第12話 花嫁と願いごと

 艶やかに光を反射する滑らかな漆黒の鱗。

 紅玉のように輝く額の石。

 琥珀色の瞳は鋭い眼光を放ち、目の前の矮小な存在を見下ろしている。

 神竜と謳われるディートリンデは気高く美しく、その姿は伝説と違わぬ真の神のようだ。

 目の前の巨大な黒竜を仰ぎ見て、マナはうっとりと眼を細めた。


「マナ様、お下がりください!」


 厩舎の入り口を取り囲む厩務員達を押し退けて、エステルが張り裂けんばかりの声を上げる。

 軽く後方を振り返ると、マナは嗜めるようにエステルに笑いかけた。


「大丈夫よ、エステル。ディートリンデはとても賢いもの。わたしを食べたりなんかしないわ」


 皆の反応は、マナにもよく理解できていた。 

 セイラムの話によれば、ディートリンデはリンデガルムの十一人の王子を惨殺し、軍神と恐れられるグレゴリウス王の左眼を抉った残虐な竜だ。

 その気性は荒く、彼女が近付くことを許すのは、セイラムとセイジのふたりだけ。

 それゆえに、毎日彼女の世話をするために、セイジが欠かさずこの厩舎へ通っていることも、マナはちゃんと知っている。


「ねえ、ディートリンデ。良い子だから、もう一度わたしをあの場所へ連れていってちょうだい」


 両手を軽く広げて、マナは一歩前へ踏み出した。

 ディートリンデが琥珀の瞳をすっと細め、首を高くもたげで喉を鳴らすように低く唸る。

 敵を威嚇するかのようなその行動から、ディートリンデがマナを警戒しているのは明らかだった。

 ディートリンデは人の言葉を理解している。

 今までの経験で、マナはなんとなくそう思っていたけれど、それは大きな間違いだったのだろうか。


 牙を剥き出したディートリンデの鼻先が、ゆっくりとマナの眼前に迫る。

 このままでは頭を噛み砕かれてしまうかもしれないのに、マナはちっとも怖いと思わなかった。

 厩舎の外で、エステルが悲鳴にも似た声でマナの名前を呼んだ気がした。


 

