第三章④

その事実に、俺は目線を下げ、自分の体にも異変が起こっていることに気が付いた。

血が、流れていないのだ。ブチの右腕が、俺の背中から腹に突き刺さっているにもかかわらず、だ。

「ちっちっちっち」

ブチが癪に障る笑い声を上げながら腕を抜き、俺の背中から飛び降りた。

俺は刺された箇所を確認するが、傷どころか着ている学ランも破れていない。

先ほどまでブチの腕が生えていた所に右手を当て、俺はその場にうずくまった。こうしていないと、アレのが流れ出すぎてしまう。

「ようやく役に立ったようだな、ブチ」

そこにカーネルが悠然と、ミツチカは俺に憎悪の視線を向けながらやってくる。

ミツチカは自分と契約しているジャックを俺が傷付けたことが許せないのだろう。悪魔にしては珍しく、契約した魔術師に対して仲間意識を持つタイプなのかもしれない。

それを見ながら、俺は今自分の身に起こったことについて思いをめぐらせていた。

俺は確かにブチに刺されたはずだ。この喪失感も、俺に何かダメージがあるからに他ならない。

だが、俺の体に傷はない。ブチの腕は、確かに俺の体を貫通したはずなのに。

そして、俺がブチに刺されてから半透明になったモロ。

ここから導き出される結論は、

「ま、さか。ブチの術、は……」


「察しがいいな。そうだ。ブチの得意な術は、魔術師と悪魔の間に結ばれた契約の強制破棄だ」


悪魔が半透明の状態で現れるのは、人間と契約をする時と、その契約が破棄された時だけだ。

俺はモロとの契約を破棄した覚えもないし、モロからも契約の破棄を伝えられてもいない。契約の破棄なんて起こらないはずだ。

だが、モロの体は今半透明に、俺とモロとの間の契約が破棄された状態となっている。

術は人智を超えた不思議な技のことだが、まさか悪魔の中に魔術師と悪魔の契約を破棄する術に特化したやつがいるだなんてっ!

カーネルのそばに控えているブチは俺の顔を見ながら、さもうれしそうに笑っている。

「ちっちっちっち。やっぱり悪魔との契約が破棄された時の絶望に染まる魔術師の顔は最高だっち! これだからご主人様のそばにいるのは何があってもやめられないっち! ご主人様と契約していれば、こういう顔にいつでも出会えるっち!」

ブチが俺を指差しながら、うるさいおしゃべりを続ける。

「ねぇねぇ、今どんな気持ちだっち? 契約が破棄されれば、お前の望んだ奇跡は、もう叶わないっち! 頼りにしていた悪魔も、もうお前を助けないっち!」

「あははははっ! 今回ばかりは、ブチの意見に賛成しよう」

ブチの甲高い声も、カーネルの高笑いも癪に障る。

だが、今の俺には何も言い返せないでいた。そもそも、俺は今喋れる状態ではないのだ。

近づいてきたカーネルが無造作に、容赦なく俺の鳩尾を蹴り上げたのだ。

「―― っ!」

口から、空気の漏れる音がした。

予期せぬ突然の衝撃に、俺は声すら出すことができない。カーネルは予備動作もなく、あまりにも自然な動きで俺を蹴り上げた。俺は無様にも吹き飛ばされる。ジャックが作った学ランの傷から石が入り込み、その石を押しつぶす形で、俺は地面に転がった。痛い。

うつ伏せになりながら俺は腹を押さえ、うずくまった。俺の口から透明な粘着性を持った液体が、地面に流れ落ちた。涎だ。

口に入った砂利を唾と一緒に吐き出しながら、俺はカーネルの口上を聞いていた。

「ふん。姫がいなければ、このざまか。やはり貴様は出来損ないだ!」

俺は痛みを堪えるように、腹にあてた手を学ランごと握りしめた。俺へのカーネルの罵倒は続いていく。

「昨日の急ごしらえの魔術師との戦闘も見ていたが、貴様は姫にばかり戦わせて自分では決して戦おうとはしなかった。強力な術を使えるにもかかわらず、だ。そしていざ戦ったとしても、このざまだ。貴様に姫はふさわしくないっ!」

カーネルの言う通りだ。

俺は戦えるにもかかわらず、術を使いたくないという自分の我儘で、本来なら俺が戦うべき魔術師同士の戦いを、モロに肩代わりさせている。

魔術師として俺は、出来損ないだ。

「魔術師は代を重ねる毎に鼓が増えていく。スカーレットの息子だから少しはやるかと思ったが、まさか追いつめられるまで術を使わないような臆病者だったとはっ! その様子ではどうやら自分一人で術を使うことはできんようだな。姫を引き継いだ後死んだスカーレットは、さぞ鼻が高いだろう!」

マリーンに最も近いとされていた、かつて最強の魔術師と呼ばれた俺の母親、スカーレット。確かに、その息子である俺が自分一人で術の一つも使えないというのは、スカーレットの名を、母親の名誉を、酷く傷付けることになるだろう。

俺は魔術師だけでなく、息子としても出来損ないだ。

「お前は出来損ないだ! 誰かの手を借りなければ何もできない、一人では、何もすることができない、屑野郎だ!」

まったく、カーネルの言う通りすぎる。

一人では何もできず、戦いはモロに押し付けて。

何もできない上に、母親の名誉も傷付けて。

本当に。

本当に俺は、出来損ないだ。

本当に、俺は何にも出来ないクズ野郎だ。

自分のエゴで、戦いから逃げ出して。

一人では何にもせず、ただただ逃げ続けて……。

本当に。

本当に俺は、何にも出来やしない。

一人じゃ何にも、出来やしない!

俺は最低で最悪のクズ野郎だっ!

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