第四章④
ようやく階段を登りきり、俺は上がった息を落ち着けるため、深呼吸をした。
薬を受け取った後、俺たちは間部さんの病室へと移動を開始した。間部さんの病室は六階にあり、そこまで階段で登ってきたのだ。
エレベーターを使えばこんな苦労は必要ないのだが、鈴木さんの意向で階段を使うことになった。あの密閉された空間にバケモノが入ってくるかもと考えるだけで、絶対無理とのこと。
「武田さん、ユリさん! こっちっす!」
先行していた飯田さんが、こっちに向かって手を振ってくれる。彼女が立っている目の前の部屋が、間部さんの病室だ。
「サトル、大丈夫か?」
「ああ、もう大丈夫だよ。鈴木さん」
俺に付き合い、鈴木さんは俺と同じペースで歩みを進めている。本当のところは俺から離れて行動しようとしないだけなのだが、今この時ばかりは励ましてくれる彼女の存在がありがたい。
遅まきながら飯田さんがいる場所に到着すると、彼女は早速病室の扉を叩いた。
「ユーコさん、オレっす。モモっす!」
『おー、来たか。入んな』
「失礼するっすっ」
俺が病室の札に『間部裕子』と書かれているのを確認していると、飯田さんが勢い良く扉を開いた。
病室の中は、清潔感溢れる白を基調としたデザイン。当然、部屋に置かれているベッドのシーツも真っ白だ。
だからこそ、そのベッドで横になっている人は、その人の橙色に染め上げられたベリーショートのその髪は、猛烈に目立っていた。
「あれ? ユーコさん、髪伸びたんじゃないっすか?」
「そうか? 久々に会うから、そう思っただけなんじゃねぇの?」
ベッドに駆け寄った飯田さんに向かって、間部さんは自分の耳にかかった髪をイジりながら、そう答えた。
俺は病室の扉を閉め、鈴木さんと一緒にベッドに近寄る。
「初めまして。俺は――」
「ああ、ユリとモモから聞いてるよ。武田覚だろ? 間部裕子だ。よろしく」
そう言って間部さんは、自分の左手を俺に向かって差し出した。手を握り返すために近づくと、彼女のお腹がぽっこりと膨れ上がっているのに気がつく。
そこに、命が宿っているのだ。新たな生命が生まれるというその事実に、俺は少しだけ、心が暖かくなったような気がした。
「よろしくお願いします」
俺の左手を握りながら、間部さんは俺の顔を値踏みするように、じっと見つめる。
「ふーん」
「あの、何か?」
「いや、ユリとモモがやたらと武田のことを――」
「わぁぁぁあああぁぁぁあああっ!」
飯田さんが叫びながら、ベッドに突っ込もうとする。突っ込む直前に、俺は彼女の首根っこを左手で捕まえた。
俺についてどんな話をしていたのかは気になるが、まずは飯田さんを止める方が優先度は高い。
「な、何するんっすか武田さん! これは『美仁衣』のメンバー間の問題っす。いくら武田さんでも、口を挟まないで欲しいっすよ!」
「『美仁衣』はもう解散しただろ。あと、妊婦に襲いかかろうとするな」
「だ、だってぇ……」
そのやり取りを見ていた間部さんは、お腹を抱えて大笑いした。
「いやぁ。武田、お前面白いな」
「そうか? 自分ではそう思わないから、間部さんの周りに、たまたま俺みたいなタイプがいなかっただけなんじゃない?」
「そうかもしれないね。でも、だからこそ新鮮なんだよ。あ、私のことはユーコでいいよ。タメなんだよな? 私と武田」
「オ、オレのことも、モモって呼んでいいっすよ!」
「わかったよ。飯田さん」
俺がそう言うと、間部さんはまた大笑いをし、飯田さんはショックを受けたように固まる。
病室の中は、陽気な雰囲気に包まれていた。
俺も入院していたから、わかる。入院していても笑えるなら笑うべきだし、楽しいことがあるなら楽しむべきだ。
だがこの部屋の中に一人だけ、その雰囲気に溶け込めてない人がいた。
「鈴木さん。ほら、間部さんだよ」
「お、ぉぅ」
さっきから鈴木さんは、俺の右腕に潜りこむようにして隠れ、間部さんとまだ一言も喋っていない。
やはり鈴木さんには、間部さんもバケモノにしか見えないのだろうか?
