第13話 花嫁は叶わぬ恋をする
その日、リンデガルム峡谷では十数年ぶりに霧が晴れた。
白い雲が浮かぶ青空を背景に悠然と聳え立つ王城には、各地から多くの人々が訪れていた。
リンデガルムに暮らす多くの人々は知る由もないことだが、この晴天に父であるラプラシア国王と兄王子による祝福の想いが込められていることを、マナだけは知っている。
「大袈裟ね」
草花の咲き乱れる庭園を窓から見下ろして、マナは柔らかに微笑んだ。
昨日の夕刻、父王と兄王子と久しぶりに対面した。ふたりともマナの結婚を大いに喜んでくれていた。
ラプラシアで面識のあった諸外国の要人達とも挨拶を交わしたけれど、誰もがセイラムとマナの結婚を祝福してくれていた。
問題など何もない。
全ては順調だった。
「出来ましたよ、マナ様」
弾むようなエステルの声に促され、マナはぱっと顔を上げた。
目の前の鏡台に、純白の花嫁衣装に身を包んだ美しい少女の姿が映っていた。
上品に結いあげた淡い紅茶色の髪に散りばめられた白い小花が愛らしい。
ラプラシア王家の白い二角馬の紋章をモチーフにした刺繍が施されたウェディングドレスも、主張しすぎない程度に重ねられたレースとフリルが大変美しく、優婉な仕上がりになっていた。
普段薄化粧のマナも、今日ばかりはいつもより濃いめの口紅を引き、頬にもほんのりと紅をのせている。
「わたしじゃないみたい」
マナがぽつりとつぶやくと、純白のレースのヴェールを手にしたエステルが、大きな目を瞬かせて言った。
「何を仰います。マナ様はいつだって愛らしくてお綺麗ですよ。こちらの花嫁衣装だって、マナ様に相応しい素晴らしい仕上がりです」
腰に手を当て、エステルが得意げに胸を張る。くすくすと笑いながら、マナは化粧台の引き出しに手を掛けた。
「エステル、お願いがあるのだけど」
マナが言いかけた、ちょうどそのとき、部屋の扉が軽くノックされた。
エステルが慌てて扉に向かう。間仕切り壁の向こう側で、来客に応対する声が聞こえた。
「いいのよ、エステル。お通しして」
椅子を立ち、入り口に向き直って、いつもより明るい声で壁の向こうのエステルに伝えると、エステルはちらりと顔を覗かせて、マナの姿を確認した。
ややあって、礼服に身を包み、正装したセイジが姿を現した。
碧い瞳が真っ直ぐマナに向けられる。恥ずかしくて、つい目を逸らしそうになった。
セイジには堂々と花嫁姿をお披露目するつもりだったのに、いざ本人を前にすると、やはり緊張してしまう。
マナの花嫁姿を目にしたセイジも、一瞬動きを止めて、息を呑んだように思えた。
「準備が整いました。式場で兄上がお待ちです」
こほんと咳払い、深々と一礼してそう告げると、セイジは顔を上げ、ふたたびマナをみつめた。はにかんで顔を伏せるマナに切なげに微笑んで、躊躇いがちにその言葉を告げる。
「……とても、お綺麗です」
「ありがとう……」
うつむくマナに軽く笑いかけると、セイジはふたたび一礼し、足早に部屋を出て行った。
その背中が扉の向こうに消えるのを見届けて、マナは両手を握り締める。
マナがラプラシアの王女でなかったら。
セイラムの婚約者でなかったら。
セイジはマナを選んでいた。
あのときセイジは、はっきりと答えてくれた。
けれど、どんなに時を遡っても、そのような時間は存在しない。
マナは生まれたときからラプラシアの王女で、あの丘でセイジと初めて出会ったとき、既にセイラムの婚約者だった。
セイジがマナを選ぶ可能性は、はじめから、ほんの少しもあり得なかった。
開いたままの扉をみつめ、マナは涙をぐっと堪えた。
泣いてはいけない。
マナの幸せを祈って、エステルが施してくれたお化粧なのだから。
セイラムとマナの幸せを祝うために、式場には大勢の人が集まっている。
皆が笑って祝福してくれるのに、主役のマナが悲しみの涙に暮れるなんて、そんなことはあってはならない。
今、涙を流すのなら、それは幸せを噛み締めた、喜びに満ちたものでなくてはならない。
大きく息を吸い、昂った気持ちをどうにか落ち着けて。
マナは化粧台に向き直ると、引き出しのなかに眠っていた黒水晶の髪飾りを、そっと手に取った。
***
一昼夜で色とりどりの花が咲き誇る花園へと変貌したリンデガルム城の庭園の、その南の端に建つ講堂は、煌びやかに飾り立てられて、いつもの寂れた様子は微塵も感じさせない。
祝いの宴が開かれるこの日ばかりは、王城が一般に開放され、庭園は参列者で埋め尽くされる。
人波を別つように敷かれた真紅の絨毯が、城から講堂へと続く道を華やかに演出していた。
