第64話 誓い

「イラステー、大丈夫か。」

目を開いた。

どれくらい時間が経ったのかわからなかった。

少し転寝うたたねしていただけかもしれない。

虚ろな瞳に映るのは、イラステーにどうしようもなく安心を与えるあの顔だった。

「イラステー、すまないが知っていることを全て話して欲しい。

おそらくとても重要なことなんだ。」

イラステーは体を起こした。

それをラドゥケスが支える。

気づけば部屋には見知らぬ男たちが集まっていた。

しかも皆、身分の高そうな人たちで服装からもそれとわかった。

だがイラステーは不安を感じなかった。

傍に彼がいるからかもしれない。

「イラステーと言ったな。

そなたはクノータス・ハグノスの姉に仕えていたと聞く。

何があったのか説明してくれ。」

男たちの中で一番年若い男が最初に口火を切った。

イラステーはラドゥケスを見た。

ラドゥケスは慎重に言った。

「この方はこの国エオナを治める王、スペリオル・ダブタロイ陛下であらせられる。」

イラステーはまたもや頬を叩かれたような衝撃を受けた。

その衝撃はラドゥケスにも伝わり、背中を支える手がイラステーを優しく撫でる。

それは励ますような動きだった。

「さぁイラステー、今は一刻の猶予もない。説明してくれ」

イラステーは感傷に浸っている時ではないことを悟った。

男たちと過ごしてきた時間が長いイラステーはそれが容易に理解できた。

寝台の上で両膝を折り首を垂れようとしたが、スペリオルはそれを制す。

それよりも話が聞きたいと。

「恐れ多くも申し上げます。」

イラステーは体勢を変えることなく話し出した。

イラステーはエタンキアを連れ出したこと。

マルケの屋敷に入り、庭を歩いていたところで男たちに襲われたこと。

応戦していると、マルケたちがやってきたこと。

そしてここへ来るまでの経緯を伝えた。

「ではクレウス将軍は間違いなく絶命したのだな。」

「はい。」

イラステーは認めたくは無かったが、陛下の問いに答えぬわけにはいかなかった。

男たちの中に重い空気が立ち込めた。

だが次の瞬間、突然ラドゥケスが立ち上がり、イラステーは彼ごと横殴りの力で押し倒された。

「そんなこと信じられるか!お前が奴らを引き入れたんじゃないのか!」

1人の男がイラステーに襲い掛かって来たのだ。

それをラドゥケスが庇ってともに倒れ、他の者たちも暴れる男の腕を抑えた。

「アーソン!落ち着け!」

イラステーはショックで動けなかった。

何が起こったか把握するのに時間がかかったが、わかれば彼の気持ちは痛いほど理解できた。

イラステーはその時、唐突に思い出した。

彼はマルケに弟子入りしようとハバシルまで来た男だ。

テレトーヴァでの別れ際、アーソンという名をマルケが口にしていたことを思い出した。

彼はマルケを慕っていたに違いない。

だからこそ彼の死を受け入れられないでいる。

そしてその原因がイラステーにあると思っているのだ。

果たしてそれを否定できるだろうか。

エタンキアとイラステーがいなければ、どんな未来になっていたか誰にもわからない。

もしかしたらマルケたちは生きていたかもしれないし、少なくともエタンキアは死なずにすんだはずだ。

イラステーは自分の首を切りたくなった。

「そんな…信じられない…。さっきまで一緒に…」

アーソンはむせび泣いていた。

イラステーはそんな姿に胸が潰れそうになる。

「ヒッキア将軍。陛下の御前だ。」

壮年の男が言った。

いかにも軍人といった風体で威厳に満ちていた。

「…はい…申し訳ありません。」

アーソンは片手で顔を覆いながら必至で冷静になろうと努めていた。

周りの男たちもそっと彼の腕を離した。

「今の話からはこの娘が奴らの仲間であるとは考えにくい。

屋敷に行った者から話を聞けばわかることだ。」

一呼吸置いたところでスペリオルがイラステーに切り出した。

「エクトンから預かった物を見せてくれ。」

その言葉にすぐに従いイラステーは懐から革袋を取り出した。

ラドゥケスがそれを受け取りスペリオルに渡す。

イラステーは中身を見ていいものか躊躇いながら視線がそちらに行くのを抑えられなかった。

部屋の男たちもスペリオルを囲んだ。

ラドゥケスはイラステーの傍を動かなかった。

イラステーはそれが嬉しく胸が熱くなる。

袋からは手のひらサイズの陶板と折りたたまれた紙片が出て来た。

スペリオルが陶板を注意深く確かめた。

「アーロガンタイ、カンカロスの紋章だ。」

男たちが低い歓声を上げた。

次にスペリオルは紙片を慎重に開いた。

