マジックライフ!~異世界で調合師となった少年が英雄に至るまでの物語~

二十字 悠

君がいなくなってからの話―戸上裕翔:オリジン―

  ――”忘れられない記憶”。

 そう呼ぶに値する記憶は俺がこれまで十六年間生きてきた中でも片手で数えられるぐらいの数は存在しているが、その中でも一番鮮明に覚えているものはと問われると、仲が良かった幼馴染が行方不明になった時の事が真っ先に思い浮かぶ。


 当時の状況を少しばかり詳しく説明すると、今から時間を六年程遡ることになる。


 季節は夏に突入する少し手前。丁度、夏特有の蒸し暑さが顔を見せ始めた頃。


 六年前のその日、戸上裕翔――俺が目を覚ますと、見覚えのない天井が目の前に広がっていた。


 自宅の二階にある、なんのこっちゃ分からない模様が一面に描かれた自分の部屋の天井とは違い、無機質でただ真っ白なだけの天井。それが、目覚めた俺の視界を占有していたのである。


 流石にその時は度肝を抜かれた。


 すぐさま俺は、これまた自室のベッドとは違って模様も何もない真っ白なベッドから跳ね起き、辺りを伺った。


 パッと見る限りどうもそこは病室らしく、今の今まで俺が寝ていたベッドの側には二人そろって齢三十五を迎えたばかりの両親がパイプ椅子に座っていた。


「「――――裕翔ゆうと!」」


 俺の目が覚めた事に気が付いたらしい両親が叫びながら俺に飛びついてくる。


 とっさに抵抗を試みるが、幼い俺が大人相手に敵う道理などあるはずもなかった。


 第二次成長期を迎える前の俺の小さい体を二人がかりで抱きしめた両親たちは、俺の抗議の声を無視するどころか、俺の目を憚る事無く号泣し、「良かった……本当に」と上ずった声を上げ続けたのである。


 ――さて、しばらく経ってようやく落ち着いてきた両親は先ほどまでとは一転、何やら悲愴な表情を浮かべ始めた。


「……何か……あったの? というか、そもそも何で俺は病院で寝てるのさ」


 俺自身、何故自分が病室で寝ていたのかという経緯がさっぱり分からなかった。


 前日は確かに自分の部屋で寝ていたはずだし、真夜中に起きてどこかを徘徊していたなんて不良みたいなことをようやく年齢が二ケタになったばかりの俺がする筈も無かった。


 あるいはまだ俺は夢の中にいるかもしれないと一瞬疑いもしたが、それにしては感覚がやけにリアルだ。到底ただの夢で済ませられるレベルでは無かったし、何となくその辺りは察することは当時の俺にも十分に可能だった。


 とは言っても、それはあくまでも『夢では無い』と理解しただけの話。


 俺はこの状況には一切納得なんてしちゃいなかった。


「ねぇ、何か言ってよ!」


「………」


 訴えかける俺を両親は驚愕の目で見つめてきた。


 何故だ。何故俺をそんな目で見つめる。そう思っていると、母さんがガラケーの画面を開けて、それを俺に見せつけてくる。


「裕翔、時間を見て」


「え……うん」


 母さんに促されるままに携帯の画面、左上に表示されているデジタル時計を見た。


 現在時刻は……午後19時。

 午後19時といえば、普段は学校も終わり、家で宿題でもしている時間帯だ。


「何でもうこんな時間なのさ」


「……裕翔」


 文句を垂れる俺の両肩を母さんががっちりと掴む。


 そして母さんは真正面から俺の瞳を見つめてくる。


「落ち着いて、よく聞いて。――裕翔。あなたは今日、朝はちゃんと起きて、ちゃんと時間通りに学校に行ったわ。今は記憶が混乱しているようだけど、これは確かなの」


 ――母さんの言っている言葉の意味が良く理解できない。


「それでね、学校に登校するその途中であなたは――意識を失って倒れたらしいわ」


「……えっ?」


「倒れた所を見た人はいないし、裕翔の体にはどこにも異常が無かったから、お医者様でもあなたが意識を失った理由は分からないんだって」


 は? ……いやいやいや。待て。待ってくれ。


 俺が突然意識を失って倒れたって、いきなり何の冗談だ。


 俺は健康そのものなはずだし、いや、本当に意味が分からない。


 というか、目撃者が一人もいないってのはどういう事だ。俺が通学路にしていた道は人通りがそれなりにある場所のはずだ。誰も見ていなかったなんて……あり得る事なのだろうか。


