エンターテイメント性の評価で動く社会
コリイ・ドクトロウによるSF小説「マジック・キングダムで落ちぶれて」 〜 Down and out in the Magic Kingdom 〜 の舞台である未来世界では、貨幣に基づく経済体制が消失しており、すべての価値基準は「ウッフィー(whuffie)」と呼ばれる『他者からの賞賛』で測られている。
つまり、他人からの評価が良ければ、その蓄積を実社会で振るう『影響力』として利用することができ、欲しいものを手に入れ、好きなことを行える。
さらに、すべての人は脳にネット接続用のワイヤレスデバイスをインプラントして常にオンライン状態で生活しているし、その人がどれほどウッフィーを集めているかはオープンされて周囲から見られている。
リアル世界の人物の横に、常にAR表示で「ウッフィー」の数が表示されているような感じだろうか?
言い換えると『人気がすべて』という背筋の震えそうな恐ろしい世界である。
他者からの人気の高さが資産と権力そのものである、という状況を恐ろしいものと考えてしまうのは、たぶん、その世界では「極貧・最下層」に位置するであろう私の個人的な感覚であって、「素晴らしい!」と考える人の方が多数派だったりするのかも知れないのだが...。
ここまで読んで多くの方は、現在「Youtuber」として高収入を得ている人々の存在や、Facebookで沢山の「いいね」を集めたり、Twitterで世界中に「RT」されていくことなどを連想したのではないだろうか?
「マジック・キングダムで落ちぶれて」の出版は2003年であり、ローカス賞を受賞した2004年は、まさにFacebookが設立された年である。(ちなみにYouTubeの設立は2005年、Twitter設立は2006年だ)
そもそも作者のコリイ・ドクトロウ氏は文筆家ではなく、P2Pソフトウェア開発の企業を起こしたりしていたテック業界由来の人間なので、ネット上での『賞賛と批判でドライブされる文化』の行く末に対して、先見の明があったのだろう。
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「賞賛」は貨幣と違って、譲渡や利子などによる再生産もできないので、外部から得たものが持っているもののすべてであり、ある時点でどれほどの賞賛を集めていたとしても、それが次の賞賛を生み出すものとして直接機能してくれるわけでもない。
つまり、理屈上は貨幣経済のような「資本家」という存在が成り立ちにくいわけで、人々は経済的には貧富の差もなく幸せに暮らしている、はずだ。
なのに、この世界に感じる居心地の悪さはなんだろうか?
いや、居心地悪そうに感じるのは、上述のように私の性格的問題なのかも知れないが、なんというか「人々が他人からの賞賛を受けることのみにフォーカスして活動している世界」には、曰く表現しがたい『脆さ』が潜んでいるように思われてならない。
この小説の舞台が「マジックキングダム」つまりはフロリダにあるディズニーワールドに設定されているように、人々から賞賛を受けるもっとも手っ取り早い方法は、目立つエンターテイメントを提供することだ。
だから主人公と絡む重要人物の一人は、社会改革への貢献で莫大なウッフィーを集めていたものの、改革が終わればすることがなくなり、結局は主人公によるテーマパーク運営の改善を手伝うことになる。
なんとも身につまされる話ではないだろうか?
世界の難しい問題や嫌な問題はあらかた片付いて、人々が生活を苦にすることもなくエンターテイメントに没頭できるのだから「素晴らしい社会」の筈なのに、それを素直に素敵だと思えないなにかが、そこに隠されているような気がしてならない。
思うに、賞賛駆動型社会においても、ほかの経済体制と同じように、その賞賛の「自然独占」は発生するだろう。
現在でも、先頭を切ってある程度の人気を得たフォアランナーであるYoutuberやブロガーが多額の広告収入を受け取るのは当たり前で、後発者が、すでに一定の人気を得ている先発者と同じことをしても、同じ評価(つまり同じ収益)は得られない。
さらに、市場原理を強める方向へと働く「検索駆動型」のネットワークアクセスは、検索上位にあるものへアクセスをさらに集中させ、それを常に上位に出し続けることによって、アクセスの寡占化を後押し(これも自然独占の一種だ)していくので、同じことをやっていたのでは、単純に費用対効果の点からも後発者に勝ち目はない。
したがって後発者は、先発者を凌駕するために、よりエンターテイメント性を高める必要があり、これはしばしば「更に過激な行動や表現」として実装される。
常に新しいもの、新しい刺激を提供していくことが必要とされるわけで、これ自体は社会を進歩させるために良しとされることだろう。
ただ、そこで気になるのは人間の精神が持つ「飽きっぽさ」だ。
いま現在においても、エンターテイメントコンテンツの消費の早さは、恐ろしいほどに加速し続けている。
それに対して、オリジナルな創作活動というのは、そうそう実現できるものではないし、創作のスピードが消費に追いつかない。
どこかで見たような焼き直しが増殖するのは、無理もないことなのだと思う。
『消費量が増えるほど欲求が増大する』という、人間の基本的な性質を踏まえた時に、このSF小説のような「他人からの評価で駆動される社会」が、どれほどのスピードアップを人々の行動に求めるのかは想像もつかない。
そこには長期的な展望や、評価(という対価)を求めない貢献が長期的に存続できる余地は少なく、即時的な高評価が得られる物事に人々の意識が集中するだろう。
小説「木を植えた男」のブフィエのような人物は、単に黙々と植林行動を行うだけでは駄目で、自分が生態系の回復に貢献していることを周囲に自己アピールし続けなければ、日々の生活さえ難しい。
周囲に理解されにくい地道な行動の積み重ねでしか実現し得ない叡智や文化は、五月雨を集めた最上川のごとき奔流に揉みくちゃにされ、形を持って表層に浮かぶことすらなく押し流されてしまうのではないか? そんな危惧さえ持ってしまう。
それは、社会全体が「ディープラーニング」によるパターン学習で刹那的に次の行動を決めていくかのようでもある。
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< 作者のコリイ・ドクトロウ氏は、電子フロンティア財団(EFF)で著作権問題に取り組んでいたり、Creative Commonsを推進する活動家だったりする関係で、その著作もCCライセンスで公開されていたりする。>
< 「マジック・キングダムで落ちぶれて」の世界では、肉体をいつでもクローン生成できる技術と、その人の精神と記憶を永続的に保管できる記録装置の開発によって、人々は事実上の不死性を手に入れている。>
< しかも記憶は「バックアップ」としてバージョン管理されているので、例えば、「もの凄く嫌な出来事」があった時には、それ以前の時点に自分自身の記憶を巻き戻して忘れてしまう、というか、それを未体験の状態からリスタートする、ということさえできてしまう。これは魅力的であると同時に、記憶の連続性に基づく「自分」という感覚に一石を投じるものだろう。>
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