「これが取り引きの内容だ。間違いない。密約の証拠だ。」

男たちはお互いの顔を見合わせ、希望に満ちた表情を浮かべている。

「エクトンの無事は確かめられたのか。」

この場で最も高齢な男が言った。

ラドゥケスがそれに言葉を返す。

「私の部下が屋敷に到着しているはずです。

もうすぐ報告があるかと思われます。」

イラステーが眠っていたのはほんの僅かな時間であることがわかった。

スペリオルが口を開いた。

「もしエクトンに何かあれば大事だ。

これだけでは証拠として心もとない。

何としても無事に帰ってきてもらわなければならない。

クレウスを失った今は、彼の代わりを務める者も必要だ。」

「陛下、その前にどうしてクレウスの屋敷に奴らがあらわれたのかを突き止めなければなりません」

アーソンをたしなめた男が言った。

その一言に男たちが動揺した。

「マルケの屋敷に向かうことはここにいる者たちしか知らぬこと。

その情報が漏洩したのならば、この中に裏切り者がいることになります。」

「その可能性は私も考えましたが、おそらくそれはないでしょう。」

ラドゥケスが答えた。

「もしこの中にそのような者がいるならば、センテレウス将軍は直ちに毒殺されていたか、センテレウス将軍と通じてこの証拠を隠滅していたはずです。」

ラドゥケスはスペリオルを見据えた。

「おそらく王宮を出る時につけられたのです。

センテレウス将軍がこちら側に着いたなら次に出る行動は密約の証拠の回収です。

相手にも予想できる動きだったでしょう。」

スペリオルは頷いた。

そこで部屋の外が急に慌ただしくなった。

複数の足音が近づくと扉がノックされた。

スペリオルが入るように命じる。

「失礼いたします。

マリウス・メトエイラ只今クレウス邸より帰還致しました。」

「センテレウス将軍は無事か。」

ラドゥケスは部下の言葉も終わらぬうちに尋ねた。

「は、ご無事でございました。

現在王宮に向かっております。

私は知らせのため先に馬を走らせて参りました。」

男たちに心からの安堵の溜息が漏れた。

「敵は生け捕ったか?」

ラドゥケスはすかさず確認する。

マリウスは首を横に振った。

「いいえ、我らが到着した時にはハグノスの私兵たちがすでに奴らを追い払った後でございました。

我らは遭遇すらしておりません。」

ラドゥケスは苦い顔をした。

イラステーはそんな彼の表情を見ていた。

「ご苦労であった。」

スペリオルが言葉をかけた。

「エクトンが戻り次第、会議を開く。」

男たちが頷いた。

スペリオルがラドゥケスを見た。

「この娘はしばらくここに居てもらわなければなるまい。

あまりにもこの件に関わり過ぎた。」

ラドゥケスが、はい、と返事をする声を聴きながらイラステーはラドゥケスの袖を引いた。

ラドゥケスがこちらを振り向いたところでイラステーは口を開いた。

「死体があるわ。」

意図を図りかねてラドゥケスが怪訝な表情を浮かべる。

部屋の男たちもイラステーの方に顔を向けた。

「エタンキア様を刺した男よ。

敷物に巻いて奥の部屋に隠してあるわ。

ばれていなければ回収されていないはず…。」

ラドゥケスは信じられないとでも言うような顔をした。

「お前が…?」

イラステーは曖昧に頷いた。

「私が…刺して…隠したの…。

その前にエタンキア様が奴を噛んだはず…。

エタンキア様の口は血で汚れていると思う。

男にも歯形が残っているはずだわ。」

あの時にはエタンキアはもう刺されていたのだと思うとまた目に涙が溢れた。

「この女は…」

壮年の男が何かを言おうとした。

イラステーが男に目を向けた。

彼だけではなく男たち皆がイラステーを見ている。

イラステーは少し怖くなった。

「なんと剛毅な…。マルケの娘。そしてそなたが見初めただけのことはある。」

スペリオルがラドゥケスに向かって言った。

イラステーは一瞬耳を疑ったがその疑問を陛下に尋ねるわけにはいかない。

「陛下、それが本当ならばすぐにでも死体を回収しなければなりません。

おそらく手がかりとなる人間は使ってはいないでしょうが、確認する価値はあります。

そして…クレウス将軍を迎えに行かなければなりません。」

ラドゥケスが言い淀んだことにイラステーは気づいていた。

ラドゥケスもマルケの死を受け入れられないのだ。

イラステーはただ彼を見つめていた。

マリウスがラドゥケスを見た。

「クレウス将軍の御遺体はすでに私の部下が運んでおります。

そばにご婦人の遺体もありましたがそちらはハグノスの傭兵たちに託しました。」

イラステーの目に涙が溢れる。