 疑問はそれだけに留まらない。


 そもそも俺には毎朝一緒に登校している幼馴染の少女がいたはずだ。


 その少女の名前は『篠咲しのさき美弥みや』。


 肩口で切り揃えられた黒髪。同学年の中でも一際整った容姿。無口で、どちらかと言えば引っ込み思案な性格をした女の子。そして、実は俺が密かに恋い焦がれている女の子。


 幼稚園からの付き合いの彼女と俺は、互いを『ユウ君』『みーちゃん』と呼び合う仲であり、家が近いということもあって毎朝一緒の時間に連れ立って学校に行く仲でもあった。


 そんな彼女と今日に限って別々の時間に登校していたなんてそんな訳があるまい。


 そう俺が指摘すると、母さんはそっと目を伏せた。


「……裕翔――」


 母さんは何か言いづらそうに数秒逡巡した後、言った。


「美弥ちゃんは今朝、あなたと一緒に学校に行った後、何処に行ったか分からないの」


「えっ?」


 今、母さんは何て言ったんだ?


 みーちゃんが何処に行ったか分からないって言ったのか?


 ってことは行方不明?


 ……そんなまさか。


 唐突過ぎるし、いったい全体、あの人通りが多い所しかない通学路のどこで行方不明になんてなるのか。


 あり得ない。あり得ないはずだ。そう自分に言い聞かせる。


 ……けど、何故か母さんの言葉を否定できなかった。


 心のどこかに『それは本当なのだ』という、確信めいた『ナニカ』が根付いていたから。


「今も警察の方や、美弥ちゃんのお父さんお母さんも必死に探してる。でも、美弥ちゃんはまだ見つかっていない……裕翔はその時の事は何も覚えてないの?」


「お、俺は……」


 母さんの言葉に促され、記憶をたどる。けど。


 ――何も覚えてない。


 比喩表現とかそういうわけじゃなくて、本当に何も覚えちゃいなかった。


 というか、今朝起きた時の記憶が無い。


 母さんが言うように、いつも通り起きて、いつも通り朝食を食べて、いつも通りに家を出る……そういった一連の日常の記憶が今朝のものに限っては残っていないのだ。


「どう? 何か覚えてる?」


「分からない……分からないよ……」


 しばらく頭を捻ってはみたが、結局俺は何があったのかを思い出すことが出来なかった。


「そう……」


 母さんは落胆の表情を滲ませながら肩を落とした。


 しかし、すぐに頭を振ってこちらの目をのぞき込んでくる。


「とりあえず、裕翔は今は寝ておきなさい。理由は分からなくても、裕翔が気を失った事は事実なんだから」


「でも、みーちゃんが……!」


「ダメよ」


 ぐずる俺の言葉を母さんは一刀両断にする。


 そして母さんはどこか悲しそうな表情を浮かべると。


「今は無理をしてはダメ。警察の方には母さんが言っておくから。まずは自分の体を万全にしておくこと。いい?」


「……分かった」


「もう少ししたらお医者さんも来ると思うから。とりあえずそれまでは寝ていなさい」


 ――納得は一切できなかった。だが、母さんが言っている事が正しいのも事実だ。


 小さな俺に出来る事なんてたかが知れているし、この状況下で俺に何かが出来るわけでも無い。

 はやる気持ちはあった。得も言えぬような焦燥感が心の中を支配していた。


 けど、何もできない。その事実は変わらないし、変えようがない。


 齢十にして、俺は自分の無力を心底痛感したのである。


「……はい」


 肯定の意を返した俺は再びベッドに潜り込んだ。


 そんな俺を横目に、母さんと父さんは病室を出ていった。


 ギギッ、と小さく音を立てながら、病室の扉が閉まる。


 それを見届けた俺は、改めて病室の天井を見上げた。


 本当に何もない、ただただ真っ白な天井がそこに広がっている。


 その光景は、まるで今の俺の心情を具体的に描写しているかのようだった。









◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 九月上旬。夏もそろそろその勢いを停滞させ、この蒸し暑い夏も終わり、ようやく秋が来るのかと想いを馳せるようになる頃。


 そんな季節の土曜日の午後。俺は一人、最近押し入れから引っ張り出してきた秋物の服を着て、とある場所へと向かっていた。


 家を出て、見慣れた交差点を渡り、道端で呑気に顔をヌグヌグと洗っている野良猫の傍を通り抜け、従業員が一人しかいない電気屋の軒先で二世代ほどは前であろう、少し古ぼけた薄型テレビがニュース番組の天気予報を映しているのを横目に見ながら歩き続けたその先に、俺――戸上裕翔の目的地はある。


