「【そなたらには遠く及ばない、ただの人なり】」


 直後、『黒い世界』が、穴から飛び出てきた『黒い腕』が――『神』の視界に映る黒い存在全てが、唐突に狂乱しはじめた。まるで塩を振りかけられたナメクジのようにもだえ苦しむ動きを見せ、言の葉を紡ぎ続ける『神』を強襲する。


「【故に我は請う、そなたらの力を請う、猛々しくも神々しい、そなたらの力を請う】」


 だが、『神』は動かない。彼は調べを謳い続け、遂には彼の周囲にあった光球が全て剣に吸収された。純銀色の剣が放つ輝きは、最早直視できないほどにまで増幅されている。

 そして、『神』の目前にまで迫った『黒い腕』が彼に触れようとした――その時。


「【過去の聖霊らよ、矮小なる我が身に破邪の加護を】」


『神』は調べを謳いあげた。


「――【祓え、神聖剣】」


 一歩、足を踏み込み――目前の空間を一刀両断する。

 振り下ろされる剣先。それはすぐ傍まで迫っていた『黒い腕』をいとも簡単に切り裂く。

 それから間髪入れず、振り下ろされた剣先から光の奔流が迸り――世界は光に塗りつぶされた。


『ギャアァァァァアアアアア!!』


 響き渡る、黒き存在の断末魔。


「再び泡沫の夢を見ろ。。何、心配はいらない。今度は僕もお供するさ」


 何も見えない世界の中で、『神』は黒い存在に語り掛けた。


「――だから、夢を見よう。今の僕たちは他でもない、ただの傍観者なんだから」


 ――やがて光の奔流はその勢いを終息させ、世界は白い姿を取り戻す。


 その世界にはもう、何者の姿も無かった。


 黒い存在は全て消え失せた。


『神』を名乗る少年もまた、どこにもいない。


 ――世界は、本当の意味で『真っ白な世界』へと成っていた。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 ――扉を開けた先の、光の世界。眩いばかりの閃光が当たりを埋め尽くす、単調な世界。


 そこには一本だけ道があった。

 その道は扉を潜り抜けたすぐそこから始まっていて、俺は特に迷うことも無くその上を歩き始めた。

 ゆっくり、時にはペースをちょこっとだけ変えながら、俺は道なりに光の世界を進む。

 途中でこの一本道から逸れようかと思った時もあった。何回か。だが、結局道を逸れるような事はしなかった。何と言えばいいのだろう。何となく、この道を逸れて行ってはいけない気がした。固定観念とでも言えばいいのだろうか。何か違う気がする。

 そんな比較的どうでもいい事を考えながらしばらく歩いていると、俺は道の往く先に二つの人影が立っている事に気が付いた。


「あれは……」


 その人影には見覚えがあった。彼らが誰なのか……それを理解した瞬間、俺は神の言っていた『サプライズ』の意味を悟った。なるほど。確かにこれは『不意打ち』だ。

 次の瞬間には、俺は逸る自分を抑えきれず、地を蹴り、人影に向かって駆けだしていた。

 近づいて来る俺に気が付いたのか、二つの人影の顔がこちらを向く。


「「裕翔……ッ!」」


 彼らは信じられないと言った表情を浮かべ、俺の名を呼んだ。

 耳朶を打つ、懐かしい声。毎日聞いていた声。間違いない。間違えようがない。


「――母さん、父さん!」


 そう呼び返しながらも足を止めることなく、俺は人影――両親達の元へとたどり着いた。

 対して二人は、まるで幽霊でも見ているような呆気にとられた顔で俺を見つめてくる。

 だが、それも一瞬の事だった。


「「――裕翔ッ!」」


 目に一杯の涙を蓄え、正に号泣寸前といった様子の父さんと母さんは、再び俺の名を叫び、いつかのように俺の体を強く抱きしめてくる。今回ばかりは俺も二人には抵抗しなかった。あるがままに両親の抱擁を受け入れ、こちらからも二人を抱きしめ返す。