それとも、仲が良かった間部さんがバケモノに見えてしまうことが、恐ろしいのだろうか?
中々喋り出さない鈴木さんのフォローを入れるため、俺は口を開いた。
「えぇっと、鈴木さんのこれは――」
「いいよ。モモから聞いてる。ユリも、大変みたいだな」
どうやら醜形恐怖症のことは、既に知っているようだ。間部さんはそれについては全く気にしてないようで、慈母のようにやさしく笑いながら、鈴木さんに話しかける。
「学校は、ちゃんと行けてるのか?」
「あ、ああ。サトルも、いるから」
「そうか。そいつは安心した」
不安そうにしながら、多少どもりながら、鈴木さんと間部さんの会話は続いていく。俺も飯田さんも、二人の会話には口を挟まなかった。
「赤ちゃん、何ヶ月目なの? ユーコ」
「五ヶ月目だ」
「え……。入院、早く、ない?」
「私の血液型って、珍しいらしくてさ。なんかあった時のために早く入院しとけって、旦那がうるさくて」
「そう、なんだ」
しばらく話した後、間部さんが時計を見て、残念そうな顔をした。
「悪い。そろそろ、定期診断の時間だ」
「そうっすか。ならオレたちは、ここでおいとまするっす!」
「まだ出産には時間もあるみたいだし、予定を合わせて、また来るよ」
「ああ、是非そうしてくれ。やることねぇから、暇で暇でしょうがねぇんだよ」
そう言って、間部さんは不満気にため息を付いた。
「じゃあ、また後で連絡するっす!」
「それじゃあ、また」
「おう。またな!」
一礼して、俺たち三人は病室を後にした。
「どうでした、武田さん! ユーコさんとのファーストコンタクトはっ!」
「中々面白い人だね。性格も良さそうだし、仲良く出来そうな気がするよ」
「でしょでしょ!」
まるで自分が褒められたかのように、飯田さんは満面の笑みを浮かべた。
「……サトル」
一方鈴木さんは、まるで見てはいけないものを見てしまったかのように、顔中真っ青になっていた。
「今会ったのって、本当にユーコだったの?」
「え? そうなんだよね、飯田さん」
「はい。そうっすよ」
俺は初対面だが、何度も間部さんと会ったことのある飯田さんが言うのだから、間違いないのだろう。
それに、俺もあの病室の札にかけられていたのが『間部裕子』だったことを確認している。
俺たちがさっきまで話していたのは、間部裕子で間違いない。
「サトル、ちょっと」
「わ、ちょ、鈴木さんっ?」
後ろを振り返ると、飯田さんは何が起こったのかわからず、俺と俺を連れて急に走りだした鈴木さんを見て、呆然としていた。
やがて鈴木さんは、誰も近づいてこないことを確認し、廊下の角で停まった。
「ちょっと! どうしたんだよ鈴木さん。急に走り始めて。飯田さん、置いてきちゃったぞ」
肩で息をしていると、鈴木さんは泣きそうな顔で俺の両目を見つめ、こうつぶやいた。
「ないんだ……」
「……まさか!」
間部さんの顔が見えなかったのか!
そう思った直後、鈴木さんは首を振る。
「違う。まだ、残ってる」
「まだ?」
「薄っすらとだけ、見えなくなってるんだ」
「間部さんの顔が、消えかかってる状態だっていうのか」
「なぁサトル、どうしよう! アタイ、こんなの初めてで、どうしたらいいかわかんねぇよぉ! なぁ、サトルっ!」
「待て、落ち着け! ひとまず息を整えろ!」
鈴木さんにそう言いながら、俺は間部さんの件について、頭の中で状況の整理をし始める。
まず、過去に殺人を犯したことがある人の顔は、鈴木さんに見えなくなる。
どれだけ過去にさかのぼれるかはわからないが、第二次世界大戦から現在までに人を殺したことがある奴の顔は、見えなくなりそうだ。
そして殺人に関わったのが複数犯だとしても、実際に手を下した人の顔だけが見えなくなる。
ここまでが、鈴木さんに人の顔が見えなくなる条件だ。
では、間部さんの場合は、どうだろう?