「何事だ!」


 唐突に良くとおる男の声が響き渡り、外の喧騒を掻き消えて、寸分遅れて誰かが厩舎に踏み込んできた。

 いや、『誰か』なんて曖昧な表現をする必要はなかった。

 それが誰なのか、マナにはわかりきっていたのだから。


 厩舎での騒ぎを聞きつけて、急いで駆け付けたのだろう。肩で大きく息をしながら、セイジは真っ直ぐにマナとディートリンデのそばまでやってきた。

 呆然とセイジを見て立ち尽くすマナの腕を強引に引っ掴むと、彼は素早くマナをディートリンデから引き離した。


「……なぜ、こんなことを?」


 ひどく張り詰めた面持ちで、セイジが問う。

 もしかすると、セイジが現れるのがあと少し遅れていたら、マナは本当にディートリンデに食べられていたのかもしれない。


「ごめんなさい。もう一度だけ、あの花園へ行きたくて……」


 困惑を滲ませるセイジの瞳をみつめたままマナが問いに答えると、ややあって、セイジは小さく溜め息をついた。


「兄上の許しもなく、貴女を連れ出すわけにはまいりません」

「わかっています。でも、これが最後ですから」

「式の前日に、花婿とは別の男と花嫁がふたりきりで出掛けるというのですか」


 真っ直ぐにマナをみつめてセイジが問う。

 セイジの表情は、これまでのマナの軽率な行動を咎めてきた彼のものとは、まるで違うものだった。微かに揺れる眼差しに飲み込まれてしまいそうになる。


 もしかすると、先に口にした言葉とは裏腹に、セイジ自身はマナの行動に協力したいと思っていて、その決定権はマナの答えに委ねられているのかもしれない。

 ただの憶測に過ぎないけれど、セイジの考えがどうであれ、今ここで引き退るつもりなど、マナにはなかった。

 真っ直ぐにセイジの瞳をみつめ返すと、マナは大きくうなずいた。


「軽蔑しますか?」


 つぶやいて、マナが穏やかに微笑んでみせると、セイジはゆっくりと首を振った。掴んでいた腕を解放し、躊躇いがちにマナの手を握り締める。


「参りましょう」


 そう言ってうなずくと、セイジはマナの手を引いて、ディートリンデに跨った。


 琥珀色の瞳でふたりのやり取りを見守っていたディートリンデが、甲高い声を上げる。

 その嘶きに共鳴するように、厩舎の屋根が開け放たれた。

 漆黒の翼を大きく広げ、ディートリンデが大空へと舞い上がった。


 城の上空を旋回するディートリンデの手綱を繰り、ひとたび高度を下げると、厩舎に群がる人々に向けて、セイジは声を張り上げた。


「各人、持ち場に戻れ! 私もすぐに戻る!」


 人影が散り散りに城へと戻っていく。

 上空を仰ぎ見れば、霧の天井の向こう側に青い空が広がっているのが見えた。

 マナがセイジの顔を見上げると、セイジはもう一度ゆっくりとうなずいて、ふたたびディートリンデを大空へと舞い上がらせた。



***



 どこまでも続く雲の海の上に浮き島のように突き出した神竜の聖域では、相変わらず青々とした樹々が生い繁り、白い花が咲き乱れていた。

 この場所が霧に覆われた峡谷の頂にあることすら忘れてしまいそうになるほどに、その美しさは幻想的で、非現実的なものだった。


 花園の中央に舞い降りると、ディートリンデはやわらかな草の上にその身を委ね、仔犬のように無邪気にあくびをした。

 神竜の聖域の名に違わず、この場所はディートリンデにとっても心安らげる場所のようだ。

 漆黒の鱗に覆われた背中の上からマナが聖域を見渡していると、セイジが軽々と地に降りて、マナを見上げ、黙って手を差し伸べた。

 胸の奥がくすぐったくなるようなキザな演出に、思わず笑みが溢れてしまう。

 躊躇いがちに伸ばした指先が触れ合うと、セイジの表情も微かに綻んだように見えた。


 一面を埋め尽くす白い花畑にしゃがみ込み、ひとつひとつ丁寧に白い花を摘み取りながら、マナは小さな花束を作りはじめた。

 束にした花を両手で掲げ、出来映えを確認していると、少し離れて様子を窺っていたセイジが、躊躇いがちに口を開いた。


「兄上に……ですか?」

「いいえ。明日の式で必要なんです」


 にっこりと微笑んで、マナはセイジの問いに答えた。


 マナが今日、この場所に来たのは、セイラムの部屋に飾る花を摘むためではない。

 明日の婚姻の儀式で身に付ける髪飾りに、純白のドレスに合わせた白い花を添えたかったからだ。


「セイジさんは……?」


 無言で立ち尽くすセイジを見上げ、今度はマナが聞き返した。

 怪訝な表情で眉を顰め、セイジが首を傾げると、マナは返事を促すように、もう一度、今度ははっきりとその問いを口にした。


「セイジさんも、何かわたしに話したいことがあったのでしょう?」


 マナの言葉を聞いて、セイジはわずかに逡巡したように見えた。

 他の誰も訪れることがない、この場所でだけ赦される、ふたりだけの束の間の時間。その幸せなひとときを、まさかマナのほうから壊そうとするとは思ってもみなかったのかもしれない。


 長いようで短い沈黙のあと、セイジは顔を上げ、真っ直ぐにマナをみつめて語り出した。


「先日、正式に婚約が決まりました。今後も兄上の守護騎士であることに変わりはありませんが、私用で貴女の側にいることはできなくなります。クーデリカ——私の婚約者の名ですが、彼女は大変嫉妬深い。私が貴女とふたりで居ることを、彼女は決して許さないでしょう」


 セイジの話は、マナが予め想定していた内容と大差のないものだった。

 感情のこもらない声で「そう……」と小さくつぶやくと、マナは穏やかに微笑んだ。


「ご婚約、おめでとうございます」


 花園を風が吹き抜けて、掬いあげられた白い花びらがふわりと舞った。


 今日、マナがこの場所へ来たのは他でもない、この恋を終わらせるためだった。

 セイジがマナのために騎士の誓いを破り、大切な兄を裏切ることなどないことは、痛いほどに理解している。

 セイラムがリンデガルムの王になるためには、ラプラシアの王女であるマナとの婚姻が必要だ。そのセイラムの願いを叶えると誓ったセイジが、マナの想いに応えることなどあり得ない。

