02

 研究所らしく白を基調にした内装は、見るものに清潔感よりも潔癖な印象を与える。行きかう人々も多くは白衣をまとっていて、それ以外は濃紺のスーツを着ているのが大半を占める。前者はハイジアを管理し、後者はハイジアを運用する部類の人間だ。


 素裸のハイジアを気に留める人間は、ここにはいない。故に衣服が用意されているはずもなく、代わりに無線機器などの備品やDNAサンプルを回収するための窓口が、エレベーターの隣に設置されている。


 ヴィオレは地上から持ってきたものを全て窓口に差し出すと、裸のまま廊下を歩きだした。リノリウムの床が足裏に貼りつき、ぺたぺたと気の抜けた足音が鳴る。


 角を二度も曲がれば、科学者たちの研究室が集まる区画へ出る。研究所の潔癖さはここでもいかんなく発揮され、無個性な扉の群れが廊下の両側に並んでいる。


 左手側、数えて八番目の扉が、ヴィオレの目的地だ。


 御堂みどう、とだけ書かれたドアプレートを確認し、ノックしてから入室する。


「ヴィオレ、戻りました」


 簡潔な言葉ののち、吸い込んだ空気には薬品の匂いの他にかすかなハーブの香りが混ざっていた。無機質な会話ばかりしていたヴィオレの緊張を解きほぐす香りは、浅間あさまにいくつ研究室があろうともここ以外には存在しない。


 部屋に入ってすぐに見えるのは、細胞の培養やDNAサンプルの解析を行う作業場だ。薬品棚やコンピューターなど、作業に必要なものが椅子に座ったまま手に届く範囲に収まっているものの、部屋の主である科学者の姿はそこにない。


 室内に入って扉を閉めれば、部屋の右側、メインスペースが視界に入る。ローテーブルを挟んで二人掛けソファが向き合っている応接用の構造は、しかしてその用途で使われたことがない。ソファに転がっているパステルカラーのクッションは、ここがハイジアである少女たちの領域だということを如実に表している。


 部屋の主がいるのは、その向こう側。


 簡易キッチンとハーブの栽培キットが並ぶ、生活感溢れる場所だった。


「あぁ……おかえり。服は用意してあるよ」


 白衣をまとった青年は、ヴィオレの姿を見とめるなりそう言った。


 一糸まとわぬヴィオレを見て表情を曇らせたのは彼──御堂祐樹ゆうきだけで、実際青年は同業者から変人扱いを受けている。


 ただ一人、ハイジアをヒトとして扱う人間として。


「まったく……外へ繋がるエレベーターなんて君たちしか使わないのに、いまだに更衣室のひとつも作らないとはね」


 独り言のようにぼやく青年に同意していいものか悩みながら、ヴィオレは出入り口からもっとも離れたところにある簡易ベッドへ向かう。カーテンで周りを囲める作りになっていて、ちょうど御堂の立っている場所からはベッドが見えないようになっていた。


 シーツの敷かれたマットレスの上に、ヴィオレがいつも着ている服がたたんで置いてある。上はスウェット素材のパーカー、下はキュロットスカートで、その下に下着類とニーハイソックス。ロングブーツは床に並んでいた。


 淡いピンクや落ち着いたブラウンを中心にしたコーディネートは、他のハイジアがヴィオレの髪や瞳に合わせてそろえたものだ。


 黙々と服を着ていたヴィオレに、カーテンの向こう側から声が届く。


「服を着終わったら右足を診るよ」


「……え?」


 思いがけない言葉に、ヴィオレは御堂の方を向いた。垂れ下がった白い布の奥から、御堂が続けて言う。


「最初の着地で足を痛めたんじゃないか? 帰投に時間がかかったのはそのせいだと思ったんだけど」


 ヴィオレは思わず口をつぐんだ。


 効果範囲の限られた念動力は、攻撃と防御を同時に行うことに向いていない。自ら動き一点に集中して圧をかける攻撃か、一歩も動かずあらゆるものの接近を許さない防御か、どちらかを選ばなければならない。


 御堂の言う「最初の着地」で、ヴィオレはペストの腰骨を折り、ある程度の機動力を削いだ。右足の先に念動力の圧を集中した、腰骨への直接攻撃だ。攻撃と防御は両立できないのだから、着地の衝撃は自分の体さばきでなんとかしなければならない。


 その体さばきを、ヴィオレはしくじった。ごまかしているつもりだったが、御堂には通用しなかったらしい。


「……別に、たいした怪我じゃ」


「それは診てから判断するよ」


 すげなく言った御堂に、ヴィオレは再び閉口する。


 彼は厳しいことをほとんど言わないが、ことハイジアの身体的なコンディションについてはかなりうるさい。ヴィオレからすれば心配性に見えるほどだが、ハイジアの体調がそのまま浅間の防衛力に繋がるという点では合理的な行動だ。


 ただし、御堂の言動をかんがみるに、浅間の防衛よりハイジア個人個人への心配が根底にある、とヴィオレは推測している。


 ヴィオレはしらを切ることを諦め、下着類とパーカー、キュロットスカートを着てカーテンを引いた。白い布で隠れていた御堂がもう一度視界に入る。


 目立ったところなど、ほとんどないような青年だった。細かい作業で邪魔にならないよう短く切られた髪は、通常の──ハイジアではない──人間であることを示す黒色。よれた白衣を気にすることなく着ているのも、浅間の科学者の間では珍しいことではない。


 特徴を探すとしたら、他の学者のほとんどがつけている分厚いレンズの眼鏡をつけていないことくらいだろうか。それだって、外見的特徴としてあげるには弱すぎる。


「それじゃ、座って」


 指示に従い、ヴィオレは簡易ベッドに腰掛けた。御堂はキャスター付きの収納棚を引っ張ってきて、ベッドの脇に置いてあった背もたれのない椅子に座る。


 収納棚に入っているのは、消毒液や包帯などの医療品だ。


 御堂が自分の太腿を二度叩く。ヴィオレが右足をその位置へあげれば、すぐに診察は始まった。


「痛かったら言ってくれ」


 決まり文句を言う御堂だが、遠慮がちに行われる触診は痛いというよりくすぐったい。どちらの方が楽、というものでもないが、少し痛いくらいの方がまだ耐えようがある。


 捻挫だね、と所見を述べた御堂は、患部から目を反らさずに収納棚からテーピング用の包帯を取り出した。必要な可動域を残しながら関節を固定し、上から薄地のサポーターをかぶせる。


「立ってみて、どこかきつくないか?」


 こそばゆさから解放され、ヴィオレは床へ足を下ろした。

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