古くからある電卓の話


スマホには電卓アプリが標準装備されているので、最近は単体のハードウェアとして『電卓』を持っている人は少数派かもしれない。ちょっとした計算などは、Googleの検索窓に数式を打ち込めば計算できてしまうし、もしも、複雑な計算なら迷わずエクセルのシートを開くだろう。


その電卓の話なのだが、古い製品で、ヒューレット・パッカードの名作と言われるHP-10Cシリーズというものがある。


これは、一般的な関数電卓の10Cと11C、それに金融計算用の12C、技術系算用の15C、プログラマー向けの16C、というラインナップで、発売されたのは1980年代初頭にも関わらず、金融向けのHP-12Cは2018年現在でも新品を購入することができるという、恐るべきロングセラー商品である。


途中で製造中止やブランクを経ての改良版復活などの変遷はあったが、それでも民生用電子機器で35年以上も生き延びている商品は非常に希有だ。


ちなみに、私がいま所有しているのは数年前に買った15Cの復刻版だが、操作性はどれも大体似ている。(他に使ったことがあるのは上述の12Cだけだ)


全種類を触ったこともないのに、どれも操作性が似ていると言い切れる理由、そして、このシリーズを35年以上も売り続けることができている理由は、この電卓が市場で数少ない「逆ポーランド記法(RPN)」という演算記述方式を持っている電卓だという点にある。


コンピュータープログラミングを行う人間でないと馴染みがないと思うが、逆ポーランド記法とは、例えば(4+3=)と言う数式を、(4, ENTER, 3, +)と書くのである。電卓上でのキー入力も、まさにこの通りに行う。


(だから、もっとも大きく押しやすいキーはENTERキーだ。上記のカンマ「,」は文中で読みやすいように私が入れただけで、数式としては入力しない)


馴染みのない方には「意味不明...」というか「なんでそんな面倒くさそうなことを...」という感想しか浮かばないのではないかと思うが、ニッチ市場とは言え頑固なファンがいることにはちゃんとした理由がある。


(4+3=)を口に出して喋ると「4、足す、3、は?」という感じだ。

じゃあ(4, ENTER, 3, +)はどうなるのかというと、「4、に、3を、足すと?」という流れになる。


やっぱり面倒かつ意味不明? いや、このまま計算を続けてみよう。


(4+3)の計算が終わったところで、「その答えに2足す7をかけて」と言われたらどうだろうか?


つまり数式にすると「(4+3) ×(2+7)=」である。


カッコ演算機能のない通常の電卓では、(4+3)と(2+7)は別々に計算して、最初の足し算の答えをメモリーに入れるか暗記するか、紙に書き出す必要がある。

先ほどの計算で、電卓の表示には「7」と出ているはずだ。

しかし、かけ算の前に次の括弧内の足し算を済ませなくてはならないので、この「7」は一旦メモリーに格納するか暗記しておいて、あらたに(2+7=)とキーを押す。

そして、「9」という答が表示されたらおもむろに(×)を押し、脳か電卓か、どちらかのメモリーから(7)という数字を呼び出して投入する。

これでめでたく「63」という解が得られた。


同じ計算を逆ポーランド記法でHP-15Cに入力する場合はこうなる。


(4, ENTER, 3, +, 2, ENTER, 7, +, ×)


言葉にすると「4に3を足して、2に7を足して、それをかける」だ。

この一連の流れで最後の(×)を入力すると同時に「63」という結果が表示されている。


乗除算の優先が勝手に行われているように見えるのは、スタック形式(スタックマシン)という逆ポーランド記法で計算を行うルール上、こうなるものであって、電卓がAIで気を利かせているわけでも、ちょっとズルをしているわけでもない。


と言うわけで、乗除算の優先など、カッコの必要な細かい計算がだらだらと続く場合でも、逆ポーランド記法の電卓であれば、かなりスムーズに入力していける。おまけにHP-Cシリーズはレジスタ(数値のメモリー)も潤沢なので、途中経過を書き出したりという必要性も少なく、総じて計算に集中できるのがメリットだ。


もし、興味を持たれた方がいたら、スマートフォンのアプリとして逆ポーランド記法の機能を持った電卓はいくつか存在しているので、わざわざ高価な製品を買わなくても試してみることはできる。お金を払ってまで試す価値があるか? というのはまったく別の問題であるが...たぶん、無い。


正直に言っておくが、慣れるまではかなり使いにくく感じると思う。(単純明快なメリットがありながらも、一般社会にはまったく普及していないというのがその証拠だ)


そして、逆に一旦慣れ親しんでしまうと、もう普通の電卓には戻れなくなる、というのもデメリットかもしれない。


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< 逆ポーランド記法は、「Reverse Polish Notation」を略して「RPN」と書かれることが多い。電卓アプリなどでも「RPN」という単語がくっついていたら、まず間違いなく逆ポーランド記法の機能を持っている製品だ。>


< ちなみに私はiPhoneアプリの電卓でもRPN製品を使っている。>


< HP-12Cのどこが「金融向け」なのかというと、あらかじめ装備されている金融向け関数で、利率などの計算が容易であるためだ。

私が試しに使ってみた時には、ある個人的な事柄の金利計算を行ってみたのだが、その操作性の良さに感銘を受けつつも、瞬時に表示された計算結果(支払い総額)を見て憂鬱になった。

もちろん、個人として日常的に金利計算が必要になることはないだろうから、これはあくまでプロフェッショナル向けの製品である。>


< グラフィックデザイナーの方は「Postscript」という名前をご存じだろう。ページ記述言語としてプリンター制御に使われたり、Adobe Illustlatorが出力するファイルの記述形式として見覚えがあると思うが、あれも一種のプログラミング言語であり、内部では逆ポーランド記法が使われている。>

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