第2話 花嫁と贈り物
峡谷の岸壁に沿って、あるいは岸壁を一部壁代わりにして造られた石造りの家々が、細長い坂道の脇に建ち並ぶ。リンデガルム峡谷特有の街並みを背景に、セイジとエステルに連れられて、マナはリンデガルムの城下町へと向かっていた。
無言で先を行くセイジの歩調は思いのほか速く、マナとエステルは度々駆け足になりながらその背中を追った。
城の外に出てからというもの、セイジはずっと何事か考えを巡らせているようだ。おそらく、兄王子の言葉に相当納得がいかなかったのだろう。
気持ちはわからないでもないが、それにしても、元々上背のあるセイジと小柄なマナでは足の長さに違いがありすぎて、この調子で進まれてはいずれ逸れるのも時間の問題のように思える。
立ち込める霧でいよいよ視界の先がはっきり目視できなくなった頃、マナは思い切ってセイジに駆け寄り、上着の端をぎゅっと掴んだ。
「どうかしましたか?」
驚いたように振り返ったセイジが、眉を顰めてマナに尋ねた。
思いがけず目と目が合い、慌てて足元に視線を落とすと、マナは息を整えてつぶやいた。
「……速いです」
「はやい?」
「わたしの足では追いつけません」
言われてようやく気付いたのだろう。
マナの後方でゆっくりとうなずくエステルの顔を確認すると、セイジはマナに向き直り、肩で小さく息をするマナの足先から顔まで視線を巡らせて、深々と頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
あまりにも素直に謝られたものだから、マナはちょっぴり戸惑った。
もう少し邪険にされるものだと思っていたけれど、城を出る前はあれほど不機嫌そうにしていたのに、いざ城の外に出てしまえば、セイジは予想外に真摯だ。
護衛を任されているという責任感からのものか、セイラムの執務室で感じたような、今朝のマナの軽率な行動に対する嫌味な態度は全く感じられない。
咎めるつもりはないことを伝えようと、マナはセイジの顔を覗き込んだ。同時にセイジが顔を上げ、ふたりの視線がふたたび交わる。
澄んだ碧い瞳に真っ直ぐにみつめられ、マナは慌ててセイジから顔を背けた。
ラプラシアで飛竜に乗せてもらったときも、今朝、騎士団の宿舎で顔を合わせたあとも、セイジはいつも黒鉄の鎧を身に纏い、兜で顔を隠しており、表情が見えないことと淡々とした口調も相まって、感情がわかりにくい。けれど、ラプラシアの丘で初めて出会ったときから多少なりとも彼に好意を抱いているマナとしては、立場上、兜で顔を隠した状態のセイジのほうが、幾分付き合いやすかった。
兜を被っていないセイジは髪の色こそ違うものの、セイラムに似て整った顔立ちをしている。仮にも王族なだけあって、立ち居振る舞いにも品があるし、街に出かけるために着替えた服も良く似合っていて、正直に言ってしまえば、マナの好みの男性そのものだった。
「貴方が頭をさげる必要はありません」
まともにセイジの顔を見ることもできず、マナは一言だけ告げると、早足にセイジの横をすり抜けた。
坂道の終わりに、点々と明かりが灯る薄靄のかかった街並みが見えた。
***
リンデガルム王城の城下町は年中霧に覆われて、この街で暮らす人々は、日中陽の光を拝むことさえままならない。峡谷の頂付近に位置する王城だけが、この国で朝陽を望むことができる唯一の場所のようだ。
霧に覆われた薄暗い城下町では、日中もランプの明かりがそこかしこに見られ、不思議な趣が感じられる。けれど、他人に関心を示さない街の人々の様子には、どこか物悲い雰囲気があった。
度々すれ違いはするものの、この町の住人は、リンデガルムを訪れて間も無いマナはおろか、王族であるセイジにすら気付いていないようだった。
「国を守る竜騎士で、この国の王子様なのに、誰も貴方に気がつかないのね」
「この国の人間は、例え気が付いても王族に声を掛けるような真似はしません。彼らが崇拝すべき相手は絶対的支配者であるグレゴリウス王、唯一人ですから」
振り返ったマナに、セイジは素っ気なく応えた。
「ラプラシアでは、王族が街中を歩こうものなら大変な騒ぎだったわ。テオドールお兄様なんて先々で女性に囲まれて、いつも苦笑いしていらしたもの」
マナの兄王子であるテオドールは、整った顔立ちと爽やかな物腰に加えて武芸にも秀でており、王都の年頃の女性のみならず、お年寄りから子供にまで大変人気があった。
人垣に囲まれて困ったように微笑む兄王子の顔を思い浮かべ、マナはくすくすと笑った。
「そういえばテオドール様は、婚約祝いの宴の際にはご不在でしたね」
「……お兄様は、わたしの婚約に反対でしたから」
「そうでしたか……」
何か思うところがあるのか、セイジは一瞬表情を曇らせた。けれど、心配して顔を覗き込むマナに気がつくと、表情を和らげて道の先を目線で指した。
雑貨屋らしき店の前で、エステルがふたりを手招いているのが見えた。無駄話に集中して、危うくエステルと逸れてしまうところだった。