 だからこそ、マナはどうしてもセイジに訊いておきたかった。

 祈るように胸の前で手を組んで、マナはその問いを口にした。


「セイジさん、ひとつだけ、正直に答えてください」


 今までセイジと交わしてきた会話のなかで、ずっと気になっていたことがある。

 セイジはことある毎に、まるで言い訳のようにそれらの言葉を口にして、繰り返しマナを遠ざけてきた。


「もしもわたしがラプラシアの王女ではなかったら……セイラム様の婚約者ではなかったら、貴方はわたしを選んでくれましたか?」



 その言葉は意外にも、呆気ないほどに即座に返ってきた。

 一切の迷いも感じさせずに力強くうなずいて、セイジは「はい」と言いきった。


 弾かれるように顔を上げたマナの瞳に、苦々しく顔を歪めるセイジの姿が映る。

 何かを堪えるように握り締められた拳が痛々しくて。マナはセイジに歩み寄り、その拳を労わるように両手でそっと包み込んだ。


「それだけで……その言葉をいただけただけで充分です。どんな素敵な贈りものをいただくよりも、貴方のその言葉を聞けたことが嬉しいです。たとえこの先、貴方のそばにいられなくなってしまうのだとしても……」


 話を切り出したのはマナ自身なのに、絞り出したその声が震えるのを止められなかった。

 この想いだけは笑って伝えるのだと、そう心に決めていたのに。


「もし赦されるなら、叶わない想いと知りながら貴方に恋をしたわたしのことを、覚えていてください。ラプラシアの王女としてではなく、ひとりの女の子として、貴方に想い焦がれたわたしのことを、どうか忘れないで……」


 精一杯の笑顔とともに、たったひとつの願いを口にした。

 あの日のあの言葉がマナの勘違いでないのなら、セイジは必ずマナの願いを聞き届けてくれる——そう信じて。


 ディートリンデが嘶く声が、風にのって聞こえてきた。

 その声はまるで、別れのときがきたことを、ふたりに告げているようだった。



***



 薄い霧がかかるリンデガルム城の庭園に降り立つと、マナはセイジを振り返った。


「セイジさんは、ラプラシアの風習をご存知ですか?」

「いいえ、それが何か?」


 翼を休めるディートリンデの首筋を優しく撫でながら、セイジが怪訝な顔をする。

 後ろ手に手を組んで、マナは一歩、セイジに近づいた。


「ラプラシアでは、婚姻を決めた男女は互いに装飾品を贈り合い、婚姻の儀式で愛を誓う際にそれらの贈り物を身に付けます。わたしには先立つものがありませんが、貴方のおかげでセイラム様に指輪を贈ることができました。とても感謝しています」


 少しかしこまってそう言って、マナは深々と頭を下げた。

 対するセイジの表情からは、何の感情も読み取れない。


 神竜の聖域からリンデガルム城に戻ってくるまでのあいだ、セイジは何かを言いかけては思い止まっているように見えた。

 セイジが何を伝えようとしていたのか、気にならないといえば嘘になる。

 でも、それはきっと、マナが尋ねるべきことではなくて。

 セイジが自分から伝えなければ、意味のない言葉なのだ。


 できることなら、この城に戻る前に聞かせて欲しかった。

 そう思いながら、マナは姿勢を正し、凛として顔を上げた。

 城に戻ったこの瞬間から、マナはラプラシアの王女として、リンデガルム王太子妃として生きることを決めていた。


「セイジ、今までありがとうございました。これからも、わたしと夫にちからを貸してください」

「……私はすでに王家に忠誠を誓った身。王太子セイラム様と王太子妃である貴女の為に、この命を捧げる所存です」


 涼しげに微笑むマナに、セイジは恭しく頭を下げた。


 これからは、余計な感情は必要ない。

 マナが敬愛すべき相手は、夫となるセイラムただひとり。

 セイジはセイラムに仕える大勢の騎士のうちの、たったひとりに過ぎないのだ。


 深々と頭を下げ続けるセイジに背を向けて、霧のかかる王城を仰ぎ見る。

 明日の婚姻の宴のために、人々の影が窓辺を忙しなく行き交っていた。

 二、三歩進んで歩みを止めると、伝え忘れていたその言葉を、マナはぽつりとつぶやいた。


「……それから『あの日』、わたしの願いを叶えてくれて、ありがとう」



 セイジがはっと息を飲む音が聞こえた気がした。

 けれど、マナは二度と庭園を振り向こうとはしなかった。


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