第8話 花嫁と昔話
ゆらゆらと揺蕩う赤い花びらを、マナはぼんやりと目で追っていた。
水桶を満たすぬるま湯に浮かぶ花びらには、疲労回復を促す効能があるのだと使用人から聞かされている。植物の育たないリンデガルムでは、乾燥させた薬草を国外から取り寄せて、ぬるま湯や水で戻して使うのが主流のようだ。
ラプラシアではどうだっただろう。
ぼんやりと考えたところで、繰り返し名前を呼ばれて、マナはようやく我に返った。
振り返れば、セイラムがベッドの上で身を起こし、穏やかな眼差しでマナをみつめていた。
「すみません、ぼーっとしていて。何かご用でしたか?」
「いや……ずっと黙り込んでいたから、何かあったのかと思って」
そう言って小首を傾げると、セイラムは両手の指を組み、枕元に並ぶクッションにゆったりと身を預けた。
小さく息を吐くセイラムの顔色を遠目で確認して、ぬるま湯に浸したタオルをぎゅっと絞ると、マナはセイラムの枕元に歩み寄った。
眠るように瞼を閉じたセイラムの額を、湿ったタオルで優しく拭う。
あの日、セイラムが寝室に運び込まれてから、三日三晩のときが過ぎた。
セイラムが眠りについていた、そのあいだ、マナは可能な限り付きっきりで看病を続けてきた。
この部屋を離れたのは、エステルに息抜きをするように言われ、庭園でセイジと話をしたあのときだけだ。
セイラムがようやく目を覚ましたのは、玉座の間で気を失ってから三日目の朝のことだった。その瞬間こそ覚えてはいるものの、マナにはその後の記憶がない。
エステルの話によれば、疲労のせいか緊張の糸が途切れたせいか、その日一日、マナは死んだように眠っていたらしい。
そして翌朝——つまり今日、マナは病床のセイラムの部屋を訪れて。こうしてふたたび、セイラムの傍に寄り添っている。
「本当に、世話をかけてしまったね」
ちからない言葉にはっとする。マナが顔を上げると、儚げに微笑むセイラムと目が合った。
「さっきから、ずっと浮かない顔をしてるね。もしかして、僕が倒れているあいだに何かあった?」
心配するようにマナの顔を覗き込み、セイラムが尋ねる。
——こんなにもお優しい方なのに、どうして……。
玉座の間でのグレゴリウス王とセイジの口争を思い出し、マナは唇を噛み締めた。
「陛下はラプラシアが……わたしがお嫌いなのですね」
ラプラシアとリンデガルム。
隣り合う両国の友好の架け橋になるためにセイラムの元に嫁ぐのだと、マナはずっと思ってきた。
けれど、王の言葉を考えれば考えるほど、そういった前向きな理由などこの婚姻にはないのだと、嫌でも理解できてしまう。
グレゴリウス王はセイラムに王位を継がせる気など更々ない。
侵略により国土を拡げ続けてきた『軍神』にとって、セイラムに嫁ぐマナはていのいい人質に過ぎず、王はいずれラプラシアを裏切るつもりなのだ。
「わたしは、わたしが貴方に嫁ぐことでラプラシアとリンデガルムが結びつき、争う必要がなくなるのなら、それ以上は何も望むことなどないと思ってきました。この婚姻は、両国が互いに血を流すことなく平和に暮らすための政略的なものだったはずです。それなのに……」
胸の内に留めておくべきだとわかっていても、言葉にするのを止められない。
涙交じりに想いを吐き出して、マナは顔をうつむかせた。
短い沈黙のあと、セイラムは小さく溜め息をつき、マナの肩に優しく触れて、少しばかり投げやりな口調で言った。
「大丈夫、あの人はきみをどうこう思ってなんかいないよ。あの人は、僕の存在が気に入らないだけだから」
「……なぜですか? セイラム様はこの国の王太子——陛下の嫡男なのでしょう?」
訴えるようなマナの言葉に、セイラムは困ったように微笑んだ。
静かに目を伏せ、遠い日の記憶を懐かしむように、ぽつぽつと言葉を紡いでいく。
「あの人にとって、愛すべき息子は唯一人。あの人が本当に愛した女性の子であるセイジだけだ。皮肉にも、そのセイジは王位継承権を手離してしまったけれどね」
「……セイラム様の騎士になるために?」
「それはどうかな。僕は、セイジには王位を継げない理由があったのだと思っているけど」
そこまで告げて、セイラムはくすりと切なく微笑んだ。
「王位を継げない理由……?」
「最近になって後悔してるみたいだけどね」
王位を継げない理由とはなんだろう。
マナがぱちくりと目を瞬かせていると、セイラムがマナの顔を覗き込み、穏やかな声で誘うように言った。
「ねえ、マナ。昔話をしようか」
***
その昔、リンデガルム国王には十三人の王子がいた。
リンデガルム王国は神竜の加護を受ける国。
王位継承権は代々、国を守護する神竜を手懐けた者に与えられていた。
ある日、国王は王子達を一堂に集め、王城の地下に眠る神竜を手懐けた者に王位継承権を与えると告げた。
王子達は我こそはと神竜の前に進み出た。
しかし、その竜は伝承に残る知性ある神竜とは程遠い存在だった。
ひとりは首をもがれ、ひとりは生きたまま炎に焼かれ、さらにひとりは八つ裂きに。