「エタンキア様でございます。

どうかマルケ様のお傍に…一緒に埋葬して下さい。

どうか…」

ラドゥケスが背を撫でた。

「気持ちはわかる。だがそれはクノータス殿が采配するだろう。」

「ラドゥケスよ。場所を変えよう。」

両手で顔を覆い嗚咽を漏らすイラステーには見えなかったが、ラドゥケスが首肯した気配がした。

「すぐに参ります。」

すると座っていた男たちが立ち上がり部屋を出て行った。

我が国の王がイラステーに会いにここまで足を運ばせていたことなど今の彼女には気づけるはずもなかった。

涙が止まらない。感情に流される自分が嫌だった。

ラドゥケスの手はイラステーの背にそっと置かれていた。

「お前が無事でよかった。」

イラステーは顔を上げた。

「ラドゥケス…本当にごめんなさい。私がここに残らなければ…」

「それはもういい。

俺がお前を拒まなければこんなことにはならなかったんだ。」

「私があの屋敷にいなければ、マルケ様もエタンキア様も生きておられたかもしれない…私がいなければ…」

「イラステー、それは誰にもわからない。

もうそのことは考えるな。」

イラステーは頭と心がぐちゃぐちゃになった。

感情的になることがどれだけラドゥケスに迷惑をかけるかわかっていながら、彼にずっとそばにいて欲しいと思ってしまう。

ラドゥケスはむせび泣くイラステーを後ろから抱きしめた。

「俺は行かなけれならない。

だがお前を安全な場所に移してやれない。

陛下も仰る通り、お前はここから出すわけにはいかない。

ここは決して安全な場所とは言えないのに…」

イラステーは静かに涙を流した。

行かなければならないと言うこの瞬間でさえ彼は傍にいてくれる。

それが今のイラステーにはありがたかった。

だが次の言葉はイラステーを奈落に突き落とした。

「イラステー、俺はアーロガンタイに向かう。」

ラドゥケスは腕を緩め、イラステーの横に来て向き直った。

「それがクレウス将軍の任務だった。俺が引き継ごうと思う。」

イラステーは久しく見なかった深い茶色の眼を見つめた、

「それは…とても危険な…」

「そうだ。」

ラドゥケスは頷いた。

イラステーはただ愕然とした。

「だが俺は必ず戻ってくる。だから待っていて欲しい。」

イラステーは青ざめた。

ラドゥケスはその理由を理解していた。

「今度こそ必ず戻ってくる。

もう二度とお前を手放したりしない。

俺は間違っていた。

信じられないだろうが、だがこれが本心なんだ。

今、お前の信頼を得るだけの時間がないことが腹立たしい。」

ラドゥケスは心の底から苛立っているようだった。

「だけど生きて戻れる保証はないんでしょう…?」

イラステーは辛うじてそれだけを言った。

「必ず生きて帰る。

何を犠牲にしても戻ってくる。

国が亡ぶことになっても…。」

イラステーは瞠目した。

彼にとって国は全てのはずだ。

「イラステー。待つと誓ってくれ。」

ラドゥケスは焦燥をただよわせてイラステーに迫った。

イラステーの答えなど決まっている。

とおの昔から決まっているのだ。

「待つわ。あなたを待つ。」

言い終わらないうちにラドゥケスはイラステーの唇を塞いだ。

突然体の芯に甘い疼きが起こった。

「ラドゥケス…」

塞がれた唇から呻くように彼の名を呼んだ。

彼はイラステーを黙らせるように唇で唇を覆った。

2人は何かから逃れるように夢中でキスに没頭した。

外界は全てが苦痛に塗れている。

一時でもそれらを忘れられるなら、この甘美な衝動にいくらでも埋もれていける。

逃避にも似た感覚を分かち合っているという確信がお互いにはあった。

口腔を侵す淫靡な感触。

お互いの舌が絡み合い、ラドゥケスの柔らかく温かい舌が自分のものを追いかける。

イラステーがこれまで経験したことのない快楽がそこにはあった。

だがついに説明できない焦燥がついに2人を引き剥がす。

一瞬でも流れた退廃的な空気を振り払うように、ラドゥケスは笑って言った。

「これで戦いの女神の加護を得たな。」

その懐かしい笑顔を見て、イラステーは束の間の幸せを得たような気がした。

この時だけは全ての悲しみを忘れることができた。

「俺の無事を祈っていてくれ。」

イラステーは反射的に頷いていた。

「もう行かなければ…出立前にまた会えるはずだ。

お前は休ませなければ…湯と着替えを持たせる。待っていろ。」

イラステーはまた頷いた。

ラドゥケスはイラステーの額にキスをして出て行った。

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