 いつの間にか、俺の頬には熱いものが伝っていた。それは次から次へと際限なく瞳から溢れ出してくる。その勢いは留まるところを知らず、俺は年甲斐も無く、幼い子供のように泣いた。

 母さんと父さんの状況も似た様なものだ。二人とも自らの涙腺を御しきる事が出来ておらず、目元を真っ赤に染めている。二人のこんな顔を見るのはいつ以来だろうか。少なくとも、ここ数年は見ていなかった気がする。


「裕翔……本当に裕翔、なのね?」


「うん……そうだよ。母さん」


「だが、裕翔……お前は……あの時……」


 父さんの言葉はそこで途切れた。だが、父さんが何と言おうとしていたのか、それは手に取る様に分かる。

 俺は父さんの言葉に頷いた。


「あぁ。父さん。俺は……もう死んでる」


「裕翔……」


「……ゴメン。いきなりこんな事言われても、反応に困るよね」


 俺の言葉に、父さんと母さんは何か言おうとして、結局は何も言えず、二人そろって口を噤んだ。しょうがない事だと思う。もし、俺が二人と同じ状況に置かれたとすれば、俺もまた二人と同じ行動を取っていたに違いない。

 だから、俺は父さんと母さんの返事を待たずに口を開いた。


「けど、聞いてほしい……多分、俺がこうして二人と話せるのはこれが最後の機会になると思う……俺、父さんや母さんに話したい事、一杯あるから」


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 俺がこの世界にやって来てから、一体どれくらいの時間が経ったのだろう。

 正確な時間は分からない。

 体感的に言えばほぼ一瞬だったけど、実際にはそれなりの時間が経っていたと思う。

 その体感的には一瞬にも感じてしまえる時間の中で、俺は父さんや母さんと沢山話をした。


 俺が死んだこと。

 死んでから『神』を自称する人物と出会った事。

 その『神』によって、きっと今、俺と父さん母さんは話が出来ているという事。


 ――話はそんな所から始まり、これまで伝えられなかった感謝の言葉を二人に贈ったりもした。


「俺をここまで育ててくれてありがとう」……俺が二人に贈ったのは、そういった在り来たりで良く耳にするような言葉ばかりだったけど、二人は涙ながらに頷いて「産まれてきてくれてありがとう」と、そう返してくれた。


 少し、涙が零れた。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 ――この時間がいつまでも続けばいいと思った。


 父さんと母さん。たった二人の家族に囲まれ、一家団欒と雑談を続ける。そんな時間がずっと続けばいいと思った。何も考えず、何も心配することのない、優しい時間。案外、俺が本当に求めていたのは、こういう穏やかな日々なのかもしれないと、そう思った。


 しかし、分かっている。こんな時間がもう長く続くことは無い。


『だけど、気をつけてくれ。『そこ』は少しばかり不安定な世界だ。あまり多くの時間、君をそこに留めておくことは出来ない』


 扉を潜る直前、『神』は言った。

 その言葉を鵜呑みにするなら、俺がここに居られる時間には絶対的な制限がある。

 それが如何ほどの時間なのかは分からないが、今こうして二人と言葉を交わしている間にもタイムリミットが刻一刻と迫っていることは確かだ。


 だから、俺は願っていた。『この時間がいつまでも続けばいい』と。きっと、それは叶わない願いなんだろうけど、願わずにはいられなかった。唐突な両親との別れは、一言では表せない程の想いを俺の胸の内に蔓延らせていたから。

