「やあ、セイジ」


 部屋を出て行くマナの背中を見送っていると、セイラムに一際明るい声をかけられた。

 病床の兄王子に向き直り、セイジは神妙な面持ちで告げる。


「兄上、お話があります」

「何の話かな。いつにも増して険しい顔をしているね」

「昨夜、貴方が仰った言葉で、マナ様が胸を痛めておられます」


 咎めるようにセイジが言うと、セイラムは軽口を叩くのをやめて、碧い瞳を静かに伏せて、小さく溜め息をついた。

 ややあって口を開いたセイラムの表情は、微かに憂いを帯びていた。


「君の言うとおり、いつもの彼女ではなかったね」

「なぜ、あのようなことを告げられたのですか。一生、胸の内に秘めておけば良かったものを」


 セイラムとマナの婚約は、両国が和平協定を結ぶための政略的なものだ。それぞれに国の責任を背負ったふたりにとって、元々互いに恋愛感情が無いのは暗黙の了解であり、その愛情や信頼も両者が時間をかけて築き上げれば良いだけのことで、わざわざ否定から入る必要はどこにも無い。

 事実、マナがリンデガルムで暮らすようになってからこれまでのあいだ、セイジの目から見ても、ふたりは上手く関係を築きつつあった。

 セイラムとマナのあいだに流れる穏やかな空気は、遠い昔にセイジが願った彼女の幸せそのものだった。

 だが、その関係は今、セイラムのたった一言によって粉々に打ち砕かれてしまっていた。


 苦々しい想いを吐き出して、セイジは両の拳を握り締めた。

 己の組んだ指先を黙ってみつめていたセイラムが、セイジの肩の向こう、霧のかかる窓の外へと目を向ける。


「……解放してあげたかったんだ。僕が意識を失っているあいだにマナが陛下に何を言われたのか、だいたい察しがついたから。でも、ダメだね。改めてマナの顔を見たら、手放したくないと思ってしまった。ラプラシアの王女なんて、僕が王位を継ぐための都合の良い道具でしかなかったはずなのに」


 皮肉な笑みで自嘲して、セイラムは淡々とその想いを口にした。


 この婚約が、セイラムの悲願を成すためだけの、上っ面だけのものだということは、はじめからセイジにも解っていた。

 ラプラシアの王女との婚姻は、ラプラシア本国との交渉や駆け引きの際に重宝する。戦時下においては王女自身も人質として充分に利用価値があり、その存在はリンデガルムにとって非常に有益なものだった。

 セイラムとラプラシア王女の婚約は、元々、そういった政略的利用価値だけを考えた最低なものだったのだ。

 セイジにとって誤算だったのは、そのラプラシア王女が、彼が長いあいだ再会を夢みた最愛の女性だったことだ。

 そして彼女の存在は、セイラムにとっても大きな誤算になりつつあった。


「きみがマナを連れだしているあいだ、彼女の侍女と話をしたよ。彼女、この城の庭園に花畑を作りたいんだって。この痩せた土地で花開いたところで数日だって咲き続けられないのに、それでも彼女は毎日世話をして、一日でも長く花が咲き続けられるようにしたいんだって」


 夕闇色の霧に染まる窓の外を望み、セイラムが目を細める。


「どうしてかな……その花と僕自身を重ねてしまったんだ。いつまで生きられるかわからない僕のことも、彼女なら最後まで見捨てないでいてくれるんじゃないかって」


 セイジは言葉を失った。


 何も言えるはずが無い。

 父王の気紛れな発言からの婚約に利用価値を見出して、兄王子の悲願を叶えるためだけに、あの日セイジはセイラムと共に、その提案に喰らい付いたのだ。

 セイラムの視線の先を追うように、セイジもまた、窓の外へと目を向ける。


 ——でも、少しずつお互いに歩み寄って、いつか愛し合うことができたなら。


 空に浮かぶ花園で聞いたマナの言葉を胸の奥で反芻する。

 セイラムはマナを必要としている。そして、セイラムに歩み寄る覚悟がマナにもある。

 それならば——ふたりが互いに想い合うことができるのならば。



「それで、話はそれだけ?」


 沈黙を破り、セイラムの目がセイジを捉える。

 ふたたび兄王子に向き直ると、セイジは意を決して告げた。


「ご報告がございます。陛下のお言葉どおり、私の婚約が決まりました」

「……そうか、おめでとう」


 深々と頭を下げる弟王子に祝いの言葉を送り、セイラムは穏やかに微笑んだ。



***



「まさかお主が彼奴の言葉を聞き入れるとはのう」


 セイラムの寝室をあとにして薄暗い廊下を歩いていると、聞き慣れた少女の声がした。

 見上げれば、ディートリンデの闇色の巨体が光を遮り、廊下に濃い影を落としていた。


「また盗み聴きか」

「そう怖い顔をするでない」

「生まれつきだ」


 軽口を叩くセイジの声は、普段のそれとは違っていた。

 いつも上辺だけを明るく穏やかに取り繕っていたセイラムが、本心を口にした。

 セイジはあのとき、そう感じてしまった。

 誰にも心を開くことなく、王位を継ぐことと父王に認められることだけを望んでいた兄が、初めて他のものを——彼女をそばに置くことを望んだのだ。


 本当は、父王の言葉になど、耳を貸すつもりもなかった。

 悪戯に彼女を傷つけるのであれば、自分が彼女を貰い受ける。

 あのときセイジはセイラムに、そう告げるつもりだったのだから。


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