第6話 花嫁と霧の庭園
霧深い峡谷に建つリンデガルム城の雨上がりの庭園は、より濃い霧に覆われて、数歩先の景色さえはっきりとは目視できないほどになる。
昨夜の雨は、夜明け前に降り止んだ。けれど、酷くぬかるんだ庭園の地面は、マナが一歩足を踏み出すたびに靴の先を飲み込むようで、あっという間に雨天時用のブーツが泥塗れになってしまった。
「息抜きに外の空気を吸ってきなさいだなんて言っていたけど、庭園がこの状態では息抜きになんてならないわね」
夜を徹してセイラムに付き添っていたマナを心配して、エステルは息抜きの散歩を薦めてくれた。けれど、行き先が雨と霧でぬかるんだこの庭園では、息抜きどころか気が滅入る一方だ。
独り言を口にしながら、マナはくすくすと笑いだした。
「……マナ?」
唐突に声がして、マナが歩みを止める。
霧が濃く、姿ははっきりと確認できなかったけれど、声だけで相手が誰なのかはすぐに判った。
「セイジさん……?」
思い当たった名前を呼んで、数歩前に進み出ると、目の前の霧が薄れるにつれて、相手の輪郭が徐々に鮮明になった。
「おはようございます。こんなに朝早くからお仕事ですか?」
マナが訊ねると、わずかに遅れてセイジの声が返ってきた。
「ええ、厩舎の飛竜の餌やりです」
「まぁ、それは大変ですね」
「そうでもありませんよ」
返事は聞こえるものの、セイジが近づいて来る様子はない。
不思議に思ったマナは、跳ねる泥にもお構いなしにぬかるみのなかを歩き出した。
はっきりと相手の姿が確認できる距離まで近付いて、ようやく目にした彼の姿にマナは驚きの声をあげた。
「ずぶ濡れじゃないですか! もしかして、昨夜からずっと外に……?」
「いえ、まぁ……少々感傷に浸っていまして」
マナの問いに決まりが悪そうに答えながら、セイジが濡れた前髪を掻きあげる。
胸元からハンカチを取り出したマナが、セイジの頬をつたう水滴を拭おうとすると、セイジは一歩後退し、はぐらかすように口を開いた。
「兄上の容態は……?」
セイジに問われ、マナは表情を翳らせた。
王の間で気を失ってから、セイラムは一度も目を覚ましていない。
ベッドの上で人形のように眠るセイラムの姿を思い出し、マナは黙って首を振った。
状況を察したのか、セイジもそれ以上、セイラムの件については触れなかった。
ふたりは無言のまま、霧の中をゆっくりと城に向かって歩きはじめた。
早朝のリンデガルム城は恐ろしいほどの静寂に包まれており、まるでこの世界にふたりだけが取り残されたような、そんな錯覚をしてしまいそうだった。
「昨日はありがとうございました」
沈黙を破ったのはマナだった。
気が昂ぶったグレゴリウス王に王の子を産めと言われたとき、マナの全身は恐怖で凍り付き、逃げ出すことすらできなくなっていた。
危険を顧みずに王の前に立ち塞がり、マナを庇ってくれたセイジの姿に、どれだけ救われたことだろう。
セイラムの守護騎士として任務を全うしただけだとしても、あのとき確かに、セイジはマナを絶望の淵から救ってくれた。
「あのあと、陛下とお話をされたのでしょう? わたしを庇ったために、恐ろしい仕打ちがあったのではありませんか?」
訊ねるマナに、わずかに緊張を滲ませる声でセイジは応えた。
「心配には及びません。父上は私に直接手を下すような真似はしませんから」
「よかった……」
セイジの言葉を聞いて、マナはほっと胸をなでおろした。緊張の糸が切れたように、その両手で顔を覆う。
ふたたび訪れた沈黙のなか、ふたりはようやく城の前に到着した。
「それでは、兄上をよろしくお願いします」
マナを振り返り、頭を下げてそう言い残して、セイジが扉に目を向ける。伸ばしかけたその手が取っ手に触れる、その前に、マナはセイジを呼び止めた。
「セイジさん、少し、お散歩をしませんか?」
心許なげにうつむくマナを振り返ると、セイジは躊躇いがちにうなずいた。
***
すでに朝日は昇っている時間だった。
周囲を色濃く覆っていた霧も徐々に薄れはじめている。もうじき庭園は、いつもと変わりのない薄く霧がかった風景に戻るだろう。
