第四章⑩
血液型不適合妊娠と言うものがある。
これは母親と胎児の血液型が異なるだけでなく、母親に『胎児の赤血球に対する抗体』ができた場合発生する。
血液型不適合妊娠には、母親がO型で胎児がA型かB型の場合に発生する『ABO式血液型不適合妊娠』と、母親の血液型がRh(-)で父親の血液型がRh(+)の場合に発生する『Rh式血液型不適合妊娠』の、二種類が存在する。
飯田さんに確認してもらった所、間部さんの血液型はRh(-)、旦那さんはRh(+)、一番目のお子さんはRh(+)であることがわかった。
Rh式血液型不適合妊娠の場合、胎児の血液型がRh(+)だと新生児溶血性黄疸が起こる可能性がある。
Rh(-)の女性が初めて妊娠し、分娩時にRh(+)の胎児の血液が母体内へ侵入すると、母体にRh(+)の血球に対する抗体が作られる。このときの新生児には、強い黄疸が出ることはほとんどない。黄疸とは、ビリルビンという体内で酸素を運ぶ赤血球から分解されてできる物質が過剰に血液中に存在することで、眼球、皮膚といった組織や体液が黄色く染まってしまうというものだ。またビリルビンは脳にも蓄積することがあり、神経障害など回復不能な生涯を引き起こす場合もある。
ところがRh(+)の第二子を妊娠した際、母体の中にできた抗体が胎盤とへその緒を通して胎児に移行し、それが『胎児の赤血球を破壊』する。そうなると胎児は貧血になり、出産後にビリルビンが血液中に増加。新生児に黄疸が出てしまう。最悪貧血によって胎児水腫となり、胎内で死亡することもある。これがRh式血液型不適合妊娠の場合に引き起こされる、新生児溶血性黄疸だ。
間部さんは十中八九、Rh式血液型不適合妊娠。更にお腹の子の血液型は、Rh(+)で間違いないだろう。間部さんのお腹の中で、新生児溶血性黄疸が起きているのだ。
だからユリさんには、間部さんの顔が薄っすらと消えかかって見えたのだ。
知らず知らずのうちに、間部さんはお腹の子を殺そうとしていた。間部さん(母親)から胎盤とへその緒を通して、お腹の子(自分の子供)に抗体(猛毒)を送ることによって。
病院に戻り、間部さんの主治医にこのことを伝えると、すぐに間部さんは検査室に連れて行かれた。
この件は予防法も確立されているし、間部さんも出産予定日まで時間がある。出産時には、母子ともに健康な姿が見れるはずだ。
「あぁ、疲れたぁ……」
俺とユリさんは、受付の椅子にだらしなく座っている。今は椅子の背もたれと、自分の背中が接着剤でくっつけられているみたいだ。
「それにしてもサトル、よくそんなムズかしい病気知ってたな。アタイには、最初何のことだかさっぱりだったぜ」
俺の右腕に絡まったユリさんが、ダルそうに俺の肩にもたれかかってくる。
「……昔取った、杵柄みたいなもんだよ」
そう言って、俺は力なく笑った。
血液型不適合妊娠に思い至ったきっかけは、間部さんが自分の血液型が珍しいと言っていたことと、献血のポスターに描かれた血液の調査項目の中に、血液型(ABC型、Rh型)が含まれているのを見たからだ。
新生児黄疸の話も、病院の中で聞いた気がしたが、いつ聞いたのかは忘れてしまった。
俺を見ていたユリさんは、つまらなさそうに口を開いた。
「やっぱサトルはすげーなぁ。アタイの知らないことまでちゃんと勉強して――」
「好きでしたわけじゃないよ」
「え?」
しまった。自分でも思っていた以上に、声が硬くなっていた。驚いたユリさんが、俺を見上げている。
俺は一つ深呼吸をした後、ゆっくりと話し始めた。
「立体駐車場で俺と母さんのこと、話したでしょ?」
「うん」
「俺が勉強してたのは、どこかにないか、探してたんだ」
「何を?」
「母さんが俺のことを、殺そうと思わなくてすむ方法が、あったんじゃないかって」
日本に生還出来た後、俺は入院していた病室でひたすら勉強ばかりしていた。自分の知識不足で、今の俺には思いつかないけど、どこかにそんな方法があるんじゃないかって。
親が自分の子供を殺そうとする悲劇を止める方法が、きっとどこかにあるんじゃないかって。
「まぁそんなもん、この世の何処にも存在していなかったんだけどね」
調べれば調べるほど、親が子を殺す事例が出てきた。
その中に、血液型不適合妊娠があった。
無意識に子供を殺してしまうかもしれないそれを見つけた時、俺の全身に怖気が走ったのを、今でも覚えている。
「間部さんが血液型不適合妊娠だって確信した時、いてもたってもいられなかった。助けたかった。母親に殺されようとしている子供を。救いたかった。知らずに子供を殺そうとしている母親を……」
最後の方は、もう声がかすれていた。独白に近いそれを、ユリさんは黙って聞いていてくれた。
「大丈夫だ、サトル。アタイたちは独りと独りだけど、一人ぼっちじゃないだろ?」