王都中の人々が式のために列を成す傍らで、騎士団の面々は警備に就く。
このような式典の際に講堂の大扉の両側に控えるのは、リンデガルム王家直属の黒騎士団と竜騎士団、双方の団長の重要な任務でもあった。
白い大階段から庭園を見下ろして、セイジは深い溜め息を吐いた。
この距離でも、庭園を絨毯のように埋め尽くしていた草花が、王子とその花嫁の姿を一目見ようと集まった民衆に踏みつけられている様子が窺える。
残念ではあるものの、これも仕方のないことだろう。
けれど、マナが毎日世話を続け、花を咲かせたあの一画だけは、悪戯に踏み躙られては欲しくなかった。
人垣の向こうのその場所にセイジが目を向けた、そのとき、城のテラスから響めきが起こった。
視線を向けなくとも、セイジには何が起こったのか、すぐに理解できた。
一呼吸を置いて目を向けると、華やかな紅い絨毯の上を粛々と講堂に向かってくる白い人影が見えた。
婚礼衣装を身に纏ったセイラムと花嫁のマナだ。
セイラムの腕に寄り添うマナは、レースで縁取られた白いヴェールに身を包み、その小さな身体で人々の視線を一身に受け止めていた。
その姿はどこか幼い愛らしいいつもの彼女とは違い、凛として美しい。
人々の羨望の眼差しを浴びながら新郎新婦は庭園を進み、やがて白い大階段の前に立った。講堂の扉の上に飾られた神竜のレリーフを見上げ、深々と一礼し、ゆっくりとした足取りで、一段一段踏みしめるように階段を上る。
周囲への警戒を怠らぬよう気を張ったまま、リンデガルム王太子の花嫁となるその少女に、セイジは敬礼した。
大扉の両脇に控える騎士達に敬意を込めて優雅に一礼すると、花嫁は顔を伏せたままセイジの横をゆっくりと通り過ぎた。
——セイジさんは、ラプラシアの風習をご存知ですか?
最後に庭園で別れたあのときのマナの言葉が、鮮明に思い出される。
視界の端に映る白いヴェールの影を、セイジは思いがけず目で追った。
ヴェールに包まれてはっきりと視認することすらままならないはずだった。
それなのに、なぜ気付いてしまったのだろう。
花嫁の髪に飾られた白い花の髪飾りが、黒水晶を核にして、雪の結晶を模っていたことに。
***
壁面のステンドグラスから七色の光が雨のように降り注いでいた。
神々しく照らされた祭壇上で、グレゴリウス王は儀礼服を身に纏い、宝剣を手にした司祭を従えて、開け放たれた大扉を見据えていた。
およそ二十年前、光の射さない薄暗いこの講堂で、彼は密やかに婚姻の式を挙げた。
儀式の進行を務める司祭と新郎新婦だけの、参列者のないかたちだけの式だった。
そのとき彼の隣にいた、彼が心から愛したただひとりの女性は、最期まで公に側室と認められることすらなく、王城の一室で永遠の眠りについた。
彼にとって、王族の婚姻とは忌まわしい制約でしかない。
国のために己を律し、ひとりの人間としての心を封じるための、忌まわしい呪いだ。
その呪いの儀式は皮肉にも華やかで美しく、本人の意思とは関係なしに、皆に祝福を課す。
まるで、その先の絶望をひた隠すように。
王の険しい瞳に一瞬の翳りがさす。
やがて庭園が歓声に湧き、沈黙に支配されていた講堂内に騒めきが起こると、開け放たれた中央の大扉から、ふたつの白い人影が現れた。
リンデガルム王家の神竜の紋章とラプラシア王家の二角馬の紋章がそれぞれに施された、純白の婚礼衣装を身に纏った花婿と花嫁は、互いに手を取り合い、式場の中央に敷かれた真紅の絨毯のうえを、ゆっくりとした足取りで進む。
祭壇の前で立ち止まり、ふたりは揃って壇上を見上げた。
司祭の手から宝剣を手に取って、王が壇上に立つ。講堂をふたたび沈黙が支配した。
蔑むような目で祭壇の前のふたりを見下ろすと、王は徐に口を開いた。
王の口から厳かに紡がれた祝詞が、講堂に静かに響き渡る。
全ての言葉を言い終えると、王は宝剣を頭上に掲げ、跪く花婿と花嫁の頭上に、その切っ先を突き付けた。
「ここに、リンデガルム王太子セイラムと、ラプラシア王女マナの、婚姻を認めよう」
不敵な笑みとともに、王が宣言する。
それと同時に、講堂内は拍手喝采に湧いた。
七色の光を浴びて降り注ぐ花びらと歓声が波のように庭園に広がり渡り、リンデガルム城は瞬く間に歓喜に包まれた。
王太子セイラムとその婚約者マナの婚姻の儀式は、多くの人々に見守られるなか、速やかに執り行われ、その日、リンデガルムでは、国中が夜を徹してふたりの婚姻を祝福した。
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