王太子の婚約者が他の男とふたりきりで密会をしているなどと噂が立てば、マナだけでなく、セイラムやセイジにまであらぬ疑いがかかるに違いない。
特別大切な話があるわけではない。それでもマナは、庭園を霧が覆い尽くしている今のうちに、セイジとふたりで話がしたいと考えた。
「……セイラム様には、わたしの他に誰か想う女性がいるのでしょうか」
霧に隠された道の先を見据えたまま、マナは胸に抱いていた疑問を口にした。
セイジが同じく道の先に目を向けて、淡々と問いに応える。
「それは初耳です。兄上は浮いた話は一切なさらない方ですので」
そう言って、わずかに間をおいて、セイジはふっと含み笑った。
「いや、昔からディートリンデのことだけは可愛がっておりましたが」
確かに、ディートリンデは女の子だ。
人間ではないだけで、女性であることに違いはない。
以前マナがそう言ったとき、セイラムは面白そうに笑っていた。
セイジでもそんな冗談めいたことを言うのだと考えると、なんだか可笑しく思えてしまって、マナはくすりと笑みをこぼし、それから小さく咳払いして、話を元に戻した。
「夜が明けるまでずっとお側についていましたけれど、セイラム様はわたしの手を握って譫言のように誰かの名前を呼んでいました。はっきりとは聞き取れませんでしたが、おそらく女性の名前です」
夜明け前には身動きひとつせずに静かに呼吸を繰り返して眠るだけになったものの、セイラムは昨夜寝室に運ばれてからしばらくのあいだ、青褪めた顔に脂汗を滲ませて、延々と譫言を繰り返していた。
内容は聞き取ることができなかったけれど、マナの手を強く握りしめ、必死に誰かの名前を呼んでいた。そんな気がした。
「政略結婚ですもの。セイラム様も、きっと誰かに叶わない恋をされているのだわ」
マナが軽く爪先を蹴り上げると、泥水が数歩先の道に跳ね、細かな飛沫を散らした。
「マナ……様も、やはり、以前仰っていた亡くなった彼のことを、まだ想われているのですか」
「……どうかしら」
セイジの問いに、マナは曖昧に返事をする。
今のマナにとって、十七歳の誕生日に蘇った大切なひとの思い出は、美しくて少し哀しい記憶の一部に過ぎない。
ディートリンデに乗って空を飛んだあのときに思ったように、過去に縛り付けられていたマナの心は、すでにセイジが解き放ってくれたのだから。
この先ずっとセイジを想うことが赦されないのだとしても、いっときでも新しい恋をするきっかけをくれた、そのことに感謝するマナの気持ちは変わらない。
昨夜、グレゴリウス王の前でセイジが口にしたマナを拒絶する言葉も、マナが先に進むための後押しのようにさえ思えていた。
「陛下は、ラプラシアで生まれたわたしを下賤な身だと仰いました。わたしが婚約者でなければ、セイラム様があんなにも陛下に疎まれることはなかったのでしょうか」
認めて欲しい、受け入れて欲しい相手に拒絶される。
あのときのセイラムと今のマナは、きっと同じだ。
「わたしは何の為に、故郷を離れてこの国へ来たのでしょう。陛下に疎まれて、貴方にも拒絶されて、そのうえ……」
「拒絶など、そのような真似をした覚えはありません!」
マナのつぶやきは、語気を荒げたセイジの声に遮られた。
驚いたマナが、弾かれるようにセイジの顔を見上げる。
「あのとき……陛下がわたしを妻に娶れと仰ったとき、できない、と貴方は言いました。あれは、そういうことでしょう?」
「違う!」
ゆっくりと瞬きを繰り返して訊ねるマナのか細い手首を引っ掴んで、セイジはマナに詰め寄った。
握り締められた手首が痛い。
それなのに、マナはその手を振り解こうとは少しも思わなかった。
「セイジ、さん……?」
「違うんだ。マナ、私は……」
セイジの真剣な眼差しに、深く澄んだ碧い瞳に、吸い込まれてしまいそうになる。
わずかな時間であるはずなのに、霧に包まれた庭園のときの流れが止まってしまったようだった。
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