俺の死。神のお告げは、いっそ冷酷に。
次の瞬間。俺は見える限り『白』が広がる不思議な空間に立っていた。
辺りを見回す。すると目に入るのは、白、白、白。辺り一面の白。
他には何もない。本当にただ白だけが続いている。
俺は……途方に暮れた。というか、それしかできなかった。
「どこだよ……ここ」
俺は頭を抱え、何で自分はこんな場所にいるのか、それを思い出そうとした。
そんな時だ。誰かの声が俺の耳朶を打った。
「ようこそ――『狭間の世界へ』」
中性的な声。
咄嗟に振り返ると、そこには俺とあまり違わない程の年齢に見える少年が立っていた。体型は中肉中背。肩口で切り揃えられた、男性にしては少し長めの黒髪。黒く澄んだ一対の瞳。病的なまでに白い肌はきめ細かく、容姿はそれなりに整っていた。その端整な顔には、柔らかい微笑を浮かべている。
「お前は……」
「僕かい?」
俺の呟きを聞いた少年は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「色々と言い方はある。けど、最も簡潔に言うのなら……僕は神だ」
「……は?」
その突拍子のない回答に俺は思わず目を点にし――すぐに頭を振った。
いや待て、おかしいだろ。
「神って何だよ。今時、そんな戯言を信じる奴なんていないぞ」
「うんうん。まぁ、それが普通の反応だよね」
どこか余裕を感じさせる声色でそう言った後、自称『神』はパチンと指を鳴らした。軽く、高い破裂音が鳴り響く。
直後、世界はその有り様を一変させる。
唐突な出来事に、俺は警戒する暇さえ与えてもらえない。
次の瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
目に見える景色は一瞬の内にその様を変えていた。
三百六十度何処を見ても真っ白だった景色は消え失せ、代わりに視界に映ったのは――見覚えのある交差点。
この場所は……家の近くの交差点だ。合計で二車線しか無く、家から五分と離れていない、小さな交差点である。
時間は、丁度日暮れ直後だろうか。陽の光は殆ど無く、そのせいか辺りは少しばかり薄暗いが、街灯があちこちにあるおかげで視界が悪いという印象はあまり無い。
(なんで……いきなりこんな場所に……?)
俺は辺りを見回し、自称『神』の姿を探した。何なら、一言ガツンと文句を言ってやりたかった。一体これはなんなのか、と。あと、神って一体何なんだ、と。
だが、どれだけ辺りを見回してみてもその姿はどこにも見当たらない。
「どこに行ったんだ……あいつ」
そんな事を呟きながら辺りを見渡していると、交差点の一角で人だかりが出来ている事に気が付いた。
『マジかよ……』『ヤバくね? これ』『ていうか、救急車だろ!』
人だかりからは、そんな声が途切れ途切れに聞こえてくる。
好奇心に駆られ、人だかりに近寄った。
そこに集まっていた人数は思っていたよりも多かった。少なくとも、三十人ほどの人間がここに集まっている。そんな彼らは皆一様に人だかりの中心を見ているが、俺の位置からは集まっている人々が邪魔で、彼らが何を見ているのか、それがよく分からなかった。
「あの……すいません」
どうしても気になった俺は、隣にいた一人の男性に声をかけることにした。
控えめに男性の肩をポンポンと叩き、男性の注意をこちらに向けるよう試みるが、しかし、男性がこちらへ振り返る事は無かった。
「あのー、ほんとにすいません」
再度、トライ。しかし、やはり男性はこっちを向かない。
「あのー! マジですいませんッ」
三度。今度はもっと大きな声で。しかも男性の耳元で叫んでみる。だが、男性の視線がこちらの姿を捉えることは無く。
そこでもう、これは嫌がらせをされているんじゃないだろうか、と俺は疑いを持ち始めた。だってそうだ。あり得ないだろ、こんなにされてまで気が付かないなんて。
(というか、こんな状況下でも嫌がらせをされるとか、俺はどれだけこの人からヘイト溜めてんだろ……俺はこの人と会った記憶も、話した記憶も一切なんだけど。面識が無い人に嫌われてるって、泣きたくなってくるぞ)
