第11話 花嫁と北の令嬢

 穏やかな昼下がりのこと。

 いつものようにセイラムの部屋へ顔を出したあと、マナはエステルと共に庭園を散歩していた。


 はじめてマルクルと庭園を駆けたあの日から、数日が経っていた。

 厩務員に頼み込むかたちで毎朝マルクルとの散歩を続けてきた甲斐もあって、以前は草一本見当たらなかったこの庭園でも、今ではあちこちで草花が芽吹いていた。


 年中霧に覆われているとはいえ、リンデガルムにも天候の良し悪しはある。

 今日のように空が晴れ渡っていれば、一時的にでも庭園はその全貌を露わにする。

 緑が覆う庭園の一角を前にして、マナは表情を綻ばせた。


 まずは狭い範囲だけでもと念入りに手を掛けたその場所には、青々とした草が生い茂り、色とりどりの花が咲き乱れている。

 霧に覆われたこの庭園で、芽吹いたばかりの草花が花開くことができるかどうか、懸念こそしていたけれど、草花の生命力とはなかなかどうして侮れないものだった。

 うっすらとでも陽が射していれば、彼らは懸命に成長を続けるのだから。


 とはいえ、この花畑はマルクルのちからを借りてこそ成り立っているものであり、庭園の全域を緑で満たすのはとても困難であることは、マナも薄々感じ取っていた。


「せめてここだけでも、毎年花を見られるようにしたいわね」


 微かに香る花の匂いに目を細め、マナはぽつりとつぶやいた。

 エステルが大きくうなずいて、同意を示すようなマルクルの嘶きが庭園に響く。

 可愛らしい女性の声がマナの耳に届いたのは、ちょうどそのときだった。


「驚いたわ。本当に花が咲いているのね」


 驚いたマナが振り返ると、庭園の片隅に華やかなドレスを身に纏った女性の姿が見えた。

 慌てて立ち上がり、マナが小さくお辞儀をすると、彼女はつかつかと靴音を響かせて庭園を歩いてきた。


「王城の庭園に花を咲かせようとしている変わり者がいると聞いて来たのだけれど、貴女がその変わり者?」


 硝子玉のように澄んだ大きな瞳で、彼女はまじまじとマナをみつめる。

 かたちの良い唇に薔薇色の紅を引き、頬をほんのりと赤く染めたその顔立ちは、精巧な人形のように美しく整っていた。

 煌びやかな雰囲気に気圧されつつもマナが小さくうなずくと、彼女は両手をぴたりと合わせ、品良く微笑んで名を名乗った。


「お初にお目にかかります。北の公爵家の娘、クーデリカと申します」

「ラプラシアから参りました、マナと申します。よろしくお願いします」


 マナが勢いよく頭を下げると、クーデリカと名乗ったその女性は両手でマナの手を取り、瞳を輝かせて声を弾ませた。


「マナ……知っているわ! ラプラシアのマナ王女ね。セイラム様の婚約者の!」


 こんなに綺麗な女性がいたなんて。

 天使のように輝かしいその笑顔に、諦めに似た気持ちになる。

 溜め息をつきたくなるのをぐっと堪えて花畑の前にしゃがみ込むと、マナはひとつひとつ花の様子をみていった。


「クーデリカさんは、セイラム様のお知り合いなのですか?」


 マナが尋ねると、クーデリカは草のうえに白いハンカチを敷き、そのうえに腰を下ろして、愛らしい身振りで問いに答えた。


「残念ですけど、セイラム様とはあまり面識がないの。あの方はお身体が丈夫でいらっしゃらないでしょう? 城の外にもお出にならないから、外部の者で面識がある人なんて、あまりいないのではないかしら」