顔は、消えかかっている。つまり、顔が見えなくなりつつある。
顔が見えなくなるのは、自分の手で殺した殺人犯だけ。
逆に顔が見えるのは、自分の手で人を殺したことがない人だけ。
ということは――
「間部さんは、徐々に誰かを殺そうとしている?」
「おい、サトル。何言ってるんだ。ユーコがそんなことするはずないだろ!」
「でも鈴木さんには、間部さんの顔が見えなかったんだろ?」
「まだ見えてるっ!」
鈴木さんが激高し、俺の胸元をつかみ、自分の方へと近づけた。彼女の瞳の色は、激怒の一色で塗りつぶされていた。
「大体、入院中のユーコが、一体誰を殺せるっていうんだよ!」
「誰かはわからない。でも、徐々に人を殺す方法なら、ある」
「何だと?」
「毒殺だ」
俺は鈴木さんを睨み返した。
「毒物を徐々に誰かに飲ませれば、いずれ致死量に達して、その相手は死ぬ。後はカプセル剤を使えば、カプセルが溶けるまで毒は体に回らない」
「だから、ユーコは人を殺すような奴じゃねぇんだよっ!」
「でもお前の目は、人殺しを見分けれるじゃないかっ!」
ハッとした表情になった鈴木さんの手を、俺はつかんだ。
「鈴木さん、急いで間部さんの病室に戻ろう。幸い、今は定期診断中でいないはずだ。病室を探せば、何か毒物が見つかるかもしれない!」
間部さんの病室に走りだそうとした俺の手を、鈴木さんは強引に解く。うつむき、顔が見えなくなった彼女は、わずかに残った肺の空気を絞りだすように、苦しそうにつぶやいた。
「……今まで、そう思ってたのかよ」
「……鈴木さん?」
「今までそうやってアタイのこと、人殺しを見分けるための、道具だと思ってたのかよっ!」
顔を上げた彼女の両目からは、涙が溢れ出していた。こんこんと湧き出る清水のような透明さを持ったそれは、彼女の口を覆い隠しているマスクを涙色に変えながら染み込んでいく。
それを見て俺は、致命的なことをしてしまったんだと、ようやく今気づいた。
「そうだよ。そうだよなぁ。そうじゃなきゃ、こんなイカれてるアタイの面倒なんて見ようと思わねぇよ。お前の姉貴はサツだから、アタイには利用価値があった」
「違う! そんなこと思ってないっ!」
俺が一歩前に出ると、鈴木さんは一歩下がった。どうしてだろう? 目の前にいるはずの彼女との距離が、地平線の果てのように遠くに感じる。
いつも、そばにいたからだろうか? いつも俺の右腕に彼女がしがみついていたから、いつも俺と彼女を隔てているものは互いの着ている服だけだったから、今は鈴木さんとの距離を、こんなに遠くに感じてしまっているのだろうか?
「一日中まとわりつかれて、家でしか自分の時間がなくても、殺人現場に連れて行けば犯人の目星は付けられる。だからサトルは、アタイに自分の時間を使ってもいいと思った。それで、アタイ(道具)を使いこなせるから!」
「だから違うんだ! 俺は――」
「うるさいうるさい! お前なんて、大っ嫌いだ。アタイの気持ちなんて、独りぼっちの寂しさを理解できないサトルなんて、大っ嫌いだっ!」
大気を震わす怒号を発し、鈴木さんは走りだした。彼女の咆哮は悲鳴にも似ていて、その悲痛さに、俺の体はバラバラに砕け散ってしまいそうだ。
彼女の世界は、広がってなんていなかった。まだ彼女は、独りぼっちで泣いている。
何より、彼女が俺を置いていったと言う事実に、俺の心が粉微塵になった。
鈴木さんにとってバケモノしかいないこの世界で、彼女は一体どう生きようというのか?
すぐに思い浮かんだのは、初対面のあの時。校舎の四階から椅子を落下させた、あの場面。
彼女はまた、同じ行動を取るのだろうか? そして、この世界を生涯拒絶しながら生きていくのだろうか?
一人ぼっちのまま、生きていくのだろうか?
――そんなこと、させてたまるものか!
その結論を出すのに、一秒もかかっていないだろう。だがその一秒で、彼女との距離は果てしなく遠く離れてしまった。その果てしない距離を埋めるために、俺は走りだす。
……鈴木さんの、言う通りだったのかもしれない。
彼女を道具だと思ったことは、一度もない。だが間部さんの件で、俺は彼女の気持ちを蔑ろにした。
間部さんの病室に入った時、鈴木さんは気づいていたはずなのだ。間部さんの顔が、薄っすらと見えなくなっていることに。
だからあの部屋で、彼女はたった一人戦っていたのだ。自分の友の、顔が見えなくなっていく恐怖に。そのことを言えない、孤独に。
それなのに、俺は……っ!
