第三章①

 次の瞬間には、こっちに向かって落ちてくるのではないか。そう錯覚しそうなほどに重たげな雲の下、俺はもう一人の搭乗者の名前を呼んだ。

「……母さん」

 そのつぶやきは、果たして俺の母親、武田 桜(たけだ さくら)に聞こえただろうか。

 荒れ狂う波と、暴力的なまでの風と、全身を穿つ雨の音で、俺の肺からこぼれ出た言葉なんて、一瞬にしてかき消されてしまうだろう。

 それでも母さんは、もう一度俺の名前を呼んだ。

「覚」

 母さんの頬はスプーンで抉ったように痩けており、名前の通り桜色をしていた唇も、今では群青色になっている。髪は雨と風と海水でいびつに広がり、海岸に打ち上げられた海藻のように肌にこびりついていた。その初雪のようだった肌は、泥でもぶち撒けられたかのように土色へ変色している。二つの瞳は光を拒絶し、絶望と絶念と絶命が入り混じった、深く暗い闇色をしていた。

 きっと俺も、似たような姿をしているのだろう。

「覚。ごめんね」

 母さんはもう一度、俺の名前を呼んだ。

 謝罪と共に。

「きっと、もう二人は助からない」

 母さんの弱々しい声に、俺は頷いた。その通りだ。俺たち二人では、もう助かる見込みはない。そんな選択肢は、俺たちには用意されていない。

 母さんが言うことは、いつも正しかった。

「だから、ごめんね」

 そう言った母さんの手には、何かが握られていた。なんだろう?

 そう思った瞬間、当たりが照らされる。雷光だ。

 その次の瞬間には雷鳴が鳴り響き、その轟音に全身が打ち付けられる。

 光は、もう消えていた。

 でもその一瞬で、母さんが何を握っているのか、俺にはわかってしまった。

 それは、雨雲に稲妻が走った時の、鈍色をしていた。

 漂流し、救命ボートに唯一残った、食べられないもの。

 それは鋭利な、ナイフだった。

「こんな役割、背負わせちゃって、ごめんね」

 そう言って母さんは、俺に向かってナイフを差し出した。

 その意味を、俺は理解する。

 母さんが言うことは、いつも正しい。

 二人で生き残れないなら、一人になればいい。

 今の俺には、涙が出るほど体の中には水分が残っていない。

 それでも、俺は泣いた。出ない涙の代わりに、雨粒が俺の頬を流れ落ちる。それが痛くて、たまらなかった。

 今の俺には、声が出るほど体に力を込めることが出来ない。

 それでも、俺は叫んだ。出ない声の代わりに、雷鳴と海鳴が響く。全身が痺れ、もう何も考えたくなかった。

「お願い。覚」

 母さんの声が聞こえた。

 母さんの決意を理解し、もうどうしようもないんだと、狂いそうになる。

 母さんが、少しずつ俺に近づいてくる。けれども俺は、一歩も動くことが出来ない。

 母さんの決断が、どうしようもなく正しかったから。

 一人だけでも生きるには、こうするしか、方法がなかったから。

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