 けど、無情にも時間は流れて行って――そして、その時はやってきた。


「裕翔、その体……」


 丁度、話が途切れた瞬間、母さんが唐突に俺の方を指差しながら言った。隣では、父さんもこちらを見て目を見開いている。

 そんな二人に釣られ、自分の体を見下ろして、俺は顔を顰めた。

 俺の体は発光していた。湧き出る光は、蛍光灯の様な強いものでは無い。一夜だけ命の灯を燃やす蛍の様な、仄かな光だ。

 そして、微かに光る俺の体は、その材質が全て窓ガラスにでもなり替わってしまったかのように、透けている。


 ――明らかに普通では無い。

 俺は自分の体を見下ろし、その状況を理解するとともに、『その時』が来たことを悟った。

 即ち、両親との別れ。そして、異世界へと旅立つ時が来たのだと。


「――あぁ、そっか。父さん、母さん、もう、時間が来たみたい」


「それは……どういう事だ?」


 俺の呟きに父さんが反応して、質問を投げかけてくる。


「ここに来る前に『神』を名乗る奴と会ったってことはもう言ったでしょ。そいつが言ってたんだ。俺はここには長時間留まる事が出来ないって。つまり、はそのリミットが迫ってるってこと……なんだと思う。だから、多分俺はもうすぐ消える」


 俺が自分の腕をポンポンと叩きながらそう言うと、母さんは再び涙をにじませながら問いかけてくる。


「消えた後、裕翔はどうなるの?」


「『神』が言うからには、普通なら輪廻の流れに巻き込まれて、記憶を失って新たな生を得るらしいんだけど……俺は地球じゃない、また別の世界で生きる事が出来るんだって」


「別の世界……」


「うん。だから、心配しないで。……いや、心配するなってのは少し無理があるかもしれないけど。ともかく、父さんや母さんとはもう会えないかもしれないけど……俺、生きてるから。二人に貰った命で、俺はちゃんと生きていられるから。だから――」


 ――『もう、泣かないで』。そう言おうとした俺に、辛抱堪らんといった様子で父さんと母さんが抱き着いてきて、俺は慌てて二人を抱き留めた。


 父さんと母さんは、静かに泣いていた。二人は目を閉じ、自分が触れているモノの感触を味わい尽くし、それを魂に刻みつけているようにして、静かに、静かに、強く俺の体を抱きしめてくる。

 二人の抱擁の力は思ったよりも強かった。だからか、少しばかりの息苦しさを感じる。けど、そんな事は今は気にならない。俺も二人の力強さ、感触を己の魂に刻み込む。


 ――きっと、これから先、俺は父さんと母さん……十六年を共に過ごしてきた家族と会う事は無いだろう。どんなに辛いことがあっても、これまでのように二人に癒してもらう事は出来ないし、どんなに嬉しいことがあっても、これまでのように二人とその思いを共有する事は出来ないだろう。

 もしかすると、その事実は、俺に壮絶な孤独感を覚えさせるかもしれない。そして、その孤独感は俺の心を折ろうとしてくるかもしれない。

 だけど、この感触を覚えている限り、どんなに孤独を感じようとも、きっと俺の心は折れる事は無い。どんなに離れていても、確かに俺には家族がいるのだと思い出すことが出来るから。


 ――だから、大丈夫。

 その確信を胸に刻んで。俺は顔を上げ、二人に語り掛ける。


「母さん」「……うん」「父さん」「……あぁ」「俺、向こう側でも頑張るから」「……うん」「……あぁ」「だから、もう泣かないで……俺も、もう泣かない。それに、せっかく最後にこうして会えたんだから、涙の別れなんて……何か嫌だよ」「……うん」「……そうだな」


 俺の言葉に二人は頷き、目元をゴシゴシと擦って涙を拭った。二人は――そしてきっと俺も、目元は真っ赤に腫れているけど、涙はもう流れていない。誰も、涙は流していない。

 それを確認して、俺は二人ににっこりと笑いかけた。すると、父さんと母さんも笑い返してくれる。二人の笑顔は、泣いた直後だからかいつもよりもほんの少し不細工に見えた。


 その、直後。


 足の感覚が唐突に希薄なものとなる。

 咄嗟に見下ろすと、自分の足の先が無くなっていた。丁度くるぶし辺りまで。くるぶしから上は相変わらず透けてはいるが、まだそこに『ある』。……いや、あることはあるが、『ある』部分と『無くなった』部分、その境界線は徐々にせり上がってきている。