 目的地とは、閑静な住宅街から少し外れた場所にある二階建ての一軒家。


 真っ赤な屋根が目印のその家に辿りついた俺は、家の前で箒を持って掃き掃除をしていた四十代過ぎかと言う年齢の女性に声をかける。


「あの……」


「あ……裕翔君?」


「お久しぶりです。佐奈さなおばさん」


「えぇ、お久しぶり。元気にしてた?」


 そういって、女性はどこか儚げな微笑を浮かべた。


 彼女の名前は篠咲佐奈。


 六年前、行方不明となった俺の幼馴染、篠咲美弥――みーちゃんの実の母親である。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 佐奈おばさんに案内されながら、俺は篠咲家にお邪魔した。


「ゴメンね、あまり片付いていなくて」


「いえ、いきなりお邪魔したのはこっちなんで」


 佐奈おばさんはそう言うが、部屋の中はいたってきれいだ。


 今現在、俺が居るリビングにはゴミ一つ見当たらないし、俺が座っている四人掛けのダイニングテーブルには傷一つ付いていない。家主が余程綺麗好きなのだろうという事が垣間見える光景である。


「今日は何故こっちに?」


 二人分のカップを用意し、ポッドでお茶を淹れる佐奈おばさんが問うてくる。


「今日は、久しぶりに『みーちゃん』に会いたくて」


 俺の言葉に、一瞬、佐奈おばさんは手の動きを止めた。


「そう……会いに行ってあげて。きっとあの子も喜ぶわ」


「はい。そうさせてもらいます」


「じゃあ、お茶は後にして今から行く?」


「えぇ。それでもいいなら」


 俺の言葉に、おばさんは『勿論よ』と答え、


「あの子はいつも通りの場所にいるわ」


 と言葉を付け足した。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 佐奈おばさんにお許しを貰った俺は、リビングを出て二階へと上がった。


「ここに上がるのも七か月ぶり……か」


 フローリング張りの廊下を進み、アルファベットで『МIYA』と記されたピンク色のコルクボードが掛けられている扉の前で俺は立ち止った。


 ここが目的の場所――みーちゃんの部屋だ。


 少し深呼吸をして、ドアノブを捻る。

 ガチャリという軽い音を立て、ドアノブが回って扉が開く。


「お邪魔します……」


 誰かがいるわけでも無いのにそんな事を口にしながら、およそ七畳ほどの部屋に入り、俺は勝手知ったるその部屋を見回した。


 右手側の壁には比較的一般的な大きさであろうという引き窓が取り付けられていて、その脇にはこれまた一般的なデザインの子供用の勉強机が置かれている。ちなみに、勉強机は全体的に淡いピンクっぽい色をしている。


 逆に左手を見れば、大人でも寝転がれそうな大きさのピンク色のベッドがあり、じゃあ正面はと言うと、16インチの小さなテレビと、俺の背丈――170センチはあるだろうという、五段に仕切られたブルーの棚が設置されていた。


 俺はそのブルーの棚の方へ歩み寄り、その丁度中段、三段目から、シンプルなデザインの額縁に入れられた、一枚の写真を手に取る。その写真に写っているのは、一人の少女の顔だ。他でもない、六年前に忽然といなくなった篠咲美弥という女の子の顔写真である。


 写真は彼女が行方不明となった時から、更に一年前、丁度七年前に撮られた物だ。


 当時の彼女はまだ小学三年生の女児に過ぎず、その顔には少女と呼ばれる年ごろになる前の、特有のあどけなさが残っている。だがしかし、その顔の造形が整っている事は一目瞭然で、将来的――そう、ちょうど今頃には誰もが振り返らざるを得ない可憐な少女になっていたことは間違いないだろう。


