ハイランド・ハイジア

射月アキラ

第1話

01

 ヴィオレを出すと伝えたとき、部屋にわずかなどよめきが生まれたのを、萩原はぎわら孝一こういちは聞き逃さなかった。


 そもそも今の状態自体、とても珍しいものであることは間違いない。だから彼らが動揺してしまうのは仕方がないことなのだが、萩原は自分の指示が少なからず影響を与えているだろうとも感じていた。


 無論、判断が間違っていたとは思わない。


 萩原はいつでも最善の一手を打つことを考えているし、今回の場合、状況からして選択肢がひとつに絞られていたからだ。


「ヴィオレが最上部に到着しました」


 オペレーターの報告を受け、萩原は顔をあげた。


 薄暗い室内で存在感を放つのは、壁と一体化した巨大モニターだ。


 画面には、緑がまばらに見える黒色の大地と、一匹のネズミが映っている。


 荒廃してしまった場所、というわけではない。もとより、カメラのある場所は標高三七〇〇メートルを越える過酷な土地だ。


 本来、ネズミの生殖能力に対し、山地の環境は適さない。文字通りネズミ算式に増えていく捕食者に対し、被食者が圧倒的に足りないからだ。


 そもそも、高地の生態系では、モニターに映る巨体を維持することすら難しい。


 比較対象に適したものは画面内に映っていないが、少なくともネズミの全長は一〇メートルに達している。ここ数百年で起きた環境変化──放射能汚染による染色体異常とそれに伴う進化が原因で、元は手のひらに乗るサイズだったという。しかし、萩原はそのイメージをうまく思い浮かべられない。


 放射能汚染を生殖サイクルの速さで乗り越えたネズミとハエは、いまやペストと総称されて食物連鎖の頂点を支配している。


「目と耳に損傷が見られますね。低地での縄張り争いに負けて登ってきたのでしょう」


 萩原の隣に立つ白衣の男が、声量を落として囁いた。


 男の言う通り、ネズミの左目は潰れ、左耳は一部が噛みちぎられている。黒い体毛に覆われて見えないが、他の部位にも傷を負っていることは容易に想像できた。


 争いに負け、生息に適さない土地に追い込まれたとなれば、大抵の生物は衰弱してそのまま死ぬ。いくら巨大化したとしてその摂理は変わらないのだから、モニターに映っているネズミも本来なら気にかけるほどの存在ではない。


 地下都市・浅間あさま直上ちょくじょうに居座ってさえいなければ。


「迷惑な話だ」


 思わずこぼれた呟きは、萩原の本音だった。


 なにより、タイミングが悪すぎる。近辺で群れを形成しようとしていた大型のハエたちを掃討するのに、主な戦力を浅間から離した途端の出来事だ。


「ヴィオレ、目標を視認」


 不意に、萩原が片耳につけていたイヤフォンから、ノイズ混じりの声がした。


 緊張のせいか硬くなってはいるものの、それは紛れもなく年若い少女のものだ。砂をこするようなノイズがいつまでも抜けないのは、彼女が通信環境の整っていない地上にいることを示している。


 大型ネズミの居座る、放射能に汚染された地上に。


「戦闘行動に移ります」


 少女の宣言と共に、ネズミが映るモニターに動きが生じた。


 ヴィオレ──「紫」の意味を持つ名の元となった髪の色が、モニターの上方から現れる。


 短く切りそろえられた髪を揺らし、ヴィオレは危なげなくネズミの腰へ着地。勢いそのまま骨盤を踏み砕く。


 ぎぃ、とネズミから漏れた悲鳴が、ノイズの隙間から萩原の耳に届いた。


 ヴィオレの体格は、巨大ネズミと比べても小柄に見える。高所から飛び降りたとはいえ、骨盤を踏み折るなど小さな体で引き起こせるような現象ではない。ずり、と後ろ足を引きずるネズミの姿を見れば、そのダメージの深さも想像しやすい。


 下肢の機動力は失われたものの、ネズミの反応は速かった。前腕だけで体を揺らして襲撃者を振り落とすと、後ろ足を引きずったまま頭の向きを変えて襲いかかる。


 ヒトの胴体などたやすく両断できそうな前歯がヴィオレに迫る。ネズミが一歩を踏みしめるたびに地面が震え、定点カメラからの映像もガタガタと揺さぶられる。


 劣悪になった足場で、ヴィオレは的確に回避行動をとっている。それでも、見ているだけの立場であるはずの萩原は、もどかしさを感じずにはいられなかった。


 本来、人間がペストと戦おうとするのに、距離を詰める必要はない。それを可能にするだけの技術を人間は持っているし、ヴィオレもその恩恵を授かるはずだった。


 しかし、授からなかったからこそ「失敗作」として浅間に残り、今ペストの脅威を退けようとすることができるのだから、それを責める相手はどこにもいない。


 うまくいかないものだ、というネガティブな言葉を、萩原は喉の奥に留める。


 イヤフォンから聞こえるノイズは、ヴィオレの動きに伴う音と共に激しさを増していた。靴が砂を噛む音か、耐えることのないノイズなのか、判断がつかない。


 距離をとったヴィオレの前で、巨大ネズミは薄く口を開いていた。


 強靭な前歯のわきからこぼれているように見えるのは、ネズミの口腔内で燃え盛る炎だ。ヘビの舌を思わせる動きで存在感を主張する炎が、ヴィオレに向けて放たれる。


 水平方向に立つ火柱が、モニター上を横断した。同時に、イヤフォンから流れていたノイズがぶつりと途絶える。


 ペストの異様さを幾度も見てきた萩原すら、思わず息をのむ光景だ。


 染色体異常に基づく進化は、これまでに築かれた生物の常識をあっさりと覆した。巨大な体躯も、放射能への適応も、通常では考えられないほどの速さで進み、他の生態系を破壊するに至っている。「火を吹くネズミ」が生まれたのも、その非常識な進化の結果だと言える。


 その中でヒトが生き延びているのは、他でもない──ペストが進化で得たDNAを、人体改造に利用したからだ。


「──っ」


 熱波を受けて機能不全に陥った無線が、ようやくマイクの音を拾った。


 モニターを埋め尽くしていた火柱は消え、焼かれた高山植物が灰となって散る。その中で、ヴィオレはネズミに向かってまっすぐ突進していた。


 人体改造を受けたヒトは、ペストが数百年かけて得た力を一代で手に入れることになる。


 短い呼気と共に、画面上のヴィオレが地面を蹴る。


 ヴィオレの異能は念動力。


 炎にのまれようと自分の体表から五センチの範囲には侵入を許さず、相手の体に触れればその内側へダメージを通す。


 脚力や重力ではなく、念動力の圧力によってペストの骨盤は破壊された。それが生命維持に必要な部位──たとえば脳に向けられたら、果たしてどうなるのか。いちいちダメージを想像するまでもない。


 ヴィオレは一度の跳躍でネズミの頭上へ到達すると、直接脳を潰す一撃を叩き込んだ。

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