第7話 花嫁と兄王子

 息が詰まるほど、全身が強張っていた。


 また何か、セイジの気に触ることを言ってしまったのだろうか。

 泣きそうになりながら、マナは目の前の碧い瞳をみつめていた。

 眼を逸らしてしまったら、悪いのはマナだと認めたことになりそうで。


 マナにはセイジが怒る理由がわからない。

 セイジはあのとき、確かにマナとの婚姻を拒絶した。マナの出自を蔑む父王の言葉だって、否定しなかったはずだ。


「セイジさん……痛い……」


 鬼気迫るセイジの視線に耐えきれず、マナが弱々しく声を洩らした、そのときだった。

 霧のかかる峡谷に、澄んだ鳥の鳴き声が響き渡った。


 聞き覚えのあるその声に弾かれるように顔を上げ、マナは空を仰いだ。

 朝の光を反射してきらきらと輝く霧の中を、純白の鷹が優雅に舞っていた。


「ジークフリート……?」


 囁くようにその名を呼んで。涙ぐんでいたマナの顔が、ぱっと輝いた。


「テオドールお兄様がいらしたんだわ!」


 満面の笑みを浮かべ、マナがセイジを見上げると、セイジはわずかに戸惑いながら、マナの手を解放した。


 ジークフリートが現れる直前、セイジは何かを言いかけていたようにも思えたけれど、それを確認する勇気はない。

 今もなお注がれ続けるセイジの視線から逃れるように、マナは城門へ向かって走り出した。

 少し遅れて、セイジの靴音が後を追ってきた。



 石造りの城壁に囲まれた城門にふたりが駆けつけると、早朝の警備に就いていた兵が数人、門の前に集まっていた。

 遅れてきたセイジに気が付いて、兵士達が足早に近付いてくる。


「何事だ」

「セイジ様、城門の前に余所者が……」


 状況を問いただすセイジの声は騎士団長らしい威厳を感じさせるものだったが、応対した兵士はセイジの姿を目にすると、眉間に皺を寄せ、はたと動きを止めた。

 頭からずぶ濡れの王子兼騎士団長の姿が、相当異質に映ったのだろう。


 訝しげに眉を顰める兵士に向かって、セイジがこほんと軽い咳払いをしてみせると、兵士はきりりと敬礼し、ふたりを通用口へと案内した。

 城門の傍らに備え付けられた小さな戸口を、セイジが躊躇いなくくぐり抜ける。その背中を、マナは慌てて追いかけた。



***



 城壁の外には、朝靄に反射した陽の光がきらきらと輝く、幻想的な景色が広がっていた。

 その美しい光景の中、純白の馬を二頭従えた白い礼服の青年が、高く聳える城門をひとり見上げていた。

 紅茶色の髪と赤褐色の瞳をもつその青年は、通用口から出てきたふたりの姿に目を留めると、心底呆れた顔を見せた。


「……酷い格好だ」

「テオドールお兄様!」


 大きな溜め息などお構いなしに、マナは大声で兄王子の名前を呼んだ。両手を広げるテオドールの胸に勢い良く飛び込んで、満面の笑みでその顔を見上げる。

 ラプラシアを離れてそう長くもないのに、久しぶりの家族の顔が、ひどく懐かしかった。


「相変わらずのようだな」


 穏やかな笑みを浮かべ、テオドールはマナの足元を指差した。

 兄王子の指が指し示す先へと視線を落とすと、泥塗れの靴とスカートが目に入った。子供の頃などは、ドレスのまま兄王子を追いかけては泥塗れになり、その度にこうして仕方なく笑われたものだった。

 リンデガルムの王太子と婚約し、母国を離れた今になっても、マナは全く成長していない。

 兄王子にそう指摘されてしまった気がして、マナの頬がほんのりと紅く染まる。恥ずかしさのあまり勢いよく顔を背けると、テオドールはマナの頭をぽんぽんと撫でながら、隣に立つセイジに眼を向けた。


