第二章④

「んっ、こ、これでいいのか? サトル」

 鈴木さんの口から、ため息に近いつぶやきがこぼれ落ちた。

 マスク越しにも関わらず、妙に艶っぽく感じるその言葉に、俺は首を振って答える。

「違うよ、鈴木さん。ここを、ほら、こうすれば」

 駄々っ子のように首を振る鈴木さんの手に、俺は優しく自分の手を添えた。

「やっ、サ、サトル。そんな、急にっ」

 手にほんの少しだけ力を込め、俺は鈴木さんを導いていく。

「大丈夫。鈴木さんにも出来るから。ほら、ここに入れるんだ。次は、自分でやってごらん?」

 そう彼女の耳元で囁くと、鈴木さんの息が荒くなり、目尻に透明な雫が溜まっていく。

「そんな、アタイ、もう、わけわかんなくなっちゃうよぅ」

「……君たちは、一体何をやっているんだ?」

 竹内先生がこちらを振り返り、心底呆れた様子で俺と鈴木さんの事を見ている。

「何って、数学の問題集を解いてるだけですけど? あ、だから鈴木さん、そこはここに代入するんだって」

「だから、わけわかんねぇって言ってんだろっ!」

 鈴木さんの絶叫が、保健室に響いた。

 俺と鈴木さんは登校して、迷わず保健室に顔を出した。出したというか、ここで一年間、俺たちは過ごすことになっている。

 同棲しておいて今更だが、俺は鈴木さんと一緒に学校生活を送ることになった。俺と一緒にいれば鈴木さんも通学出来るので、花さんのように彼女を簀巻きにして連れてくる必要もない。

 しかし、問題なかったのは通学まで。

 俺と鈴木さんが所属することになる三年二組の教室に着いた途端、彼女は教室に入るのを全力で拒否した。四十人近くいるバケモノ(同級生)と同じ部屋にいるのは、まだ彼女には耐えられないようだ。

 そこで竹内先生を含む学校側の出した結論は、鈴木さんの保健室登校。当然それに引きずられる形で、俺も保健室登校を余儀なくされていた。

 鈴木さんは最初保健室登校ですら渋っていたのだが、花さんに連絡すると言ったら苦虫を噛み潰したような顔をして、ようやく首を縦に振ったのだ。

 そんな鈴木さんは、いかにもやる気がなさそうに俺に問いかけた。

「なぁ、サトルぅ。ベンキョーなんてやめようぜー」

「何言ってんだよ。流石に高校は卒業したいって、鈴木さん言ってただろ?」

「そんなもん、出席日数足りてりゃどうにかなるってぇ」

「保健室登校で卒業する条件に、赤点取らないってのがあっただろ?」

「ウソ! マジで!」

「自分のことなんだから、ちゃんと聞いとけよ」

「……めんどくせー」

 シャーペンを放り投げ机に突っ伏す鈴木さんに、俺は声をかけた。

「いいから、ほら。先進めるぞ」

 俺は入院中、高校三年生で習う内容は全て予習を済ませてある。そのため必然的に、俺が鈴木さんに勉強を教えるという構図が出来上がっていた。

 まぁ何かをしている間、鈴木さんに勉強を教えている間は、余計なことを考えなくてもいいので、俺としても願ったりかなったりなのだが。

 鈴木さんの隣に座り、勉強を教える俺を見て、竹内先生は苦笑いを浮かべた。

「こうしてみると、武田くんに鈴木さんの件をお願いしたのは、大正解だったね。まさか教師役までやってくれるとは思わなかったよ」

「……流石に俺も一学生なんで、限界はありますよ。俺もわからない箇所があれば、遠慮なく質問させてもらいますから」

「もちろん。いくらでも質問してくれて構わないよ。ただし質問は職員室に行って、各教科の担当をされている先生に直接聞くように」

 俺は思わず、竹内先生を睨んだ。だが先生は、まるで俺のことが見えないとばかりに、素知らぬ顔でコーヒーをすすっている。

 すると、保健室の扉をノックする音が聞こえてきた。鈴木さんが一瞬、固まる。

 そんな彼女を気にもとめず、竹内先生は入室の許可を出した。

「どうぞ」

「ちーっすっ」

 扉を開け、中に入ってきたのは、飯田さんだった。

 飯田さんは俺と鈴木さんの姿を見つけると、満面の笑みを浮かべた。

「武田さん、ユリさん、お疲れ様っすっ!」

 高橋先生の事件後、飯田さんの俺と鈴木さんに対する態度は軟化していた。

 飯田さんには、あの事件を解決した俺と鈴木さんが、ヒーローのように見えているのだろう。飯田さんも三年二組に所属しているというのもあり、授業の進捗具合を教えると言う名目で、彼女は保健室に入り浸っていた。

 ……加藤さんを亡くした喪失を、俺たちで埋めようとしているのかもしれないな。

 一瞬、暗い思考が俺の頭を過る。だが、それはあくまで俺の推測でしかない。

 今考えていたことを悟られないように、俺は努めて明るく飯田さんに話しかける。

「ああ、お疲れ様。早速で悪いんだけど、授業の進捗具合を教えてもらってもいいかな?」

「了解っす!」

 飯田さんから話を聞いていると、鈴木さんが俺を盾にするように、腕をつかんでくる。

「サトル。あれ、モモ?」

「ん? ああ、そうだよ。飯田さんだ」

 何故そんなことを確認しているんだろうと思っていると、鈴木さんは俺から少しだけ顔を出し、

「……お疲れ様、モモ」

 と言った。

 衝撃だった。

 俺はもちろん、竹内先生や鈴木さんに話しかけられた飯田さんですら硬直している。

 硬直した飯田さんの頬が、徐々に緩み始めた。

「は、はいっ! お疲れ様っす! ユリさんっ!」

 二人の会話は結局これだけだったが、それでも保健室の中は、非常に希望にあふれた雰囲気となっていた。

 少しずつでいいから、こうやって鈴木さんの世界が広がっていけばいいと、俺はそう思う。

「――と、今日進んだのは、これぐらいっすね」

「ありがとう。助かるよ」

 飯田さんから授業の進捗状況を聞き終えた俺は、彼女にお礼を言った。

「いえいえ、これぐらいどうってことないっす! あ、そういえば武田さん。オレ、聞きましたよ。また何か事件に巻き込まれてるみたいじゃないっすかっ!」

 何処で聞いてくるんだよ、そんな話……。

「巻き込まれてるというか、姉貴の仕事に連れて行かれて、少しだけ事件について知ってるだけだよ」

 飯田さんの言葉に、俺はこれでもかというぐらい渋い表情で応じた。

 そんな俺の顔を見ていなかったのか無視しているのか、飯田さんは嬉しそうに話を続ける。

「武田さんとユリさんなら、即解決っすよね?」

「いやいや、流石に無理だろ。俺たちの出る幕はないよ」

「えー、ホントっすか? 実はもう犯人の目星、ついちゃってるんじゃないっすか?」

「馬鹿なこと言ってないで、ほら、もうすぐ次の授業が始まるぞ」

「ちぇっ。それじゃあ、オレは教室戻るっす!」

 そう言って、飯田さんは保健室から出て行った。

 その後姿を眺めながら、俺は飯田さんの言っていた事件について思いを馳せていた。

 犯人の目星が付いている、顔が見えない人がいた、あの殺人事件のことを。

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