第2話
01
「目標、沈黙」
ヴィオレの報告は簡潔だった。
荒くなった息がマイクに入らないよう、静かに呼吸を整える。どうせノイズに紛れるのだから必要ないのだが、無線の相手に弱みを見せるのはなんだか気に食わない。
耳に挿したイヤフォンからの言葉は、そのほとんどを聞き流した。きちんと聞き取るだけの意味も、価値もない、規定通りの定型文ばかりが、無線の波を往復している。
相手がそうやって話すから自分も簡潔に話すようになったのか、それともその逆だったのか、ヴィオレはもう覚えていない。
目の前に転がる巨大ネズミの死体から目を反らし、ヴィオレは背後を仰ぎ見た。
そこに建っているのは、素っ気ないコンクリート製の塔だ。
木の一本どころか草の数本生えるのがやっとの景色の中で、その影は際立って高い。外壁に装飾などはなく、ただ屋根から伸びる雨どいと、四方に設置された定点カメラ、高所にある出入り口へ続く外階段だけが陰影を作っている。
塔は、地下都市・
元々は低地から集まった人々を浅間へと収容する出入り口だった建造物で、保護するために増築を繰り返した結果がこの塔の姿である。
高所からの展望によりペストの早期発見は可能になったが、同時にネズミ型のペストが歯を削るために外壁をかじる危険性は増加した。塔に穴が開けば放射能で汚染された大気が浅間に流れこみ、さらにはペストの侵入を許すことにもなる。
ペストが高所に現れること自体がレアケースではあるものの、今の世界ではどのようなことが起こってもおかしくはない。現在の森林限界が、たとえば半年後も通用するとは限らないからだ。
「──ペストのDNAサンプルを回収後、速やかに帰投してください」
「了解」
事務的な受け答えを最後に、ヴィオレは首に巻いたマイクのスイッチを切った。
同時に地下からの通信も切られたようで、イヤフォンから聞こえていた声や砂をこするようなノイズもぷつりと途絶える。
ヴィオレはため息をついて、上着のポケットに手を入れた。取り出したのは、密閉可能な構造のビニール袋だ。中には持ち手の長い綿棒が入っていて、それを使ってペストの口内細胞を採取する。
ペストのDNAデータは、そのままハイジアの開発に使われている。
女神の名は冠しているものの、その実態は人体改造を受けた少女たちである。ペストのDNAを持ち、ペストと戦う兵器として扱われるその名は、信仰や憧憬よりも恐怖と嫌悪の対象と成り果てている。
しかし、戦力の補強は浅間に住む人間にとって必要不可欠だ。多様なデータがあるだけ浅間の対ペスト戦力は多様化し、適応できる人間が生まれるだけ増加する。今回のネズミ型ペストのDNAが使われれば、新しいハイジアは炎を操る能力が得られるはずだった。
ヴィオレは手順通りにペストの細胞を採取すると、綿棒をビニール袋に入れて密封し、手に持ったまま塔へ向かった。詳細は聞かされていないが、ペストの死体はいま浅間を留守にしている他のハイジアが処分するのだろう。
自分の能力──念動力の使い勝手の悪さにため息をつきながら、ヴィオレは鉄階段を登り始めた。かつては地上付近にあった塔の出入り口は、浅間の保護の観点から塞がれている。塔から浅間へ入るには、鉄階段を登って最上部にある扉を通るしかない。
かつり、かつり、と硬い足音が鳴る。他に聞こえてくるのは、浅間では聞こえない風の音だけだ。ヴィオレは耳に挿していたイヤフォンを抜き、ビニール袋と一緒に持つ。
高いところまで登れば、黒くて狭い大地と、その周りを囲う白い雲が見える。頭上には薄青の空が広がり、まだ昇りきっていない太陽が弱い光を投げかけている。
雲がなければ麓の木々が色づいているのが見えるだろうし、もう少しすれば黒い地面も雪に覆われる、そんな季節だ。景色の移り変わりだけならばヴィオレも歓迎できるのだが、雪が降ると足元がおぼつかなくなるのが難点ではあった。
休み休み階段を登ると、しばらくしてようやく浅間への入り口が見えてきた。
分厚い鉄扉を押し開く。中は狭い空間になっていて、奥にもう一枚、見るからに重そうな扉がある。
二重扉は、外から流れ込む汚染物質を可能な限り排除するための作りだ。ヴィオレは外への扉を完全に閉めると、手に持っていたDNAサンプルとイヤフォン、首に巻いていたマイクを蓋つきの棚の中に入れ、身にまとっていた衣服を全て脱いだ。
衣服をダストシュートへ投げ込めば、カメラ越しにヴィオレを見ていたオペレーターが天井からシャワーを降らす。
放射能汚染を少しでも減らすための策に、ハイジアの人格は考慮されていない。浅間の外へ出る際に身に着けていたものは全て焼却されるし、浅間へ戻るときには体の洗浄が滞りなく行われていることを複数人に監視される。
ヴィオレにとっては日常。ではあるが、普通の人間の感覚からはかけ離れたものであることくらい、彼女も理解していた。
「除染工程完了。協力に感謝します」
シャワーが止まると同時、壁面に埋めこまれたスピーカーからオペレーターの声が聞こえてきた。機械音声であると言われても疑問を持てないほど、投げかけられる声は冷たい。
見られているという意識すら、もはやヴィオレにはない。他人より未発達な体を隠しもせず、用意されていたタオルで体の水分を拭き取り、使い終わったらダストシュートに投げ入れて奥の扉が開くのを待つ。
押し開いた外扉に対し、内側のそれは横へ、自動で開く。
明るく照らされた内部は円筒形。十人も入れば窮屈になりそうな広さだが、他に出入り口はない。
地上部から浅間の最下層まで、長距離を直通で繋ぐエレベーターだ。
ヴィオレは棚から数少ない荷物を取り出すと、そのままエレベーターに乗り込んだ。
人の出入りを感知すると、エレベーターの扉が自動で閉まり、移動を開始する。内臓を持ち上げられるような感覚。景色はなにも変わらないものの、ヴィオレを乗せた鉄の箱は確実に降下していた。
数十秒ほど不快感を耐えると、浅間の下層に到着して扉が開く。今まで狭苦しい空間が続いたが、ようやく広い場所に出た。
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