 そんな幾度となく見た少女の笑みが、当時そのままにその写真に写っていた。


「――久しぶり」


 手に取った写真に向かって言葉を投げかける。


 無論、自分以外誰もいないこの空間において、俺の言葉に誰かの言葉が返ってくるなどという事はあり得ない。それは十分に理解している。


 だから、あくまでもこれは俺の独り言なのだ。


 ただ、自分の近況を呟くだけの、そんな独り言。


「俺さ、高校生になったよ――」


 ――それからしばらく、俺はここ最近自分の身に起こった出来事をひたすらに語った。


 四月に高校へと無事に入学したこと。


 高校には中学時代の知り合いは一人もいなかったこと。


 けど、クラスメイトになった奴らが、みんな気の良い奴らだったから、そこまで寂しさを感じていないこと。


 部活には入らなかったこと。


 中学の頃に比べて、登下校に時間がかかってしまうこと。


 電車で通学するのが、思っていたよりも重労働だったということ。


 そんな在り来たりで、それほど中身のない話をし続けた。


 飽きもせず、休むことなく、無意味で、理由なんて無くて、ただ『彼女』との繋がりはまだあるのだと、そう信じたいがために。


 ――いや。そう信じているのだと、半ば自己暗示を掛けるように。


「もう、こんな時間か」


 そうしてつらつらと話している間に、かなりの時間が経過してしまっていたらしい。


 ふと時計を見て現在時刻を把握した俺は、持っていた写真を棚に戻そうとして――、

 一瞬、ほんの一瞬だけそれを躊躇ってしまった。何故か。


 多分、だけど、俺はもう少しこの空間に留まった居たかったんだと思う。六年前と同じ、あの頃と何ら変わりのない、『篠咲美弥』という少女との思い出がたくさんある、この部屋に。


 ……けど、それは出来ない。分かっている。

 それに、過去に浸った所で前に進むことは出来ない。それも分かっている。

 だから、過去に浸るのはほんの一瞬だけで良い。

『彼女』との思い出に浸るのは、ほんの少しの間だけでいいのだ。


「そう……だよな」


 未だに抵抗を見せる感情を押し殺して、今度こそ写真を棚に戻した。


 そして、


「――じゃあ、また来るから、みーちゃん」


 写真の中の少女に声をかけ、俺は部屋を後にする。


 当たり前なのであるが、やっぱり返事は返ってこなかった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 篠咲美弥――みーちゃんの部屋を後にした俺は、その後幾分かの時間を篠咲家のリビングで過ごした。紅茶と茶菓子で一服し、佐奈さんと身近な話に花を咲かせる。


 高校の話。佐奈さんの旦那さんの話。俺の母親の話。

 話題は多岐にわたった。


 やがて時計の長針が半周ほどした所で、俺は話を切り上げる。


「それじゃあ、そろそろ俺は帰ります」


「またいつでも来て頂戴ね? そうした方が、きっと『あの子』も喜ぶだろうから」


「はい。頃合いを見て、またお邪魔させてもらいます」


 言って、俺はリビングを後にする。玄関で靴を履き、そのまま外へ。


 そして、玄関口からこちらに手を振って見送りをしてくれる佐奈さんに小さく手を振り返し、俺は帰路へとついた。


 時刻はおおよそ六時を少し過ぎたあたり。もう空は薄暗くなっていて、心なしか、明るかったときよりも気温が下がっているような気がする。


 俺は夜空へと移り変わりつつある空を見上げて、溜め息を吐いた。


「最近は暗くなるのが早くなってきたな……」


 まぁ、もう季節は秋になりつつあるという頃なので、当たり前なのだが。


 ……そういえば、母さんが、暗くなるのが早くなってきたから今日は早く帰って来いって言ってたっけ。


「……さっさと帰らないとな。母さんが心配する」


 俺は足を動かす速度を速めた。


『突如消える、コンビニ、スーパーの食品の謎』という、数か月前から時折耳にするニュースの特集を映している薄型テレビの音声を聞き流しつつ、店じまいをしている小さな電気店の前を素通りし、さっきまで呑気な猫がいた小路を通り抜ける。