俺が一人で落ち込んでいると、何処からともなく、『ピーポーピーポー』と連続性のあるサイレン音が聞こえてきた。先ほど、誰かが『救急車』と叫んでいた事から、この音は救急車のサイレンの音だとあたりを付ける。
しばらくすると赤いランプがうすらぼんやりと視界に映って、それから十数秒もすると白い車体の救急車がはっきりと見えるようになった。それは予想通り、人だかりの真横に停車する。やはり、この救急車はこの人だかりの中の誰かが呼んだものらしい。
救急車の中から三人の救急隊員が出てくると、彼らは人だかりに道を開けるよう呼びかけた。人だかりが二つに割れる。キャスター付きのベッドを転がして、救急隊員達がその空いた道へと駆け込んでいく。
『どうだ』『ダメです! 脈、ありません』『急げッ!』
救急隊員たちの切羽詰まった声が響く。
やがて、人々の注目の的となっていた『誰か』をベッドの上に寝かせた救急隊員たちは、ベッドの上に横たわる『誰か』を気遣いつつ、出来るだけ迅速にベッドを救急車へと運搬し始めた。
そんな時になってようやく、俺も『誰か』の姿を視界にとらえることが出来た。
そしてその『誰か』の顔が見えた瞬間――
――世界が止まった。
それは、文字通りに。一欠片の言い違いもなく、比喩表現でさえ無く。
周りにいた誰もが――俺以外の一切合切全てが、微動だにしなくなったのである。
明らかな異常だった。
けど、正直、その時の俺にとって、
周りの事を気にする余裕なんて、全くなかったのだ。
「なんで……」
ベッドの上。
今にも救急車に乗せられそうになっている、ベッドの上。
そこに乗せられている人物に俺の視線は釘付けになっていたから。
「嘘だろ……おい」
――俺、だった。
ベッドの上に横たわっているのは、他の誰でも無い、俺自身だった。
頭から血を流し、右手はおかしな方向へと曲がっている。胸が微かに上下している事から生きている事は分かるが、明らかに死にかけている俺――戸神裕翔がそこに横たわっていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
これは――悪い夢、だと思った。
これは――悪い夢なんだと、そう思いたかった。
だって、俺はここにいる。紛れもなく、俺はここにいる。
だから、あそこに横たわっている血だらけの『俺』は――偽物か何かなのだと、そう思いこもうとした。
「残念ながら、これが事実だ」
しかし、そこで割り込んでくる中性的な声。
ハッとして辺りを見回すと、全てが止まっている世界の中、あの自称『神』の少年がいつの間にか姿を現していた。人だかりに紛れ、まるで人ならざる者の様な不可思議な存在感を放ち、奴は微かに笑っている。
俺はその存在を認めるや否や、奴に一直線に近づいた。
「事実って……どういう事だ」
奴の胸倉を片手で掴み、これまで発したことのないような眼光で睨みつけ、俺は問うた。
だがしかし、そんな俺を目前にしても自称『神』の少年はその余裕な態度を崩さない。
「どういう事も何も、言葉そのままの意味だよ」
俺を真正面から見つめ、微笑みながらそう言って、奴はまた指を鳴らす。
直後、再び目に見える世界が切り替わる。
一瞬、体全体が揺さぶられるような不思議な感覚を味わった後、俺と自称『神』の二人は先ほどとはまた別の場所に立っていた。
再度、俺は辺りを見回す。
どうも、ここは病院、それも入院用の病室の一室のようだった。
人が数人集まっている。彼らは病室の中にある唯一のベッドの方を見て、暗い表情を浮かべていた。
彼らの視線の先にあるベッド。そこに寝かされていたのは――紛れも無く、『俺』である。
ベッドに横たわる『俺』の頭には包帯が巻かれ、口周りには人工呼吸器が纏わりついていた。息は浅く、目は固く閉じている。その様は正しく風前の灯のようで、生死の狭間を彷徨っている事は火を見るよりも明らかだった。テレビでよく見るような、心拍を測る機械が『ピ、ピ、ピ』と、短い音を規則正しく発し続けている。
そんな『俺』のそばで、一際悲愴な表情を募らせた父さんと母さんが椅子に座っていた。
「……なんだよ……これ……」
俺は、ただ絶句することしか出来なかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