荒ぶる竜の神は、その場に集った王子達をひとり残らず殺してしまった。
王に残されたのは、病床に臥せって部屋を出られなかった第二王子と、まだ五つにも満たない幼い末の王子だけだった。
第二王子が国王の狂行を知り、やっとの思いで広場に駆けつけると、そこに残されていたのは無残な姿に変わり果てた兄弟達と荒れ狂う神竜、そして、その竜と対峙するふたりの子供の姿だった。
ひとりは幼い末の王子。
もうひとりは見知らぬ黒髪の少女。
ふたりを助けたい。
その一心で、第二王子は唄を歌った。
神竜の巫女でもあった末の王子の母君が教えてくれた、鎮めの唄だ。
気がつけば、さきほどまで荒れ狂っていた神竜が第二王子に首を垂れ、敬愛の意を表していた。
末の王子は無事に保護されたものの、不思議なことに、黒髪の少女を見た者は誰もいなかった。
病床の身でありながらも見事に神竜を手懐けた第二王子は、そうして王位継承権を手にすることになった。
***
「第二王子が神竜を手懐けたことで、被害の拡大は免れた。けれどその結末は、王にとっては不都合極まりないものだった。王の——父の望みは、王位継承権の争奪に関与しない、幼い末の王子だけが生き残ることだったんだ」
長い昔話を終えると、セイラムは組んだ指先をみつめたまま、苦々しく顔を歪めた。
グレゴリウス王は、自身が最も愛する末の王子に王位を継がせるために、皆殺されることを知っていながら、十一人の我が子を神竜に差し出したのだ。
そして王の計画では、病床にあった第二王子であるセイラムさえも、その場で死ぬ予定だった。
「なんて酷い……」
震える手のひらを握りしめる。
マナの瞳から、涙が一筋零れ落ちた。
「父が王位を継ぐまで、リンデガルムの王位を継ぐ資格は神竜を手懐けた者であることが何よりも重んじられてきた。神竜を手懐けられなかった父よりも、僕のほうが真の王に相応しいと明言する者も現れた。僕が王位継承権を得たことで、父の正妻だった母の地位は揺るぎないものになった。けれど、母は父が他の女性に情を移すことを良しとしなかった。当時、父の寵愛を受けていたセイジの母君は、側室とさえ認められないまま城を追われてしまったんだ」
「だから、陛下はセイラム様を憎んでいるのですか? セイラム様は、幼かったセイジさんを助けようとしただけなのに……」
「皮肉だろう? 僕はこのまま、最も認められたい相手に最も憎まれ続けることしかできないんだ」
涙で瞳を潤ませるマナに、セイラムはちからなく微笑んだ。
あの日、玉座の間でセイラムは、軍神と名高い国王の前に臆することなく立ちはだかり、怯えるマナを守ってくれた。
ただ父王と対等であるために、父王に認められるためだけに、病床の身体に鞭を打ち、国の
こんなにも、ぼろぼろになってしまうまで。
「本当は、僕はあのとき死ぬべきだったのかもしれない。厳しくも優しかった父の人が変わってしまったのは、僕が神竜を手懐けてしまってからだ。僕は父に認められたい。そのために、このリンデガルムの国王になりたい。だけど、そうなったらセイジは……」
憂いを帯びたセイラムの碧い瞳が翳りをみせる。
遠い過去を懐かしむように、彼はその眼をすっと細めた。
「僕の身体では王位を継ぐのは難しい。その事実を知ったとき、セイジが言ってくれたんだ。父のような超人になれないのなら、ふたりでちからを合わせればいい。戦場に立つことができない僕が国の内政を執り、代わりにセイジが王族として戦場に立つと。僕の剣になること——それが、幼かったセイジが立てた、騎士の誓いだ」
黙り込むマナの瞳をセイラムが覗き込む。
マナが微動だにできずにいると、セイラムは囁くように告げた。
「……でも、その約束のせいで、僕を王にすると誓ったせいで。セイジは身動きが取れなくなってしまったのかもしれない」
静まり返った室内に、時計の針がときを刻む音だけが響いていた。
——それならば、お前がマナ王女を娶れ。
妃を得て王位を継げと迫られたとき、セイジが言葉を詰まらせたのは、セイラムとの約束があったからなのだろうか。
霧の庭園でマナの腕を掴んだセイジの真剣な眼差しを思い出し、マナは両手をきゅっと握りしめた。
突然のテオドールの来訪でうやむやになっていたけれど、あのとき、セイジは確かにマナに何かを伝えようとしていた。
セイジに会って話を聞くべきだ、と。
マナにはそう思えてならなかった。
「セイラム様……わたし……」
意を決して沈黙を破り、マナはきりと顔を上げた。けれども席を立とうとしたその瞬間、マナの身体はその場に縫い止められてしまった。
マナの細い手首を握り締め、セイラムがゆっくりと首を振る。
「誓ってくれ、マナ。僕たちは国のために結婚する。たとえふたりのあいだに愛情がひとかけらもなかったとしても、それが一国の王家に生まれた僕たちの責任だからだ」
痛いほど真剣な眼差しと共に。
その言葉はゆっくりと、セイラムの口から紡がれた。
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