 そして呆れるほどに見慣れた、二車線しかない小さな交差点に辿りつく。


 ここを超えれば、家まであともう少し。大体、徒歩五分といったところだ。


 正に、我が家は目と鼻の先である。


 しかし。


「……あ」


 運が悪かったのか、目の前で歩行者用の信号が赤に切り替わってしまった。


 わが家へ戻るにはこの信号を渡らざるを得ず、横断歩道を目前に仕方なく立ち止まる。


 そして、何気なく辺りを見回していた俺は――気が付いた。


「あれは……」


 横断歩道。俺が今立っている、丁度”向こう側”。


 もう陽は落ちて辺りは暗くなりつつあると言うのに、そこには四歳程かという少女が一人ポツンと立っている。


 顔の造形は日本人っぽくなかった。というか、日本人の顔じゃない。

 どちらかと言えばヨーロッパ――西欧人に限りなく近い容姿で、まるでおとぎ話から飛び出てきたかのような、とても整った顔立ちをしていた。


 だが、その容姿でのプラス面は、今の彼女の状態を考慮すると『あってないようなもの』だと言わざるを得なかった。

 如何せん、身だしなみがみすぼらし過ぎるのだ。腰辺りまで伸ばされた黒い髪はボロボロだし、身に纏っているピンクのワンピースは数日洗濯していないようにすら見える。


 彼女はなんであんな格好をしているのだろう。


 もしかすると――捨て子、なのだろうか。

 あるいは、親に虐待を受けているのかもしれない。


 ……いや、実際にそうだったとして俺はどうする。


 仮に前者だとして、俺に何かが出来るのか。


 もし後者だとして、俺はどうすればいいのか。


 ――そんな事を考えながら、俺の視線はその少女へと引き寄せられていた。


 すると、俺の存在に気が付いたのか。少女がその双眸をこちらに向けられた。


 俺と少女、互いの視線が交錯する。


 ――彼女の瞳は酷く濁っていた。


 そこからはたった一片の希望すら感じ取ることは出来ない。

 ずっと眺めていると、いつしか魂すら吸い込まれてしまいそうな不可思議な視線に耐えることが出来ず、俺はスッと視線を逸らしてしまう。


 すると、ちょうど視線の先から彼女の方へと一人の男性が近づいてきている事に気が付いた。


 男性はヘッドホンを装着しながらスマホをいじっている為か、信号待ちをしている少女に気が付いている様子は無い。

 そして、近づいて来たその男性の右ひじが少女の右肩に軽くぶつかった。


「あっ……」


 少女もまた、男性が近づいてきている事に気が付いていなかったのか、意表を突かれたように声を漏らして前のめりに倒れ込む。


 一方で少女とぶつかった男性は、スマホの画面から目を逸らす事無く、何事も無かったかのようにその場を立ち去っていく。

 ーーちょっと待て。


「おいっ! 今ぶつかったろ!」


 咄嗟に俺が叫ぶも、ヘッドホンを被った男性に声は届かなかったらしい。


「あっ! だから、おい!」


 そのまま男性は俺の声に反応を示す事は無く、夜闇の向こう側へと消えて行ってしまった。


 あとに残されたのは、俺と地面に倒れた少女だけ。


「くそ……そこの君、大丈夫?!」


 男性の事は一度忘れる事にして、俺は倒れた少女に呼びかける。


「立てる?」


「ぇ……あ、う、う……ん」


 こちらの呼びかけに少女は弱々しい声で答える。

 心なしか、その声には驚愕の念が込められている気がした。


 少女がその場に立ち上がろうとする。体が憔悴しているのだろうか、その動きは酷く弱々しく、緩慢だった。けど、ここから見た限りでは、それほど大きなけがは無さそうだ。どこか骨折した雰囲気も無い。とりあえずは大丈夫そうだ。


 そう、俺が思った次の瞬間、『――ブロロロロ……』という、重厚な機械の駆動音が辺りに響き渡り始めた。


 釣られて辺りを見回すと、一台の軽トラがものすごいスピードで走っている光景が目に映る。軽トラは右へ左へと小さく蛇行していて、どう考えても普通の様子では無い。


 運転手に何かあったのだろうか。


 持病の発作でも発症したのか、あるいは飲酒しながら運転をしてしまったのか。


 様々な仮説が頭の中を過ぎる。だが、明らかに暴走している軽トラの行く先に、先ほど突き飛ばされ、立ち上がったばかりの少女がいる事に気が付いて、それらの仮説全てが頭の中から吹き飛んだ。


 どう考えても、あのトラックが少女の手前で停止するとは思えない。寧ろ、その走行速度は加速度的に上がっていっているようにさえ見える。


 じゃあ、このままじゃ、あの少女は――


「おいおい、嘘だろ……っ!?」


 少女は――その場から動かない。いや、動けない、と言った方が正しいか。


 自身に迫りつつある危機に気が付いた少女はまるで金縛りにあったかのように動きを止め、ただその場に立ちすくんでいる。

 表情は絶望に染まっていた。


「早くその場から逃げろッ!」


 腹から、声を絞り出す。喉が潰れそうになるほどの大声で少女に退避を叫んだ。


「え……ぁ……ぃや」


 しかし、やはり少女は動かない。


 少女は俺の声にビクリと肩を震わせる反応は見せたものの、軽トラが迫ってくるという恐怖に打ち勝つことは出来なかったらしい。ガチガチと小刻みに振動するだけの少女の足は、一歩たりとも動く気配が無い。