訳が、分からなかった。
なんでこんな事になっているのか。
どうしてこんな事になってしまったのか。
そもそもこの光景は何だ、とか。
あそこに横たわっている『俺』は『誰』だ、とか。
頭の中で、著しく纏まりのない言葉が思考という名の川を流れていく。
「君は死んだんだよ」
「死ん……だ?」
語り掛けてきた自称『神』に俺は問い返す。
「あぁ。君は自分の家に帰る道中、一人の少女を助けた。ほら、あそこにいる娘さ。見覚えが無いかい?」
部屋の中には一人の少女がいた。一切模様の入っていない真っ白なワンピースを身に纏い、艶やかな黒髪を腰まで伸ばした少女。その様は後姿だけを見れば如何にもな大和撫子であるが、顔の造形はどちらかと言えばヨーロッパ人寄りで、まぁ日本人には見えない。
少女はベッドの上に横たわる『俺』の傍に佇んでいた。悲し気な表情を浮かべ、両手は己が身に付けているワンピースの布地を固く握りしめている。
その顔、その表情に見覚えは……ある。鮮明に思い出せる。
あの時の情景、状況――その全ても含めて、だ。
「そうか。俺はあの子を助けようとして……轢かれた、のか」
俺の呟きに自称『神』は頷いた。
「そう。その結果がこの光景だ。君は勇敢にも一つの命を救おうとした。けど、それには代償が必要だった。つまりは等価交換さ。少女の命を救うためには、君は君自身の命を犠牲にする他に方法はなかった」
そう自称『神』の少年が言った直後、ベッドの上に横たわっていた『俺』の様子に変化が訪れる。僅かに上下していた胸の動きが止まった。次いで、そこからコードで繋がっていた心拍計測を行う機械が『ピーーー』と単調な音を鳴らし始める。
「裕翔ッ!」「逝くなッ、裕翔ッ!」
誰かが声を荒げた。
その声は父さんと母さんの物だった。二人は一切の鼓動を止めてしまった『俺』に縋りつくように体を前に乗り出し、固く目を閉じる『俺』に必死に語り掛けている。だが、『俺』が彼らの声に答える気配は無い。
「そ、そんな……」
そんな『俺』、父さん母さんの様子を見て、誰かが泣きそうな声を上げた。
誰かと思い、声が聞こえてきた方に目を向けると、そこには両手で顔を覆い、涙を流している佐奈さんの姿がある。彼女のそばには、彼女の夫である颯太さんの姿も。颯太さんとは時々顔を合わせる機会があったから、顔なじみと言っても良い。
彼は悲しそうな表情を浮かべながらも、自身の伴侶である佐奈さんを気遣うように、彼女の背中をゆっくりと撫でていた。
病室に悲愴、諦念、あるいは絶望。そういった空気が満ちる。
誰かの鳴き声が、叫び声が、絶え間なく俺の耳朶を打っていく。
それはまるで、雨あられのように。いっそ、スコールのように。どこか冷たい声達が俺の全身に降り注いでくる。
そんな中、『神』はいつの間にか、物言わぬ骸となった、ベッドの上に横たわっている『俺』、そのすぐ傍に佇んでいた。丁度、泣き崩れる父さん母さんの真横に奴が立っている形。
「改めて言おう。君は死んだ」
奴はその端整な顔に薄く笑みを浮かべ、俺に向かってそう言い放った。
そんなお気楽な様子を見せる奴に俺は苛立ちを覚える。それは、今の自分がどうなっているのか、これからどうなるのか――そんな不安を抱えた結果だ。
「俺が死んだのは……まだ納得できてない。信じてもいない。けど、仮に俺が本当に死んでいたとして……じゃあ、今の『俺』は何だ? あそこに横たわってるのが『俺』なら、こうしてお前と喋ってる『俺』は何だ?」
故に、俺は奴に疑問をぶつける。
「君は君さ。他の何者でも無い」
すると、奴はとぼけるように返す。が、その程度の言葉で俺が納得する訳が無い。
それは寧ろ俺の苛立ちを煽るだけだった。沸々と煮えたぎるような怒気が腹の底から湧き上がる。
俺をなめているのか――と奴を問い詰めたくなる想いをグッとこらえた。
代わりに、鋭く尖らせた視線を奴の方に向ける。
「おぉ。怖い」
俺に睨みつけられた『神』は肩を竦め、緊張感のない声で宣った。
奴の余裕な態度は相も変わらず崩れそうにない。こちらの怨嗟の視線もどこ吹く風と言ったところだ。
何というか、奴と俺とでは決定的に年季に差がありすぎるような気がする。
見た目はほぼ同じ年ぐらいのはずなんだが……少なくとも、奴は普通じゃない。