「貴方が妹の婚約者ですか」


 全身ずぶ濡れのセイジをまじまじとみつめ、テオドールが眉を顰める。

 恐ろしい誤解を含んだ兄王子の発言に、セイジが答えるより先に、マナは慌ててふたりのあいだに割って入った。


「違いますお兄様! こちらはセイラム様の守護騎士のセイジさんです」

「セイジ……?」


 一瞬、テオドールが放った鋭利な気配に、マナはどきりとした。

 ふたたび食い入るようにセイジをみつめ、テオドールが険しい表情を浮かべる。

 その視線に耐えかねたのか、セイジは一歩前に進み出ると、恭しく頭を下げた。


「ラプラシアの王太子殿下がおひとりで御出でになるとは思いも寄らず、歓迎の準備もできず、申し訳ございません」

「妹姫の婚姻を祝いに来たのです。主役は私ではないのですから、構いませんよ」


 セイジの謝辞を、テオドールは笑って受け流す。

 その言葉を耳にして、マナはようやく状況を理解した。


 どうやらテオドールは、本来なら今日催されるはずだったセイラムとマナの婚姻の儀式に、遠方からはるばる駆けつけたようだ。

 突然の来訪には驚いたものの、理由がわかれば何の不思議もないことだった。


「実は、兄の体調が思わしくなく、已む無く婚姻の儀を延期することになりまして、昨夜速馬を走らせたのですが……」

「それはそれは……所要で出先から真っ直ぐ参ったのですが、行き違いになってしまったようですね。ご安心ください。父には伝わっていることでしょう」


 険のある口調で事情を説明するセイジに澄んだ声でそう応えると、テオドールは爽やかな笑みを浮かべ、続けてマナに向き直った。

 その表情は先刻とは打って変り、真剣そのものだ。


「お前は大丈夫なのか。ラプラシアにいた頃に比べると、随分と憔悴したように見える。セイラム王子の心配も良いが、自分の身体のことも考えなさい」


 テオドールはそう言って、マナの両肩に優しく触れた。

 心配する兄王子に、マナはできるだけ明るく笑ってみせた。


「大丈夫です。元気だけが取り柄ですから」


 妹姫の素直な笑顔に安心したのだろう。

 テオドールは柔かに微笑むと、「少し待っていろ」と、ふたたびマナの頭を撫でて、そのまま道の端で主人を待つ純白の馬の元へと向かった。

 テオドールの背中を眺めながら、マナはほっと息を吐く。


「貴女はいつも、あのようにぽんぽんと頭を撫でられていたのですか?」


 突然、セイジの声が降ってきた。

 テオドールがマナから離れた一瞬で距離を詰めたようだが、その表情にわずかな苛立ちを滲ませている。

 セイジの棘のある態度に、マナはただただ首を傾げるばかりだった。



***



「まぁ! マルクルではありませんか!」


 テオドールに手綱を引かれてやってきた仔馬を目にして、マナは感嘆の声をあげた。

 生まれてまだ一年そこらの純白の仔馬が、つぶらな瞳でマナを見つめている。

 マルクルはマナがラプラシアで暮らしていた頃、王宮の厩舎で産まれた仔馬だった。

 普通の馬とは違い、額に二本の角が生えた純白の馬、ラプラシアの森に棲息する精霊馬ラプラスだ。


「可愛い妹の婚姻祝いにと連れてきたんだが、このまま引き渡しても構わないだろうか。わざわざ連れ帰るのも大変でね」


 おおらかに笑ってそう言うと、テオドールはマルクルの手綱をセイジに向けて差し出した。

 兄王子の計らいに、マナは信じられない思いで弾んだ声を上げた。


「よろしいのですか?」

「お前は随分とマルクルを可愛がっていたからな」

「ありがとうございます、お兄様!」


 満面の笑みを浮かべると、マナはマルクルの首にそっと腕を回し、頬を擦り寄せた。

 普段から感情豊かなマナではあるが、ここまではしゃいだのは久しぶりのことだ。

 ふと顔を上げれば、テオドールから手綱を受け取るセイジの姿が目に入った。微かに翳りのあるセイジの碧い瞳は、いつもよりもどこか物寂しく感じられる。


「妹が世話になっているようだな。感謝する」


 そう言って頭を下げて、テオドールはセイジに利き手を差し出した。

 軍人が握手を求める際に武器を扱う利き手を差し出すのは、相手に敵意がないことを示す、友好を表す行為だ。

 穏やかな笑みを浮かべるテオドールの手を、セイジが躊躇いがちに握り締めた。


 テオドールの周囲には、懐かしい草花の匂いが微かに漂っていた。

 ラプラシアの王族は、代々森と湖の精霊の加護を受ける。未成熟なままリンデガルムに嫁いだマナとは違い、次期国王であるテオドールもまた、精霊の加護による不思議な生命のちからをその身に宿していた。