 もう、軽トラは少女のすぐそこまで近づいてきている。


 少女の表情がより一層深い絶望に染まっていく。


 ダメだ。もう、あの少女は助からない。


 ……今からなら、間に合うか。今からなら、俺がここから少女の元まで走れば、少女を車の進路上から離脱させることは出来るだろうか。


 ……いや、ダメだ。


 俺は自分の考えを即座に否定した。


 確かに、今からなら少女が車に轢かれる前に彼女の元へ辿りつけるかもしれない。けど、それだけだ。時間が足りない。彼女と俺、二人とも無事に済ませるには圧倒的に時間が足りない。少女を助けるためには、俺が彼女を突き飛ばすしかない。だが、そうすれば、もれなく俺は軽トラに轢かれてしまう。


 俺は一瞬頭を悩ませて、視線を少女の方へと向けた。


『もう……いやだよ』


 少女の口が少しだけ開いて、言葉を紡いだ――気がした。


『だれか……たすけて』


 ――少女の、声。


 彼女との距離はこんなにも離れているのに。

 明らかに聞こえないはずの距離なのに。


 ――少女の声は、明確に俺の耳に届いた。


「――くそッ!」


 瞬間、俺は地を蹴り、少女の元へ走り出していた。


 その行動の中に俺の意志は存在していなかったように思う。ただ、勝手に体が動いた、という感じ。今は、葛藤も、恐怖心も、感情も、その全てが無関係だと言わんばかりに、体が勝手に動いていた。


 一歩足を踏み出すたび、少女に近づいていく。


 一拍の時が流れる度、少女に軽トラが迫っていく。


 間に合うか……間に合ってしまうのか。彼我の距離を考えると、それは微妙なところだ。


 というか、正直に言えば、間に合ってほしくないって思っている自分もいる。


 いや、だって、絶対痛いじゃん? あんな巨大な質量の塊があんな速度でぶつかってきたら……普通、死ぬじゃん? 


 死ぬのは普通は嫌だし。まだやらなくちゃいけない事、やりたいことだって沢山ある。


 だから、死にたくないよ。

 そう思うのはきっと、俺だけじゃない。誰だって死にたくないに決まっている。

 嗚呼、泣きたい。泣き叫びたい。

 何故、飛び出してしまったのかと自分を殴り飛ばしてやりたい。


 けど、聞いてしまった。聞こえてしまった。


 少女の懇願が、耳に届いてしまった。


 その少女の懇願が、俺の中にあった『ナニカ』を大きく揺さぶった。


 だから、気が付いていた時には体が動いていた。


 ――頭より考えるよりも先に、俺は少女を助ける選択肢を取っていた。


「――間に合えッッッ!」


 声を振り絞り、俺は我武者羅に少女の方へと手を伸ばす。


 するとそれが功を奏したのか、右手が少女の肩にかかった。

 時間的には間一髪、というところだ。

 もう、軽トラは目と鼻の先の所まで来ている。


 一刻の猶予も無い。

 間髪入れず、俺は少女を思いっきり向こう側に突き飛ばした。


「――ぇっ?」


 少女の体は思っていたよりも軽かった。少女は俺が思っていたよりも大きく飛び、無事に歩道へ着地。いや、着地というより倒れ込んだ、という表現が正しい。

 ともかく、彼女を救う事は出来た。


 俺は少女の様子を横目に見ながら、こちらに迫ってくる軽トラを顧みる。この時、もしかしたら、軽トラがギリギリで止まってくれないかな……なんて淡い期待が無かったと言えば嘘になる。


 だが、期待は容易く打ち消された。


 速度は全くと言っても良い程緩んじゃいなかった。


 軽トラは無慈悲と思えるほどに急速に距離を詰めて来ていた。


 ――そして。


 次の瞬間、視界がヘッドライトの閃光によって真っ白に塗りつぶされた。


 俺はその眩しさに思わず目を瞑ってしまう。

 視界が黒一色に埋め尽くされる中、体全体に大きな衝撃が奔った。

 体の内側から爆発してしまいそうな、大きな衝撃。それを感じた直後、体が横方向に吹っ飛ばされる感覚を覚える。


 ――あぁ今、俺、跳ね飛ばされたんだな。


 そう悟った直後。意識がプツリと途絶えた。


 体の感覚が消えていく。






















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