歩調を速めて、改めてマナは思った。
——やっぱり、このひとと居るのは楽しい。
***
「素敵! お伽話に出てくる魔法のお店のようだわ」
城下町の南の端に位置する小さな宝飾店の店先で、マナは感嘆の声をあげた。
出窓に覗く骨董品の小物に惹き寄せられるように、可愛らしい造花があしらわれたドアをくぐると、カウンターに並ぶ宝飾品の数々がマナの目に映った。
店内には髪飾りや指輪などの小物から、付け毛や
ラプラシアでも見たことがあるありふれた宝石細工も並んでいたものの、取り分けマナが気に入ったのは、他では見られない不思議な輝きを放つ黒い水晶の装飾品だった。
「綺麗な石……」
「この峡谷で採れる黒水晶です」
うっとりとして魅入っていると、いつの間にか隣に立っていたセイジが説明をはじめた。
リンデガルム峡谷の地下には陽の当たらない濃霧に覆われた洞窟があり、そこには黒い苔が生息していて、その苔を含む岩肌に散りばめられた鉱物が結晶化し、闇のように深い漆黒の水晶になるらしい。
「なんだか夢のない説明ね」
「黒水晶はリンデガルムの代表的な鉱物で、この国に暮らす者なら物心ついたときから目にしていますから」
「そうなの。わたしはとても綺麗だと思ったのだけど」
「そうですか」
そのままセイジは黙ってしまった。
マナが訴えるようにセイジの顔をみつめていると、セイジはしばらく気が付かない振りをしていたものの、痺れを切らしたように溜め息をついた。
「なんですか、その物欲しそうな表情は」
「こういうとき、気の利く殿方は女性が欲しがるものをプレゼントしてくれるものだと思っていたわ」
「……兄上にでもおねだりしてください」
悪戯っぽく微笑むマナに、セイジはうんざりしたように冷たく言い放つ。けれど、その口振りとは裏腹に、どこかまんざらでもないようにも見えた。
「見慣れてしまっているのなら、贈り物にしてもセイラム様はお喜びにならないかしら」
「特別値の張るものではありませんが、マナ様がお選びになったものなら喜ぶと思いますよ」
「そうかしら」
つぶやいて、マナは金の指輪を手に取った。黒水晶が花のように散りばめられた繊細な装飾を見せると、セイジは優しく微笑んだ。
***
「セイジさん、貴方って思っていたよりもずっとお堅い考えの人なのね」
薄明るい坂道を歩きながら、マナはくるりと振り返った。
「お堅い……?」
「結局、何も買ってくれなかったわ」
「女性に、まして兄の婚約者に贈り物なんて、普通はしませんよ」
「ラプラシアで初めて会ったときは、もっと軽薄な感じがしたのに」
茶化すようにマナが言うと、セイジは小さく溜め息をつき、目を逸らした。
「あれは、きみが城の使用人だと思っていたからだ。ラプラシアの王女で、兄の婚約者だと知っていれば、あのような行動は取らなかった」
周囲の者には聞き取られないよう小声でつぶやきながら、セイジはお土産包みを抱えて先を歩くエステルの姿を確認する。この件に関しては、他の者には知られたくないとでも言うように。
マナにとっても、あの日の丘での出来事は、誰にも言えない秘密になっていた。
「……どきどきしたわ。あんなふうに異性に触れられたことなんて、無かったから」
飛竜に乗って空を飛んだあのとき、竜の背中から振り落とされないように、セイジはしっかりとマナの身体を抱きかかえていてくれた。
あのときの彼の腕の感触を、マナは今でもはっきりと覚えている。
無意識に両腕を抱いて、マナは歩みを止めた。
立ち止まったまま動かないマナに、セイジがゆっくりと歩み寄る。
「それはすまないことをした」
素っ気なくそう言うと、セイジは小さな子供にするように、くしゃっとマナの髪を撫でた。
他の誰かに同じことをされたなら、不快に思いそうなものなのに、セイジにされると無性に嬉しくて。単純な自分自身に、マナは心底呆れてしまった。
「もしかしてセイジさん、わたしのこと、子供扱いしていませんか?」
恨めしげな目で見上げるマナに、セイジが微かに笑んでみせる。
普段が無愛想なものだから、ちょっとした表情の変化にも感情が揺さぶられてしまう。
熱をあげる頬を隠すようにセイジから目を背けると、マナはエステルを追いかけて坂道を駆け上がった。
***
城門に着いた頃にはすっかり陽が傾いており、リンデガルム城は紫と紅が混ざった不思議な霧に包まれていた。
マナとエステルを城に送り届け、セイジはその足で騎士団の宿舎へ向かう。
なんの後腐れも感じさせないセイジの背中を、マナは言葉もなく見送った。
「あら、マナ様、ご自分のぶんも買われたんですね。とてもお似合いですよ」
城の大扉をくぐった矢先、エステルが笑顔でマナに言った。
なんのことかと尋ねると、エステルは怪訝な表情で首を傾げたあと、マナの編んだ髪にそっと手を伸ばした。
ふたたび差し出されたエステルの手のひらで、雪の結晶を模った黒水晶の髪飾りが、きらきらと輝いていた。
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