あの『指パッチン』を例に挙げてみてもそうだ。普通の人間にあんなことが出来るわけがない。
さっきまでは心の中で否定していた。
けど、奴が『神』と自称しているのもあながち冗談では無いのかもしれない。
「ふむ……話をするには、ここでは少し騒がしいね」
束の間の後、『奴』は一言言葉を発し、先ほどと同じように指を鳴らした。
刹那、
まるで雲の中にいるかの様なこの空間において、先の病室の面影は何処にも残っていない。あちらこちらから聞こえて来ていた声もピタリと止んでいた。
その世界を眺めながら「うん。静かになった」と、どこか満足げに頷く『神』に俺は再び問う。
「答えろ。『俺』は何だ? 俺が死んだのなら、何故、俺は今こうしてお前と話をしている?」
「さっきも言っただろう? 君は君。まぁ、さっきも見た通り君はもう既に死んでいるから、『今の君』は体という殻を捨てた、その中身――『魂』だけの存在、と言えばいいのかな」
「今の俺が……魂だけの存在……?」
「そうそう。にわかには信じがたいことかもしれないけどね。それを信じてもらうには……そうだな。一度自分の胸に手を当ててみると良い」
俺は『神』の言う通り、自分の胸に右手を当ててみる。
すると、すぐに自分の心臓の鼓動を感じられない事に気が付く。
(おいおい、嘘だろ……)
「どうやら、気が付いたようだね」
自らの変化に愕然とする俺に、目前の『神』は微笑みを浮かべながら語り掛けてくる。
「それが君が死んで、既に魂だけの状態になっているという事の証明さ。そもそも死者には、今の君のように自分の意思で動かせるような体は無いんだ。けど、今回はそれだと都合が悪いからね。僕の力で君に仮初の体を与えた。生前の君と全く同じ体さ。だけど、『ここ』には『生者』は存在できない。心臓の鼓動とは、『生者』である証。だから、君の体から心臓の鼓動だけを奪い取らせてもらった」
「そんな事が――」
「出来るんだよ。僕にはね。ほら、僕って『神』だから」
俺の言葉を遮り、『神』は言い放った。まるで、それが当たり前だと言うように。
そんな奴の言葉を、俺は否定することが出来なかった。
奴――『神』の言っている事は常軌を逸している。
そもそも自分自身を神だと呼称する事自体、頭が湧いているとしか思えないし、他人に向かって『お前は死んでいる』と宣うなど、その人物に対する冒涜でしかない。
で、あるなら。俺は奴の言動を馬鹿馬鹿しいと一刀両断にすることも出来たはずだ。
しかし、俺は自身の中にある本能的な部分を以って、奴の言葉を受け入れていた。
こいつは『神』なのだという事実。俺は死んだのだという現実。
それらの事柄を俺は本能的に肯定していた。
「……俺は、死んだのか」
ぽつりと、呟く。
「あぁ。君は死んだ」
『神』は淡々と俺の呟きに答え、そのまま言葉を続けた。
「だが、君はただ死んだわけじゃない。一人の少女の命を救って死んだ。あの時、君が助けなければあの少女は命を落としていただろうね。君はそんな崖っぷちの命を救って見せた。……そこは称賛されるべきだし、その功績は湛えられるべきだと僕は思う」
奴はそこで一旦言葉を区切ると、またもや指パッチン。本日四度目だ。
そんな奴の行動に対し、俺はまた景色が変わるのかと身構えるが……どうも違うらしい。
今度は周りの光景全てが変化するのではなく、奴の奥に人一人が軽く潜れるほどの高さの木製の扉が出現した――って、なんだあれ。
「――だから、僕は君に生き返るチャンスを与えることにした」
その言葉に釣られ、俺は奴に視線を向けた。
数瞬前の絶望に打ちひしがれていた時とは打って変わり、俺の胸の内に希望の光が飛び交い始める。
「戸上裕翔……君は異世界で生きていく気はないかい?」
しかし、奴の言葉は俺が望んでいたそれとは少しばかり違っていた。
「……は?」
奴の言葉に対し、間抜けな返事をしてしまった俺を誰が攻められるというのか。
「えっと……異世界? 元いた世界、とかではなく?」
「へぇ、異世界という概念に対する知識はあったんだね」
何故か少し人を小馬鹿にするようにして関心を示す神。その口調に少しばかり憤りを感じながらも、いや、だってまぁそこは普通にあるだろうさ、と俺は思う。