 消えている。俺という存在が。少しずつ、少しずつ。足先から。


 父さんと母さんもその事に気が付いたのだろう。二人は俺の足元を見つめた後、『行くんだな』と、俺の目をのぞき込んできた。

 俺は頷いた。まだ、未練は残っているけど。行かなくちゃいけない。

 けれど、その前に二人にはお願いしたいことがある。だから、


「……最後に、一つだけお願いしても良い?」


 と、俺が聞くと。


「あぁ。勿論だ」「なに?」


 と、二人は問い返してくる。

 この時、俺の頭の中には、一人の少女の姿が……死ぬ直前、俺が迫る軽トラの目前から突き飛ばした、あの少女の姿があった。


「あの娘……俺が助けたあの少女を気にかけてやってほしいんだ」


「あの娘か……彼女は裕翔の知り合い、なのか?」


「ううん……違う」


 父さんの質問に首を横に振り、俺はあの時の少女の表情を思い出す。


「俺はあの娘の事に付いては何も知らない。……でも、俺が見た時、あの娘、物凄く寂しそうな表情をしてた。目をどんよりさせて、まるで自分が絶望の淵に立っているような貌で、たったひとりで佇んでた」


 そこで一度言葉を区切り、俺は改めて両親の目を見た。


「勿論、これが俺の我儘だって事は自覚してる。けど、その上で父さんと母さんに頼みたいんだ」


 言って、俺は、二人に頭を下げた。

 すると、ポンポンと。下げた頭を優しく叩かれる。

 顔を上げると、目を赤く腫らしながらも優し気な表情を浮かべる両親の姿があった。


「あぁ。分かった」


「父さん……それじゃあ……」


「息子の最後の頼みなんだもの……拒否することなんて出来ないわよ」


「母さん……なんか、ゴメン」


「裕翔が謝る必要はないわ。むしろね、母さんと父さんは嬉しいの」


「嬉しい……?」


「そうだ。自分の息子がこんな優しい子に成長してくれて、喜ばない親はいない……まぁ、今は喜びだけじゃなく、寂しさや悲しさも混じった複雑な心境だがな」


 と、そこで一度言葉を区切った父さんは、一度母さんと目を合わせると、


「ともかく、裕翔の願いは分かった。最終的にどうなるかは分からないが……母さんと二人で出来るだけの事はしようと思う」


「うん……ありがとう、父さん」


 そう礼を言いながら俺は笑った。……いや、実際の所、ちゃんと笑えていただろうか。

 視界が溢れ出る涙で霞んでいる。

 先に自分で言った事の手前、涙の雫が目から零れないよう必死に我慢はしていたけど、もしかすると不格好な笑みになっていたかもしれない。


 でもまぁ、それでもいいかな、と思う。

 最低限、伝えたいことは伝えられたし、もっと話したいことは沢山あるのだけれども、満足感、幸福感と呼ぶべき感情が今の俺の中には確かに存在している。


 俺は自分の体を見下ろした。

 既に俺自身の体はその殆どが消失している。もう目に見えているのは胸から上の部分だけだ。その様は、俺がここから消え去るまで幾分の時間も残されていないという事実を如実に可視化させていた。

 だから。


「じゃあ、もう俺は行くね」


 言って、俺は一歩二人から身を引く。

 父さんと母さんは小さく頷いた。二人はさっきよりは穏やかな表情を浮かべていて、俺がそんな二人の姿を眺めていると、唐突に足元から無数の光の粒子が放出され始めた。

 その数えきれないほどの光の粒子はあっと言う間に俺の全身を包み込み、半円状のドームの様なものを形成した。俺はそれにすっぽりと覆われてしまい、父さんと母さんの姿が見えなくなる。


 俺は半円状のドームの中で自分の体が作り替えられているような不思議な感覚を覚えた。

 それが何なのかを知りたくて、自分の体を見下ろして、今は自分の体はその殆どが消えている事を思い出して――さっきそれを確認したばかりなのに、もうそれを忘れてしまっていた自分に少し苦笑して。

 ……次の瞬間、俺の意識は途切れる。


 もう、戻ることの出来ない日常に別れを告げながら――


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