「……それ、俺がメールで送ったやつじゃん。パクんなよ」
「いいだろ別に。減るもんじゃねぇし」
そう言って、二人で顔を見合わせ、笑いあった。
「あ、そういえば喧嘩した後、結局何処にいたんだよ」
「あぁ、それはだなぁ……」
「六階の女子トイレの中っす!」
言いにくそうにしているユリさんから視線を後ろに向けると、腰に両手を当てた飯田さんがいた。
「もう、二人とも酷いっす! 頼み事をするだけして、用が済んだらポイっすもん。オレ寂しかったっすよっ!」
「悪い悪い。ほら、飯田さんに報酬」
「わーい! コーラっすっ!」
俺から缶を受け取ると、飯田さんは嬉しそうに俺の左側の席に、腰を下ろした。ちなみにコーラは俺が飲むために買ったものなのだが、まぁまだフタも開けてないし、いいだろう。
「今度アイスも奢ってあげるよ」
「マジっすか! オレ、武田さんに一生付いて行くっすっ!」
「このお調子者が」
俺の肩に自分の肩を二度ぶつけ、飯田さんは満面の笑みでコーラを飲み始めた。
それを見て、俺はユリさんに視線を戻す。
「で、話の続きなんだけど、」
「教えない」
ユリさんは俺の腕を抱えたまま、起用にも俺に背を向けて拒絶の意志を表していた。
「おい、どうしたんだよ」
「何でもねぇよ」
「トイレに行って、何してたんだ?」
「何もしてませーん」
「武田さんからのメール見て、めっちゃニヤニヤしてたっすよ」
「おい、モモっ!」
思春期の中学生みたいな返答しか返さなかったユリさんが、慌てて飯田さんの方に振り向いた。
「あんなユリさん中々見れないんで、激レアだったっすよ」
「だ、だってよぉ……」
マスクの下の顔を真っ赤にさせ、もじもじしながら言い訳を口にする。
「アタイも、ちょっとキツく言い過ぎたかなぁ、って……。サトルが本当はそんな奴じゃねぇってのも、知ってるし。でも、ホントにそう思われてたら、どうしようって、悩んでて……。そしたらサトルからメール来て。あ、あんなん反則じゃん、ずりーじゃん、不意打ち過ぎじゃん! あんなの送られてきたら、ア、アタイ、もう、どうしていいかわかんねぇし。急にサトルに会いたくなるし。でもアタイの方から行くのは、何か癪だし……」
話の途中で体を前後に揺らしはじめたユリさんから、俺は視線を飯田さんに戻した。
「ってことは、飯田さんは俺が電話をかけた時には、既に二人は会ってたんだね」
「武田さんと別れてから、すぐにユリさんからメールもらったんっすよ。それにオレ、ユリさんに頼まれたら、断れないっすからっ!」
あっけらかんとした飯田さんに、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「ユリさん、めっちゃ面白かったっすよ。スマホの電源を付けては消して、付けては消して。武田さんからのメールと着信を確認して、一喜一鬱してたっすから」
「一喜一憂な」
「いやいや、武田さんからの着信が完全に無くなったあたりで、ユリさんめっちゃヘコんでましたもん。あれは鬱っすよ、鬱!」
「……へぇ。それで?」
飯田さんに聞きながらユリさんを見ると、彼女は俺の右腕に顔を突っ込んで、自分の表情を見えないようにしていた。
「オレも何でかなぁって思って窓の外を見ると、武田さんが合田さんと一緒に歩いているのが見えたんっすよ」
「それでアタイも不味いと思って、ママにメールして、死ぬほど怒られて……」
「ユリさんママ、マジパネェっすよ。人って連撃入れ続けると浮くんっすねぇ。オレ、初めて知ったっすよ。衝撃的っす」
「俺は知りたくなかったよ、その話」
どちらかと言うと、ユリさんが花さんのことをママと呼んでいることの方が、俺には衝撃的だ。
そう思っていると、俺の腕に顔を埋めたまま、ユリさんがモゾモゾと口を動かした。
「それで、サトルが向かった立体駐車場にママに乗せてってもらって。そしたらサトルが襲われてて……」
その後は、俺も知っている。
俺は右手でユリさんの頭に手を置いた。右腕に顔を埋めていたユリさんは、俺が手を動かしたことで、今度は俺の脇に流れるように頭を突っ込ませた。
「サトル、汗臭い」
「うるさい。ユリさんだって……ちょっと、血の臭いがする」
大丈夫なんですか? 花さん!
「それじゃ、十分休憩したことだし、帰るとするか」
「そうだな」
「あ、その前に姉貴にメール送っとかないと」
スマホでメールを作成、送信していると、飯田さんが首をひねっていた。
「あれ? 今武田さん、ユリさんのこと、ユリさん、って呼んだっすよね?」
「そうだっけ?」
「そうっすよ! 絶対言ったっすっ!」
こちらを指差す飯田さんを横目に、俺は苦笑いを浮かべながら、次のバスの時間を検索し始めた。
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