第四章⑦
「あの日は、とにかく天候が最悪だった。海に不時着しても、外は雨、風、波に煽られて、救命ボートに乗るのも一苦労。ボートに乗れないまま海に沈んでいく人、ボートに乗れても高波で海に落ちる人、ボートが転覆し、ボートごと海にさらわれる人。今思い出しても震えが止まらない。阿鼻叫喚ってのは、あのことを言うんだろうな」
目を閉じて、震えを押し殺すように、俺は歯を食いしばる。
子供の泣き声が飛行機の機内中に響き渡る。詰め寄る乗客をなだめながら、乗務員は避難誘導を開始した。
だが外は大嵐。中々救命ボートを出すことが出来ない。そうこうしている内に、機体は徐々に海に沈んでいく。焦りと緊張と不安が、乗客乗務員の胸中に渦巻いた。
そして窓ガラスが海面の下を映しだした瞬間、何人かの理性のタガが外れた。いや、ある意味理性的な判断だったのかもしれない。生き残るために自分は何をすればいいのか、理性的に考えた上で、あれが起こったのかもしれない。
暴動だ。
怒号を発し、乗務員を押しのけ、我先に救命ボートに乗り移ろうとする数名の乗客。後はもう、芋づる式だ。
自分は助かるんだという罵声が飛び交う。何故自分がこんな目に合うのかと絶望の怨嗟が聞こえる。再び子供が泣き始め、母親が子を抱きしめながら涙を流す。
絶叫と叫声と疾呼が競い合うように聞こえ、激情と狂乱と悲観が機内を包む。
そんな中、俺は自分の席に座ったまま、ただ呆然としていた。何も考えることが、出来なかった。
でも、俺の両親は違ったようだ。暴動を抑えるのに協力する代わり、俺たちの救命ボートの席を確保するよう、乗務員と話をつけてきた。
『覚。あなたもお父さんに協力しなさい』
母さんにそう言われ、俺は席を立った。そうすることで、自分たちは生き延びることが出来る。やはり母さんの言うことは、いつも正しい。
暴動を抑えるために父さんの元へ急ぐも、やることはたいしてなかった。非常扉の外を見ると、暴徒たちは全て、海に飛び込んでいた。
そして、救命ボートの奪い合いをしていた。
我先にと海に飛び込んだ人は、結局ボートまで辿り着くことが出来なかった。よしんば出来たとしても、先にボートに乗った人に、海に突き返される。ボートにはまだ数人乗れる余裕はあるはずだが、恐慌状態になっているため正常な判断が出来ていない。人が増えることにより転覆してしまうのでは? という疑念に取り憑かれ、まるで自分の城を守るかのように、周りの人間をボートに引き上げようとしないのだ。
人の醜悪さに、吐き気がしてくる。子供を抱きながら沈んでいく母親の姿を見て、俺はその場で泣き崩れた。
何なんだ、これは。一体何なんだよ、これは!
俺たちは、人間は、こんなに醜いバケモノなのかよっ!
俺が歯を食いしばり、無音の悲鳴を上げている間に、両親が乗務員と何か話をしている。話が付いたのか、母さんが俺の方までやって来た。
『話がまとまったわ、覚。あなたは私と一緒のボートよ』
『え?』
『海に飛び込んだ人が多くて、救命ボートが余ってるの』
『でも、父さんは?』
『別のボートに乗るわ』
『一緒に乗れないの?』
『出来るだけ少人数のほうが、何かあった場合都合がいいでしょ? 非常食だって、無限にあるわけじゃないんだから』
母さんのその言葉に、俺は渋々頷いた。大丈夫。だって母さんの言うことは、いつも正しいから。
「それであなたは、武田桜と同じ救命ボートに乗った」
合田の言葉に、俺は頷いた。
「でも、救助は中々やってこなかった。大嵐も、収まる気配がなかった」
「しかしそれでも、確実に食料はなくなっていく。そこで――」
「俺たちはついに、非常食を食べ尽くしてしまった」
俺の言葉を聞き、合田の目が見開かれる。困惑しながらも、奴は口を開いた。
「待ってください。二人で、食べ尽くした? では、その後あなたたちは、何を食べていたんですか?」
「大嵐のど真ん中だ。雨水は欲しくないほど降ってくる」
「で、では何故、武田桜は殺されなければならなかったんだっ!」
「なぁ。あんた、ペン持ってるか? 当時の状況を再現してやる」
合田の声を無視し、俺は奴に問いかける。
疑問の表情を浮かべつつ、合田は胸ポケットからボールペンを取り出し、俺に手渡した。
手にしたそれは、キャップの付いた黒インクの、何処にでも売っていそうなボールペンだった。
「ありがとう。では、このペンをナイフに見立てよう。キャップの付いている方が『刃』で、反対側が『柄』の部分だと思ってくれ」
見せびらかすように、俺はボールペンの先を握りしめた。
「食料の尽きた救命ボートの上で、俺たちは雨水だけで飢えをしのいでいた。だが、そんなもんすぐに限界が来る。体の体温が下がり死に体となった俺に、ある時母さんが、こう言ったんだよ。『きっと、もう二人は助からない』って」
「まさか、武田桜は自殺?」
合田の見当違いな考えに、思わず俺は笑ってしまった。
「違う。母さんはそんなに諦めのいい人じゃない」
「なら、他にどんな理由で――」
「二人で生き残れないなら、一人になればいい」
合田の言葉を遮り、俺はそう言った。
合田の顔が、驚愕に歪む。ようやく俺があの時何をしたのか、気づいたらしい。
「まさかっ!」
「そう。だから母さんは俺に向かって、こう、ナイフを差し出したのさ」
俺はあの時、母さんが持っていたように、ボールペン(ナイフ)を握りしめ、合田に向かって差し出した。
それを見て、合田の顔は更に歪んだ。
恐怖によって。
「そんな、そんなはずはない! そんなこと、あっていいわけがないっ!」
「いいや、事実だよ」
俺の手は、ボールペンのキャップが付いていない方を握っていた。
つまりあの時、母さんは俺に向かって、
「母親が子を殺してまで生き残ろうだなんて、あっていいわけがないだろうがっ!」
ナイフの刃を、差し出していたのだ。
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