「あ、武田さん。探したっすよ。って、どうしたんっすか? そんなに慌てて」
鈴木さんを探している途中、俺と鈴木さんを探していた飯田さんと鉢合わせした。彼女は驚いた様子で、俺の顔を見ている。
「悪い。鈴木さん見なかった?」
「ユリさんっすか? 見てないっすけど、あれ? ユリさんと一緒じゃないんですか?」
「今探してるんだ。悪いが探すの手伝ってくれっ!」
「へ? あ、ちょっと! 武田さんっ!」
「見つけたら俺のスマホに電話かけてくれっ!」
飯田さんに心の中で謝罪しながら、俺は階段を降りていく。何処だ? 何処にいるんだ、鈴木さん!
壁に掲示されているポスターを横目に、俺はスマホで鈴木さんを呼び出した。
『おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません』
音声ガイダンスの定型文を聞きながら、インフルエンザの予防接種、看護師募集、献血のお願い、歯の治療、手洗いうがいの重要性、などが記載されているポスターの前を、俺は走り抜けていく。
通話を切り、鈴木さんへのメールを打つ。俺のそばを、医師と看護師が通りすぎた。
「先生。次の患者さんですが、」
「確か、新生児黄疸だったね。幸い、そこまで重傷ではなさそうだ。光線療法の準備を頼む」
「わかりました」
打ったメールを鈴木さんへ送信し、俺はまた彼女を探し始めた。
五階、四階、三階と探したが、鈴木さんの姿は全くない。
壁に手をつき、汗を拭う。焦燥感が俺の精神を苛み、血液を循環させる音が、やけにうるさく聞こえる。
ふと顔を上げると、そこにはあるポスターが貼ってあった。
再び歩き出すために、俺は手を壁から放す。横目で掲示されているポスターの内容を見て、俺は慌ててスマホを取り出した。
相手の番号を呼び出し、俺は再度走りだす。
『……もしもし?』
つながった!
『武田さん、そっちはどんな感じっすか? ユリさん、見つかりました?』
「いいや、こっちもまだ見つけられてない」
『そうっすか……』
飯田さんの沈んだ声から察するに、彼女の方でも鈴木さんを見つけられていないようだ。
「飯田さん。一つ、お願いがあるんだけど」
『何っすか?』
「あることについて、調べてもらいたいんだ」
『えっ! ユリさんの方は、どうするんっすか?』
「そっちは俺がやる。絶対に見つけてみせるから、飯田さんは調べ物の方を優先してくれ」
『わかったっすけど、何を調べればいいんっすか?』
俺は飯田さんと話しながら、二階を探していく。だが、鈴木さんの姿は見当たらない。
『じゃあ、オレはこれからそれについて調べるっす』
「頼む。あ、鈴木さんがいたら、」
『わかってるっす。すぐに武田さんに連絡するっすよ』
「ありがとう」
通話を終え、俺は鈴木さんの捜索に戻る。ダメだ。二階にもいない!
一階に戻り、また俺は走りだした。
処方箋の窓口を周り、ついには受付のカウンター前までやって来た。
鈴木さんと一緒に座っていた椅子を見て、二人で名前を呼ばれた時のことを思い出す。
もう一度電話をかけようと、俺はスマホを取り出した。
電話をかけた、その瞬間――
「おやおやぁ? どなたかお探し何ですかぁ? 武田さん」
背後から、声が聞こえてきた。
『おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません』
スマホは、定型文をしゃべり続ける。そのスマホを持った俺の手が、震える。
『おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません』
背中の冷や汗が止まらない。誰がいるのか確認するために顔を後ろに向けようとしても、錆びたネジのように、首がうまく回らない。だが、回す必要はない。
『おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません』
俺の後ろに立っている相手は、アイツしかいない。
「合田、一道」
「はぁい。先日お話させて頂いた事故の件について、詳しい内容をぉ、聞かせていただけませんかねぇ。それはもぅ、たぁっぷりと」
絶対に逃さないと、獲物を前にした猛獣の目をした合田は、そう言った。
『おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません』
以前変わりなく繰り返されるその定型文が、やけに遠くに聞こえた。
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