第四章⑧

「お願い。覚」

 そう言って、母さんが俺ににじり寄ってくる。ナイフの柄を握り、その刃を俺に突き立てようと、にじり寄ってくる。

 母さんがナイフを手にしたのを見て、俺は全て理解していた。

 二人で生き残れないなら、一人になればいい。

 そうすればその一人が、もう一人の死体を食べて生き残れるから。

 母さんが言うことは、いつでも正しかった。

 だから俺は、それでもいいと思った。

 開放されたかった。

 波飛沫が目に入り、痛い。暴風が俺を攻め立て、体中が痛い。豪雨が降らす弾丸に撃ち抜かれ、全身が痛い。

 痛くて寒くて辛い。ただ痛い。ただ寒い。ただ辛い。

 早く、死にたかった。

 そう思った瞬間、高波でボートが揺れ、母さんが倒れた。

「ぁ……」

 そうつぶやいた母さんの体が、俺の上にのしかかる。波の揺り戻しで、ボートが更に揺れたのだ。

 母さんの、温もりを感じる。でもその温もりは、赤く、朱く、赫く、淦く、丹く、明く、紅く、絳く、緋かった。

「母、さん?」

 俺は全身血にまみれ、母さんを揺する手も血まみれだ。

 即死だった。

 元々衰弱していた所に、深々とナイフが母さんの腹に突き刺さったのだ。生きていられるわけがない。

 それでも俺は、必死になって母さんの血をかき集めた。そうすることで、一人ぼっちにならなくてすむんじゃないかと思った。

 でも、それは幻想だ。

 母さんは、死んだ。

 俺はもう、一人ぼっちだ。

 荒れ狂う波と、暴力的なまでの風と、全身を穿つ雨がこの救命ボートを世界から切り離し、俺は今一人ぼっちなんだと自覚した。

 死にたいと思った。こんな孤独に、耐えられるわけがない。

 それでも母さんの中から、赤い熱がこぼれ落ちてくる。暖かかった。暖かくて、温かかった。

 その熱を忘れたままでいれば、俺はすぐに死ねただろう。

 でも、思い出してしまった。この温もりを。

 命を、感じた。

 生きたいと、思ってしまった。

 だから俺は、人間を止めることにした。

 泣きながらそう決めて。

 悲鳴を上げ、怒号を発し、怨嗟をうめき、慟哭に濡れながら。

 俺は母さんを、喰った。

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