 そう言って上品に微笑むクーデリカは、マナよりもよほど優雅で落ち着いていて、本物のお姫様のようだ。


「……そうなんですね。わたし、セイラム様については知らないことばかりで……」

「面識もないところからの政略結婚でしょう? 知らなくて当然ですわ。でも……そうですわね。わたくしなら、事前に結婚相手のことくらいは下調べさせますわね」


 クーデリカがくすくすと笑う。

 全くもってそのとおりで、マナはちょっぴり恥ずかしく思った。


 婚約の話が出た時点で事前にしっかり調べていれば、漆黒の竜に乗っていたという事実だけで、セイジが婚約相手なのではないかと淡い期待を抱いたりもしなかったはずだ。

 はじめからセイラムの顔を知っていれば、セイジに恋をすることすらなかったかもしれない。

 以前の能天気な自分が嫌になる。

 マナが内心溜め息を吐いていると、クーデリカは思い出したというように、ぽんと軽く手を合わせた。


「セイラム様のことは存じあげていないけれど、セイジのことならよく知っているわ。わかるでしょう? セイラム様の守護騎士の!」

「はい。セイジさんには、いつもお世話になっていますから」


 何ということはない言葉のつもりだった。けれど、マナにはほんの一瞬だけ、クーデリカの纏う空気が変わったように思えた。


「クーデリカさんは、セイジさんを慕っておいでなのですか?」


 ちょっぴり慌てて訊ねると、クーデリカは一分の恥じらいもなく、ちから強くうなずいて言った。


「ええ、もちろんよ。そうでなければ、あのような突然のお話をお受けしたりしませんわ」

「お話……?」

「婚約の話ですわ。わたくし、今日はそのことで陛下にお呼ばれしましたの」


 一瞬、クーデリカが何を言ったのか、マナには理解できなかった。『婚約』という一言に、頭の中が真っ白になる。

 返す言葉も思いつかないまま、マナはやっとの思いで口を開いた。


「まぁ……それは、おめでとうございます」

「ありがとう。式を終えれば、あなたとも義理の姉妹になるわね。よろしくお願いするわ」


 弾んだ声でそう言って、クーデリカはマナの手をきゅっと握り締めた。


「セイジとは子どもの頃からの付き合いですけど、あのひと、昔からディートリンデ一筋で、人間の女の子になんてまるで興味がないの。ですからわたくし、政略的な結婚ならともかく、彼と恋をするなんて到底無理なことだって、内心諦めておりましたのよ」

「セイジさん、ディートリンデをとても可愛がっていますものね」

「そうなの。まるで恋人みたいに大切にしていて、誰かを同乗させたことなんて一度だってないのよ。いつかセイジがディートリンデに初めて女性を乗せるときは、彼の隣に居るのはわたくしだって、ずっとそう思っておりましたの」


 夢見るようなクーデリカの話を聞きながら、マナは目を丸くした。

 セイジへの恋心に悩んでいた今までの自分が馬鹿みたいだ。蓋を開けてしまえば、以前の彼を知る人なら間違えようが無いほどに、セイジはマナを特別な存在として扱ってくれていた。

 これまでにもマナは、当然のようにディートリンデに乗せてもらっていたけれど、セイジにとってのその行為は、きっと特別なことだった。

 もしかしたら、女性とふたりきりで出掛けたことだって、女性にプレゼントを贈ったことだって、初めてだったのかもしれない。


 本当に、馬鹿みたいだ。

 今頃になって、そんな簡単なことに気付くだなんて。


 クーデリカが庭園を去ったのは、それから間もなくのことだった。

 セイジと共に玉座の間に向かうのだと、幸せな笑顔で言い残して、彼女は城内へと戻っていった。


 クーデリカが立ち去ったあとも、マナはぼんやりと花畑の前に立ち尽くしていた。

 ふたりの会話を離れて耳にしていたエステルが、マナの傍へと駆け寄った。


「マナ様……その……」


 エステルが遠慮がちに口を開く。

 マナはゆっくりと顔をあげた。


「セイジさん、婚約なさるんですって」


 ぽつりとつぶやいて、その顔にちからない笑みが浮かぶ。


 いつか、その日が来ることはわかっていた。

 それでもまさか、セイラムとの式を終えるより先に、セイジの婚約相手の顔を知ることになるだなんて、考えてもみなかった。


「……とても、お綺麗なひとだったわ」


 囁くようなマナの言葉に、エステルが小さくうなずいた。

 峡谷から優しい風が吹き抜けて、庭園に色とりどりの花びらを舞い上がらせる。

 鐘塔の鐘の音が、遠くの空まで響いていた。




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