第10話 花嫁とくちづけ
真っ白な花束を片手で抱えて、すっかり見慣れた部屋の扉をノックする。
マナが声を掛けるより先に勢い良く扉が開き、ご機嫌斜めのエステルが部屋の中から顔を出した。
「マナ様、今までどこにいらっしゃったのですか! せっかく用意しましたのに、お茶が冷めてしまいましたよ」
「ごめんなさい」
早口で捲し立てられて、マナが軽く頭を下げる。
へらへらと曖昧に笑うマナの顔と両手に抱えた花束を何度か見比べたあと、セイラムの私室の扉を閉めると、エステルはマナを廊下へと連れ出して、ずずいとマナに詰め寄った。
「もしかして、セイジ様とご一緒だったんですか?」
「ええ、そうよ。お花が咲いている場所に案内してもらったの」
「セイジ様とは、もう会わないほうが良いって、先日マナ様もご同意くださいましたよね」
「セイジさんはセイラム様の守護騎士ですもの。会わないほうが難しいわ」
「そういうことを言っているのではありません」
いつもどおりのマナの屁理屈に、エステルは眉間を押さえて肩を落とした。
「マナ様、もう一度ご自身の立場をお考えください。セイラム様のお気持ちを考えれば、そのような行動はお控えなさるべきだとご理解いただけるはずです」
「何もなかったわ! それに、わたしが何処で何をしていようと、セイラム様は気にもなさらないわ!」
マナが声を荒げて言うと、エステルは両の目を見開いて後ずさった。
エステルが驚くのも当然だ。
マナはいつも、何を言われてものらりくらりと躱すだけで、声を荒げたことなんて、今まで数えきれるほどしかなかったのだから。
エステルに釘を刺されたあとも、何度かセイジとふたりきりになったけれど、一度はやましい気持ちなど欠片もなかったし、今回だって咎められるようなことをしたつもりはない。
咎められるわけがない。
愛情なんて必要ないと言い切ったのは、セイラムなのだから。
エステルの言いたいことは、マナにも良くわかっていた。
けれど、あんなことを言われたあとで、どんな顔をして、どんなふうにセイラムに接すれば良いのかが、マナにはわからなかった。
あのとき、セイジに強引に城から連れ出され、空に浮かぶ花園へと案内されて、正直マナはほっとした。
このままときが止まってくれたらいいのにと、そんなことさえ考えた。
何食わぬ顔をして黙って傍に居られたことが不思議に思えるほどに、セイラムと顔をあわせることが、今のマナには不安でならない。
「ねえ、エステル、お願いよ。一緒にセイラム様の部屋に居て。退室しないでそばにいて欲しいの」
縋り付くように訴えるマナに、エステルは一瞬、困惑の表情を見せた。けれど、いつにも増して真剣なマナの様子に思うことがあったのだろう。彼女は少しためらって、それからこくりとうなずいた。
「……かしこまりました。温かいお茶を用意して参りますので、マナ様はここでお待ちください」
マナに言い聞かせるようにそう告げて、エステルは足早に階下へ降りていった。
しばらくすると、ティーセットを載せたトレーを持って、エステルが部屋の前に戻ってきた。
エステルと顔を見合わせて、何度か深呼吸を繰り返して、マナはセイラムの私室の扉をゆっくりと押し開けた。
***
セイラムの寝室に入ったマナの目に一番に映ったのは、ベッドの上で身を起こし、本を読んでいるセイラムの姿だった。
今までのマナだったら、すぐにでも駆け寄って、セイラムが起きて居られるようになったことを喜んでいたに違いない。
けれど、一瞬浮き足立った気持ちとは裏腹に、マナの身体は微動だにせず、両足とも床の上に縫い止められてしまったようだった。
ややあって、マナに気付いたセイラムが顔を上げた。扉の前で立ち尽くすマナを見ると、セイラムは怪訝な表情で首を傾げた。
「おはよう、マナ」
いつもと変わらない優しい声だった。
肩のちからがふと抜けてぼんやりとしていると、エステルに軽く背中を押されてしまい、マナは弾かれるようにセイラムに駆け寄った。
「お身体は……? 起きていて、大丈夫なのですか」
「おかげさまで、このとおりだよ。立ち上がると少し眩暈がするけどね」
困ったように微笑んでそう答えると、セイラムはマナの腕のなかの花束を指差した。
「それを摘みに行っていたの?」
「この部屋にお花を飾りたくて……でも、お節介でしたね」
「そんなことない、嬉しいよ。毎日きみが傍にいてくれるだけで充分すぎるくらいだったのに、気を遣わせてしまったね」
セイラムが柔らかに笑う。
軽く微笑み返して窓辺に向かい、マナは硝子の花瓶に花束を飾りつけた。いつもと同じようにベッドの隣に置かれた椅子に腰を下ろすと、セイラムが躊躇いがちに口を開いた。
「昨日言ったこと……病み上がりで心にもないことを口走ってしまった、なんて言い訳をするつもりはない。ただ、勘違いはして欲しくないんだ。僕はきみが傍にいてくれる確約が欲しかった。それだけだから……」
穏やかではないその雰囲気は、いつも余裕のあるセイラムのものとは違っていた。
どう応えるべきかわからないまま、マナが顔をうつむかせた、ちょうどそのとき、扉を叩く軽い音が室内に響き渡った。
顔を上げ、扉へ目を向けようとしたマナを、すかさずセイラムが呼び止める。
「マナ、ちょっといいかな」
マナは首を傾げて振り返り、手招きするセイラムに誘われるように、ベッドの上に身を乗り出した。
部屋の扉が開かれる音と、来客に応対するエステルの声が聞こえた。同時にセイラムが手を伸ばし、マナの頬に手のひらを添える。
一瞬の出来事だった。
微かな吐息と柔らかな温もりが、マナの頬に押し当てられて。心なしか緊張した面持ちのセイラムと向かい合い、マナは呆然と瞬きを繰り返した。
ようやく何が起きたのかを理解すると、セイラムは晴れやかに言った。
「今日はこのくらいにしておこうかな。誰かさんが嫉妬しちゃうからね」
くすくすと含み笑うセイラムに、マナはふたたび首を傾げる。ゆっくりと扉のほうに目を向けると、セイジが部屋の入り口に立っていた。
わずかに眉を顰めていたセイジは、マナの視線に気がつくと、つかつかとマナの前に進み出て、小さく一礼してみせた。
「申し訳ございませんが、席を外していただけますか」
いつもと変わらない淡々とした口振りだった。
マナはこくりとうなずくと、扉の横に控えていたエステルを連れて、セイラムの寝室を後にした。
***
ぼんやりと窓の外を眺めながら、自室に向かって廊下を歩く。
指先で頬に触れてみると、エステルが横からマナの顔を覗き込み、胸の前で両手を結んで弾んだ声をあげた。
「おめでとうございます、マナ様」
満面の笑みで祝福されたものの、今のマナには良くわからない。
おめでたいことだったのだろうか。
家族でもない異性にキスをされたのは、確かにはじめてのことだったけれど。
昨日のあの言葉がなければ、マナも恋する乙女のように、はにかんだり喜んだりしたのかもしれないけれど。
自分でも不思議なくらい、何も感じなかった。
空に浮かぶ花園で、セイジに子供じみた花冠をもらったときは、抑えきれないほどの感情が溢れ出して止まらなかったのに。
「……わたしって、最低ね」
微かな声でつぶやいて、マナは窓の向こう——霧のかかる峡谷に目を向けた。
空を覆う雲の合間に、あの花園が見えた気がした。
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