『異なる世界』と書いて異世界。
それは創作物では定番の舞台。最近じゃ平衡世界理論――パラレルワールド、つまりは異世界の存在証明をしようとしている科学者もいると聞く。
実際に有るか無いかは別として、ここ数年で一般人にとっても『異世界』という言葉は比較的身近なものとなったことは間違いない。
しかし、そんな世界で生きていく……? 何も知らない、そんな世界で俺が? 嘘だろ。
「……地球に生き返らせてくれるって訳じゃないのか?」
「すまないね。これは僕ら、神に共通する掟なんだ。『死した者の魂はそのままに元の世界に返すことは出来ない』ってね。自力で生き返ったり、元の世界からの介入によって『蘇生』した場合は別として、僕の権限で君を元いた世界に送り返すことは出来ないんだよ」
「……もし、俺が異世界に行くことを断ったら?」
「どうにもならない。君は輪廻の流れに取り込まれ、次の生まで意思なく浮遊するだけの存在となる。そして次、君が新たな生を受けた時には今の『君』の記憶は全て無くなっている……ただそれだけの事さ」
粛々と答える神に嘘を付いている様子は無い。
ってことは、本当に俺は地球で生き返る事は出来ないのか。
「いきなりこんな話を聞かされて、君は混乱していると思う。突然、全く知らない世界で生きていくかと聞かれて即答できるものでもないだろう。けど、決断してほしい」
決断してほしい――そう言われても難しい、というのが今の俺の心境だ。
まだ心の整理が追い付いていない。
自分が死んだという事に対する衝撃が未だに強く心に刻みつけられている。
「……少し、考える時間をくれ」
ともかく、時間が欲しかった。自分の心に整理をつける時間を。
「分かった。それほど長くは待てないけど、君にも時間は必要だろうしね」
俺の頼みに応えた神は小さく笑みを浮かべた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――まだ俺が『あっちの世界』で生きていた頃。
俺の心はどこか凍り付いていたように思う。
勿論、他の人等のように笑いはするし、泣きもするし、時には怒りもしていた。だけどそれはどこか表面的で、薄っぺらいもので。きっと、俺は心の底から自身の感情に浸る事が出来ていなかった。
だからなのか。俺には自信が無い。これまでの自分の人生に悔いが無いか、とか、思いっきり自分のやりたいことを出来ていたか、とか。そういう事に対する自信が欠片程も無い。つまりは空っぽだ。『あっちの世界』にいた頃の俺は空っぽと呼ばれるのがふさわしいような存在で、そんな自分が嫌だった。
自分が何故、そんな存在になってしまったのか……理由は察しが付いている。
六年前の『あの日』に、自分の一番身近にいた少女がいなくなってしまったから。あの日、心の大きな支えだった彼女を失った俺は……失意のどん底に落ちた。
そして、そこから何かを変えるでもなく、結局俺は死んでしまったのである。
そんな自分の人生を顧みて、何かを残すでもなく、ただ迷い続けただけの俺の人生に何か価値はあったのだろうか、と改めて自問自答してみると、答えは直ぐに出た。
即ち、『否』。
俺は、自分の人生に何か特筆すべき価値があったとは到底思えない。
そんな、人生。――何も生み出さない人生。
改めて振り返ってみると、それは途轍もなく悲しい事のように思えた。
そして、何よりも。自分を生み、育ててくれた両親に申し訳なく思う気持ちがあった。
まぁ、あのお人好しの両親の事だから、俺がどんな生き方をしても、それが人としての道理を外したもので無ければ笑って肯定してくれるとは思う。
だが、それじゃあ俺自身が納得できない。
今のままでは、俺は、自分の人生を笑って肯定する事が出来ない。
胸を張って、俺は精一杯生きたと、自分の有り様を誇る事が出来ない。
このまま消えてなくなって、「はい、また来世で」なんて終わり方はまっぴらごめんだ。
だから――チャンスが、欲しかった。
自分を変えるチャンスが。
何でもいい。
俺は、何でもいいから、きっかけが欲しかった。
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