 美しく才智に優れた兄王子はラプラシアの誇りでもあり、マナに取っても尊敬すべき存在であった。


「『黒衣の死神』、君とは別の場所で相見えることがないよう、祈っているよ」


 どこか棘のある口調でセイジに告げると、テオドールはふたたびマナのほうへ目を向けた。


「お兄様はいつ頃までこちらに?」

「悪いがすぐにラプラシアに戻る。父に伝えなければならないことがあるからな。セイラム王子には悪いが、今日が式の当日でなくて助かった。婚姻の儀式の際には余裕を持って訪れると伝えてくれ」


 先の様子とは打って変わった優しい声でそう言い残すと、テオドールは軽快な身のこなしでラプラスに跨がり、手綱を引いた。

 ラプラスの嘶きに呼応するように、霧の峡谷に澄んだ鳴き声が響く。上空を旋回していた白い鷹が霧の中から姿を現わすと、テオドールの視線の先の城下へと続く坂道に数名の騎士が姿を現した。


「元気で」

「お兄様も。お父様によろしくお伝えください」


 馬上からマナを抱き寄せ、耳元で別れを囁くテオドールの頬に、マナは親愛の意を込めて口付ける。

 霧に包まれた坂道を下る兄王子の姿が見えなくなるまで、マナはずっと手を振り続けた。



 テオドールの姿が完全に見えなくなると、セイジはマナを連れて足早に城門へと向かった。

 途中、思い詰めたようにうつむくセイジに、マナが訊ねた。


「黒衣の死神……?」

「戦場ではそう呼ばれているのでしょう。それだけ私が多くの敵兵を殺めてきたということです」


 マナに目を向けるでもなく馬の手綱を引きながら、セイジは応えた。

 以前、図書室で戦の話をしたときも、セイジは同じように苦々しい感情を露わにしていた。

 あのときの様子から、彼は戦場で人の命に手を掛ける自分自身を酷く忌み嫌っているのだと、マナはそう感じ取った。


 マナがこのリンデガルムに嫁がされた理由。

 そんなことは、わからない。

 けれど、今この国で自分が何をしたいのか、マナにははっきりわかっていた。


「……セイジさん、わたし、やっぱりお父様に相談してみます。陛下はご賛同なさらないかもしれないけれど、今、リンデガルムの政務を任されているのはセイラム様ですもの。セイラム様なら、お父様やテオドールお兄様とも、きっと分かり合えるはずだわ」


 セイジの歩幅に合わせるように小走りに後を追いながら、マナは笑顔でセイジを見上げる。


「……そうですね」


 つぶやいて、セイジは優しく微笑んだ。


 いつもそうだ。

 セイジがマナに微笑んでみせるのは、マナがセイラムやリンデガルム王国の役に立ちたいと口にするときばかりだった。


 セイジが喜ぶ顔が見たい。辛そうにしている顔なんて見たくない。

 これ以上、セイジがその手を穢さないで済むように、ラプラシアとリンデガルムの架け橋になる。

 マナがこの国に留まる理由なんて、それだけで充分だった。


「セイジさんて、セイラム様とリンデガルムが大好きなのね」

「……どういうことですか?」

「わたしがセイラム様やこの国のために役に立とうとすると、貴方はとても優しくしてくれるから」


 マナが声を弾ませると、セイジはわずかに言葉を詰まらせて、ふたたびマナに微笑みかけた。


「……そうかもしれませんね」


 ちょっぴり切なげにつぶやいて、セイジは遠方の空を見上げた。

 釣られるように顔を上げたマナの瞳に、帯状にきらきらと輝く霧の向こうで朝陽を受けるリンデガルム城の姿が浮かび上がって見えた。


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